第20章-2
カンナは
「おっ、カンナも見に来たのか?」
間の抜けた声に顔をあげると彼はいやに楽しそうだ。カンナは
「違うわよ。遅いから出てきたの」
「そんなに遅かったか?」
「遅いなんてもんじゃないわよ。どんだけ遊びまわってんの? だいいち今は営業時間中よ。飛び込みのお客さんが来たらどうすんの」
声は
「あなたたち、そこのお店の人でしょ」
「あ、はい。そうですけど」
「十万も
カンナは口を
「えっと、間違ってたら悪いけど、ご夫婦だったりするの?」
「え? 私たちのことですか?」
「だって、すごく仲良さそうだから」
やだ、そんなふうに見えたんだ。でも、夫婦って。
「結婚したばかりとか? ま、初めのうちはそういうもんよね。若けりゃなおさらだし」
「はあ」
腕を組み、お姉さんは
「私もいろいろあったのよ。ほんといろいろね。初めに結婚したのがちょうどあなたくらいの年だったの。相手だってこの人くらいだったわ。
っていうか、勝手に夫婦にされちゃったわ。だけど、この話ってなに? カンナは首を引いた。お姉さんは遠くを見つめてる。
「浮気よ。浮気」
「は?」
「それで別れたの。男なんてそんなもんよ。若い奥さんがいるってのに他の女のとこふらふらってね。この人もそういう顔してるから気をつけなさい。うんと
なんだかよくわからなかったけどカンナはうなずいてみせた。彼はまだ口許を歪めたままだ。――もう、なんでなにも言わないの?
「あの、」
そう言って、カンナは振り返った。これで戻ったらぼうっとした千春ちゃんがいるわけでしょ。いずれにしたって、いいこと無いわ。
「すみません。私たち人を待たせてるんで」
「え?」
「その、店で人が待ってるんです。だから、」
「ああ、そうなの。じゃ、この話は次の
どうして? なんでそうなるのよ。そう思いはしたもののカンナはとりあえず頭を下げておいた。お姉さんはにこやかに手を振っている。
「ごめんね、千春ちゃん。そこで屋台のお姉さんに捕まってて、」
「ううん、大丈夫よ」
「いや、悪い。俺は焼きそば屋台つくるの手伝ってたんだ」
彼が来ると表情は戻った。――ふうん。カンナは奥に行き、コーヒーを
「だけど、あれだな。やっぱ祭りっていいよな。こう、気持ちが盛り上がるっていうか、下らないことを忘れさせるっていうかさ。――ああ、そうだ。焼きそば屋の
「そんなに要らないでしょ。誰が食べるのよ」
「いや、千春、屋台の焼きそばなんて三つくらいがちょうどいいんだ。知らないのか?」
「知るわけないじゃない。それはどっから出てきた情報なのよ」
こぽこぽと落ちゆくコーヒーを見つめながらカンナは真顔になっていった。――いつも通りに思えるけど、やっぱりどこか違ってる。ん? もしかして、「よりを戻しましょ」とか言いだすんじゃないでしょうね。でも、私のいる前で?
「これは経験的
「ほんと、あなたって幾つになっても馬鹿なのね。この前、具合悪くなったばかりでしょ。そんなに食べたらまた熱出すんじゃない? ほら、神戸に行ったときも似た感じのことあったじゃない。肉まんの食べ比べするとか言って、」
またはじまった。あのときのあなたはどうだった話ね。カンナは窓を見た。
ううん、違う。二人でって思ったこともあったけど、今は一人がいい。そういえばあの人もそういうのしたって言ってたな。九州に行ったんだっけ? だけど、千春ちゃんは「自分を見つめ直すなら北の方」って言ってた。でも、北ってどこ? まあ、北海道もあるけど、あそこは遊びに行くとこだし。じゃあ、青森とか、岩手?
カンナは肩を落とした。だったら、日本海側もありよね。誰もいない砂浜を歩いたりするの。海は荒れてるわ。カモメが灰色の空を飛び、白い波は何度も打ち寄せてくる。私はトレンチコートなんか着ちゃって、
「カンナちゃん?」
「え?」
「どうしたの?」
コーヒーは落ちきっている。――うん、この
「ごめんなさい。考えごとしてて。――はい、食べましょう。千春ちゃんがまたまた持ってきてくれたのよ」
「おっ、こいつは美味そうだな。栗クリームの乗ったパンか?」
「そう。ほんと美味しいのよ。食べてみて」
「――ん、マジで美味いな。このクリームすごいぞ。もう栗クリームじゃないな。クリクリクリクリ栗クリームだ」
って、なによ、その感想は。そう思いながらもカンナは「君じゃないと駄目なんだ」というのを思い出していた。――ま、半分程度は言わせた部分もあるけど、私はこの人にとってそういう存在になってるんだ。でも、千春ちゃんは?
「なんだ? 二人とも食べないのか? だったら俺がもらっとくぞ」
千春は
「おい、マジで食っちまうぞ。いいのか?」
「いいわよ。私、あまり食欲ないから」
は? といった顔が向けられると千春はうなずいた。このきっかけを待っていたのだ。
「その、ちょっと悩んでることがあるのよ」
「悩んでる? めずらしいな。どうしたんだ?」
「あのね、デートに
「デート?」
「うん、来週なんだけど、どうしようかって思ってるの。その、会社の
「へえ、どんな人?」
千春は首を引いた。唇を引き
「そうね。顔もまあまあだし、お金もそこそこ持ってるの。お家は
「すごいじゃない。そこそこどころか無茶苦茶お金持ちでしょ。千春ちゃん、それって
「まあね。でも、やっぱりいろいろ考えちゃうのよ」
「なにを?」
意外な展開に混乱しかかっていたもののカンナは口を動かしつづけた。――さ、どういう反応するの?
「だって、私もけっこうな年だし、これからおつきあいするなら結婚も
「なに言ってんのよ。千春ちゃんなら絶対大丈夫だって。もし、その会社経営の父親が
「やだ。そこまでいってる話じゃないのよ。デートに誘われたのどうしようかなって思ってるだけだから」
そこで千春は顔をあげた。彼は首を伸ばしてる。がらりと戸があいたのだ。
「おっ、兄ちゃん、いたな」
ハゲ頭を
「どうしました?」
「いや、どうしたって程のことはねえんだけどよ。ほれ、こいつを渡しとこうと思ってな」
「それは、――ああ、祭りで
「そう、うちわ
「貸して下さるんですか?」
「下さるってな。兄ちゃん、そんなに
「いいんですか?」
「いいってことよ。気持ちってやつだ。――っと、そのお姉ちゃんにも持ってきたが、もう一個あった方がよかったか? いや、しかし、えらく
カンナは頬を
「いや、違いますよ。そんなんじゃないんで。――カンナ、しまっといてくれ。祭りのとき一緒に叩こう」
「あ、はい」
口をすぼめながらカンナは受け取った。目許はゆるんでいく。――さっき、「ご夫婦?」って訊かれたときはなにも言わなかったのに、千春ちゃんのときは「違う」って言った。
「どうした? なんで笑ってる?」
「え? 別になんでもないけど、」
「それにしても、いいときに来て下さりましたね。ひとつ訊きたいことがあったんですよ」
「ん? この前のことでか?」
「そうなんです。しかし、ちょっと外でお話してもいいですか?」
「ああ、かまわねえよ」
二人は出ていった。首を伸ばしたカンナは身を
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