第20章-5


 ペンダントヘッドを押さえるとあふれるように映像があらわれた。――ふむ。前と違ってだいたいがくっきり見える。――ああ、かしわだ。こいつは本当にこの人を愛してたんだな。間違った部分が多いにせよ、それだけは確かだ。――っと、ここだ。教員時代。これが古川祐次か。しかし、顔の半分はつぶれてる。ん? なんだこれは。――なるほど、やっぱりそうか。――そして、またしても柏木伊久男だ。けんしわを寄せ、今にも泣き出しそうな表情をしてる。それに、古川おり。これも潰れてるがひどけんまくっかかってきてる。ノートを出し、――ああ、『悪霊』だ。


「ふう――」


 けんたいかんを払うように彼は首を振った。嘉江の顔は青ざめている。


「それで?」


「ええ、だいたいわかりました。間違ってるとこがあったらてきして下さい。まずは柏木伊久男と知り合った頃の話にしましょう。その頃のあなたには恋人がいた。紫織の兄の古川祐次という男です。あなたはその男から酷いちを受けていた。今で言うところのDV男ですよ」


 嘉江は写真をつかんだままだった。手はきざみにふるえてる。


「古川というのは相当のお金持ちだったのでしょう。びっくりするくらい広いおしきが見えました。あなたのご両親は古川の家と付き合いのある教育家で、お父様はかいいんもされていた。そういうこともあって警察にも顔がくってわけです。私を助けてくれたのもそのえんがあったからなんでしょう」


 ひたいに指をえ、彼は思考を整えてる。頭の中は受け取った映像でうずいていた。


「その当時のご主人はどうりょうというだけで、まあ、向こうはどうだったかわかりませんが、少なくともあなたはどうとも思ってなかった。しかし、お父様には気に入られていたようだ。それで、おさなみの仕事も世話してもらった。それだけ優しい方だったんでしょう。ただ、そういうのが鼻につく場合もある。柏木伊久男もそう思っていたのかもしれませんね」


 なにかに気づいたというような顔をして嘉江は立ち上がった。せんこうそなえ、手を合わせてる。


「あなたは柏木伊久男の気持ちを知っておられた。だから、恋人からぼうりょくを受けてることも相談したんです。あの男は何度か話に行ったんでしょう。そうでなければ『悪霊』という言葉を紫織が残すはずがない。違いますか?」


 背中はわずかばかり動いた。彼は鼻に指をあてている。


「柏木伊久男は『悪霊』というグループに入っていた。ご主人にさとされて抜けはしたが、古川祐次をおどためその名前を出した。もしかしたら当時の仲間を連れて行ったこともあるかもしれない。なぐり殺したときにいた連中です」


「それはわかりません。私はただつらくて相談しただけですから。あの人は『なんとかしてやる』と言ってました」


 指は止まった。目は細められている。


「なるほど。すらしてないってことですね? あの男が勝手にやったことだと」


「そうは申してません。ただ、事実としてそうなんです。私が相談すると柏木さんはこころよく引き受けてくれました。でも、まさかあんなことになるなんて」


「いいでしょう。私もあなたが殺人をらいしたとは考えてないんです。ただ、結果的にはそうなってしまった。柏木伊久男は何度話に行っても聞く耳を持たない古川祐次に腹を立てた。それに、そもそもあなたに暴力を振るってるのが気に食わなかったんでしょう。これ以上脅しても意味が無いと考えたあの男は殴りつけ、――ま、びんなんかで殴ればそうなるでしょうが、殺してしまった」


 ふたたび指は動いた。思考はまとまりつつある。柏木伊久男のストーリーが読めてきたのだ。


「あの男はめんしきの無い人間を殺したと言い立てたようですが、それもあなたを守るためだった。関係がわかればしょくたく殺人と思われる可能性もある。だからなんくせをつけ、けんに持ち込んだ上で殴った。しかし、死ななかったとしてもしょうがいではたいされるでしょう。そうと知っていながら、あの男はえてそうしたんです。とことん間違ってはいるもののあなたを愛していたからです。それはわかってたんですよね?」


 うなずくのを見て、彼は口許をゆがめた。風が線香のけむりを散らしてる。


「柏木伊久男はけいしょにぶち込まれた。ま、面識の無い人間を殴り殺したと言い張ってるんだ、しゃくりょうなしってやつですね。あなたはそのとき声をあげることもできたはずですよ。しかし、そうはしなかった」


「怖かったんです。古川とは家族ぐるみのつきあいでした。それが突然あんなことになって。それに誰もあの人が暴力を振るってるなんて知らなかったものですから、それを言うのもはばかられて」


