第20章-2


 カンナはさんどうにいた。あまりにも遅いし、千春の様子もおかしい。いや、おかしすぎる。ごく普通のことを話してるのに表情がだんだんとぼしくなっていくのだ。居たたまれなくなったカンナは「ちょっと見てくるね」と言って外に出た。


「おっ、カンナも見に来たのか?」


 間の抜けた声に顔をあげると彼はいやに楽しそうだ。カンナはいらいらした。


「違うわよ。遅いから出てきたの」


「そんなに遅かったか?」


「遅いなんてもんじゃないわよ。どんだけ遊びまわってんの? だいいち今は営業時間中よ。飛び込みのお客さんが来たらどうすんの」


 声はひびき渡った。二人はベビーカステラたいの前にいる。ちょうど手が空いたようで笑いながらお姉さんが声をかけてきた。


「あなたたち、そこのお店の人でしょ」


「あ、はい。そうですけど」


「十万もしてるからどんな感じかと思ってたけど、けっこう若いのね」


 カンナは口をとがらせた。それだって気に入らなかったのだ。十万の利益出すのがどれだけ大変かわかってる? 占ってるのはあなただけど、私だってけっこういそがしいのよ。そう考えつつもほほまっていった。このように訊かれたのだ。


「えっと、間違ってたら悪いけど、ご夫婦だったりするの?」


「え? 私たちのことですか?」


「だって、すごく仲良さそうだから」


 やだ、そんなふうに見えたんだ。でも、夫婦って。うわづかいに見ると口許はゆがんでる。――ちょっとなによ、その顔は。


「結婚したばかりとか? ま、初めのうちはそういうもんよね。若けりゃなおさらだし」


「はあ」


 腕を組み、お姉さんはこうに見つめてきた。溜息のような音が聞こえてくる。


「私もいろいろあったのよ。ほんといろいろね。初めに結婚したのがちょうどあなたくらいの年だったの。相手だってこの人くらいだったわ。とおくらいはなれててね、そりゃ仲が良かったわよ」


 っていうか、勝手に夫婦にされちゃったわ。だけど、この話ってなに? カンナは首を引いた。お姉さんは遠くを見つめてる。


「浮気よ。浮気」


「は?」


「それで別れたの。男なんてそんなもんよ。若い奥さんがいるってのに他の女のとこふらふらってね。この人もそういう顔してるから気をつけなさい。うんとめつけてやるの。そうしないと後で泣きを見るんだから」


 なんだかよくわからなかったけどカンナはうなずいてみせた。彼はまだ口許を歪めたままだ。――もう、なんでなにも言わないの?


「あの、」


 そう言って、カンナは振り返った。これで戻ったらぼうっとした千春ちゃんがいるわけでしょ。いずれにしたって、いいこと無いわ。


「すみません。私たち人を待たせてるんで」


「え?」


「その、店で人が待ってるんです。だから、」


「ああ、そうなの。じゃ、この話は次のかいにね。私はここにいるからまた会いに来て」


 どうして? なんでそうなるのよ。そう思いはしたもののカンナはとりあえず頭を下げておいた。お姉さんはにこやかに手を振っている。






「ごめんね、千春ちゃん。そこで屋台のお姉さんに捕まってて、」


「ううん、大丈夫よ」


「いや、悪い。俺は焼きそば屋台つくるの手伝ってたんだ」


 彼が来ると表情は戻った。――ふうん。カンナは奥に行き、コーヒーをれはじめた。


「だけど、あれだな。やっぱ祭りっていいよな。こう、気持ちが盛り上がるっていうか、下らないことを忘れさせるっていうかさ。――ああ、そうだ。焼きそば屋のじいさんがいい人でさ、五つ、六つタダでくれるって言うんだよ。はじまったらみんなで行こうぜ」


「そんなに要らないでしょ。誰が食べるのよ」


「いや、千春、屋台の焼きそばなんて三つくらいがちょうどいいんだ。知らないのか?」


「知るわけないじゃない。それはどっから出てきた情報なのよ」


 こぽこぽと落ちゆくコーヒーを見つめながらカンナは真顔になっていった。――いつも通りに思えるけど、やっぱりどこか違ってる。ん? もしかして、「よりを戻しましょ」とか言いだすんじゃないでしょうね。でも、私のいる前で?


「これは経験的けんってやつだな。二つだと物足りない。四つになるとゲップが止まらなくなる。たんすいぶつでな」


「ほんと、あなたって幾つになっても馬鹿なのね。この前、具合悪くなったばかりでしょ。そんなに食べたらまた熱出すんじゃない? ほら、神戸に行ったときも似た感じのことあったじゃない。肉まんの食べ比べするとか言って、」


 またはじまった。あのときのあなたはどうだった話ね。カンナは窓を見た。しがれ入り、光がまってる。――きっと私には自分を見つめ直す時間が必要なんだ。ほんと旅に出たいな。そう思った瞬間、のうには海や山が浮かんできた。


 ううん、違う。二人でって思ったこともあったけど、今は一人がいい。そういえばあの人もそういうのしたって言ってたな。九州に行ったんだっけ? だけど、千春ちゃんは「自分を見つめ直すなら北の方」って言ってた。でも、北ってどこ? まあ、北海道もあるけど、あそこは遊びに行くとこだし。じゃあ、青森とか、岩手?