「なるほど。まあ、それもいいでしょう。私はだんざいに来てるんじゃありません。事実を知りたいだけなんです。――そうですね、ふむ。誰も知らないはずだったが、ただ一人、妹の紫織は気づいた。それで、あなたに食ってかかってきた。そういうことですね?」


 嘉江はぶつだんを見つめた。横顔にはありありとけんが浮かんでる。


「そうです。あの子のはほんと酷い子でした。気に入らないことがあると感情をき出しにしてったり、わめいたり。私のクラスはあの子のせいでちゃちゃにされてたんです。しかも、私と祐次さんのことを知ってるものだから好きほうだいして」


 向き直った顔にも嫌悪はあらわれたままだった。彼はわからない程度にほほをゆるめた。ここまでくれば、だいたいすべてがつながるはずだ。


「あの子はお金をせびってくるんですよ。――その、言いたくもありませんが、私がどういうときにどんな顔してたとか、耳にしたくないことばかりならべて。そういうのをお兄さんから聴いては、それをネタにってくるんです。ほんと最低な兄妹。私はあの二人にどれだけ人生をくるわせられたか」


 指を突き出し、彼は目を細めた。嘉江はにらむように見つめてる。


「それで、あの日ですね。古川紫織が死んだ日です。彼女はあなたをうたがっていた。そこのところはよくわからないが、おどされてると聴いてたのかもしれない。しかも、兄さんは殺されてしまった。紫織はあなたが裏で糸を引いたと思ったんでしょう、だから、『悪霊』と書いた紙を見せてきた。もしかしたらですが、あれは古川祐次の書いたものだったんじゃないですか?」


「そうです。祐次さんの字でした」


「あなたはそれをうばおうとした。そこは見えました。しかし、紫織はノートをつかんだまま笑っていた」


 目からは光が抜け落ちていった。顔全体もぼうっとしたものになっていく。


「それから?」


「いや、そこから先は見えませんでした。あなたは見てなかったか、見ていてもかくそうとしてるかなんでしょう。ただ、それだってどうでもいいことなんです。今となってはね」


「そうでしょうか? 先生は本当にそう思ってますか?」


「いや、そう訊かれると困りますが、今は昔のことをとやかく言ってる場合じゃないんですよ。それに、あなたが手を下していたらノートをそのままにしておかないでしょう。普通はそうなるはずです。――ま、他に考えられることもありますがね」


 あごかたくなっていった。彼はその顔を見つめてる。


「私に見えたことだけで話しましょう。ノートを奪おうとしたあなたを紫織はののしってきた。そして、屋上から落ちたんです。ノートには『悪霊』と書いてある。しかも、殺された兄さんの字でね。もちろんそれは問題になった。それであなたは教員をめた。しかし、きっかけに過ぎなかったんじゃないでしょうか。古川祐次が殺されたときには辞めようと思っていた。そうですね?」


「ええ、そう思ってました。こんな私がきょうだんに立ちつづけるなどできるわけがありません」


「そういうあなたにご主人はずっと寄りってくれた。ようかんって下さったとき、こう言ってましたね。『あの人はいつも私をゆるしてくれた。沈みこんでいく私を沈みきる前に救い上げてくれた』と」


 ふたたびせんこうそなえ、嘉江は立ち上がった。たくわきを通りながら湯飲みをのぞきこんでいる。


「そうです。本当に優しい人でした。あのことは知ってましたがなにも訊かず、はげましつづけてくれたんです。――お茶をれますね。ひどくのどかわいて」


「それで、あなた方は結婚された。しかし、柏木伊久男からするとそれは受け容れがたいことだったんでしょう。その感情はご主人の方へ向かった。だから、しゅっしょしてもこの近くに来ることはなかった」


「そうだったのかもしれません。柏木さんはそうおっしゃりませんでしたけど」


「あの男がやって来たのはご主人のくなった直後ですね。十二年ほど前のことだ。以前にも住んでいた線路向こうに部屋を借り、そこで平子さんから相談を受けた。たぶん、この二人は前から知りあいだったはずです。しょうがいたいされたのも知ってたんでしょう」


 きゅうを持つ手は止まった。唇はふるえてる。


「相談を? それはどういった」


「その頃、平子さんはりんじんとのトラブルをかかえていた。そこに柏木伊久男は関わってるはずなんです。それについてなにか聴いてませんか?」


「いいえ、知りません」


「そうでしたか。では、平子さんのことはどうです? よく知っておられますか?」


「よく知ってるとまではいきませんが、年も近いし、少しくらいなら」


 彼は顔を突き出した。嘉江は顎を引いている。


「奥さん、私が知りたいのはここから先なんですよ。十二年前に線路向こうでなにがあったか。それがこの事件のかぎになると思ってるんです。教えて下さい」

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