 カンナは肩を落とした。だったら、日本海側もありよね。誰もいない砂浜を歩いたりするの。海は荒れてるわ。カモメが灰色の空を飛び、白い波は何度も打ち寄せてくる。私はトレンチコートなんか着ちゃって、えりを押さえながら歩くの。――ん? じゃ、新潟でもいいんじゃない。しばらく帰ってないしな。いやいや、これも違う。私はすべてを打ちててここに来たんだ。


「カンナちゃん?」


「え?」


「どうしたの?」


 コーヒーは落ちきっている。――うん、このじょうきょうするには一人暮らしするしかないのかも。旅に出てる場合じゃないのよ。


「ごめんなさい。考えごとしてて。――はい、食べましょう。千春ちゃんがまたまた持ってきてくれたのよ」


「おっ、こいつは美味そうだな。栗クリームの乗ったパンか?」


「そう。ほんと美味しいのよ。食べてみて」


「――ん、マジで美味いな。このクリームすごいぞ。もう栗クリームじゃないな。クリクリクリクリ栗クリームだ」


 って、なによ、その感想は。そう思いながらもカンナは「君じゃないと駄目なんだ」というのを思い出していた。――ま、半分程度は言わせた部分もあるけど、私はこの人にとってそういう存在になってるんだ。でも、千春ちゃんは?


「なんだ? 二人とも食べないのか? だったら俺がもらっとくぞ」


 千春はひたいおおってる。カンナも手を伸ばしそびれていた。


「おい、マジで食っちまうぞ。いいのか?」


「いいわよ。私、あまり食欲ないから」


 は? といった顔が向けられると千春はうなずいた。このきっかけを待っていたのだ。


「その、ちょっと悩んでることがあるのよ」


「悩んでる? めずらしいな。どうしたんだ?」


「あのね、デートにさそわれてて、」


「デート?」


「うん、来週なんだけど、どうしようかって思ってるの。その、会社のどうりょうっていうか、こうはいなのよ」


「へえ、どんな人?」


 千春は首を引いた。唇を引きめながら二人を見つめてる。


「そうね。顔もまあまあだし、お金もそこそこ持ってるの。お家はやまで、お父さんは会社経営ですって。彼もフェラーリに乗ってるわ」


「すごいじゃない。そこそこどころか無茶苦茶お金持ちでしょ。千春ちゃん、それってたま輿こしなんじゃない?」


「まあね。でも、やっぱりいろいろ考えちゃうのよ」


「なにを?」


 意外な展開に混乱しかかっていたもののカンナは口を動かしつづけた。――さ、どういう反応するの? くさえんの元恋人が玉の輿に乗っちゃうかもしれないのよ。


「だって、私もけっこうな年だし、これからおつきあいするなら結婚もに入れなきゃでしょ? でも、そんなとこに私なんかが行ってもいいのかなって」


「なに言ってんのよ。千春ちゃんなら絶対大丈夫だって。もし、その会社経営の父親がなんくせつけてくるなら私が話つけてやるわ」


「やだ。そこまでいってる話じゃないのよ。デートに誘われたのどうしようかなって思ってるだけだから」


 そこで千春は顔をあげた。彼は首を伸ばしてる。がらりと戸があいたのだ。


「おっ、兄ちゃん、いたな」


 ハゲ頭をでながら男が入ってきた。手にはみょうなものを持っている。


「どうしました?」


「いや、どうしたって程のことはねえんだけどよ。ほれ、こいつを渡しとこうと思ってな」


「それは、――ああ、祭りでたたいてる」


「そう、うちわだいだ。しきには欠かせねえもんさ」


「貸して下さるんですか?」


「下さるってな。兄ちゃん、そんなにかしこまらなくたっていいんだ。ほら、お前さんとはいろいろあったしよ、かしわさんのことも調べてくれてるようだから買っといたんだ。もらってくれ」


「いいんですか?」


「いいってことよ。気持ちってやつだ。――っと、そのお姉ちゃんにも持ってきたが、もう一個あった方がよかったか? いや、しかし、えらくれいじゃねえか。れちゃうくれえだな。こん人はカミさんかい?」


 カンナは頬をふくらませた。なによ、このハゲ、私にはなにも言わなかったくせに。そう思ってるとこう聞こえてきた。


「いや、違いますよ。そんなんじゃないんで。――カンナ、しまっといてくれ。祭りのとき一緒に叩こう」


「あ、はい」


 口をすぼめながらカンナは受け取った。目許はゆるんでいく。――さっき、「ご夫婦?」って訊かれたときはなにも言わなかったのに、千春ちゃんのときは「違う」って言った。


「どうした? なんで笑ってる?」


「え? 別になんでもないけど、」


「それにしても、いいときに来て下さりましたね。ひとつ訊きたいことがあったんですよ」


「ん? この前のことでか?」


「そうなんです。しかし、ちょっと外でお話してもいいですか?」


「ああ、かまわねえよ」


 二人は出ていった。首を伸ばしたカンナは身をすくめてる。彼の横顔にそれまで見たことのない表情が浮かんでいたのだ。

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