第19章-5


「ん? 取り込み中か」


 蓮實淳は目を細めた。とくちょうある頭に見覚えはあるものの誰かわからない。男は戸に手を掛けたままだ。


「じゃ、また来るわ。兄ちゃん、それに、お姉ちゃんも悪かったな。出直すぜ」


 ん? この話し方は、――そうか。彼はけ寄って手を取った。うん、やっぱりそうだ。いいとこに来てくれた。


「おい、なんだよ。どうしたんだ?」


「いや、帰らないで下さいよ。ごしてましたね。そんな格好だったから、どなたかすぐにはわかりませんでした」


 ニヤッと笑い、男ははっえりを直した。ちょっととくげなようだ。


「ま、そうかもな。それにほんと久しぶりだもんな。――そのよ、あんときは悪かったな。俺もちょっと反省っていうかよ、言い過ぎたんじゃねえかって気にしてたんだ」


「そんなのいいんですよ。――カンナ、お茶をお出ししてくれ。この前は要らないとおっしゃってましたが、今日は飲んでいって下さるでしょう?」


「ん? そうかい。そうだな、じゃあ、いただいておくことにすっか」


 ひざみながら男は座った。刑事は固まったままだ。


「ああ、この男はじろしょの刑事でね、山本っていうんです。かしわさんの事件を担当してるんですよ」


 腰を浮かしかけたものの男は座り直した。彼は唇をゆがめてる。ハゲかけてる頭と完全なるハゲ。まるでなにかの使用前使用後みたいだ。


「そりゃ、ほんとに取り込み中じゃねえか。俺なんかがいていいのかい?」


「いや、その方がいいんですよ。ちょうどあなたに教えてもらったことを話してたとこなんでね」


 カンナがお茶を持ってきた。男はきょとんとした表情をしてる。


「俺が教えたって、なんのことだい?」


「ほら、柏木さんがりのないおばあさんのそうしきまであげてやったと言ってたでしょう。そのことについて他に知ってることがあれば教えていただきたいんです」


「ああ、平子の婆さんのことか?」


「そうです。その方のことです」


 男はとなりうかがってる。ひたいには汗が浮きあがっていた。


「うーん、警察のだんがいるとこだと話しづれえな。知ってるっていってもばなしみてえなもんなんだ。それに、他にめいわくがいくようだと困るんだよ」


「大丈夫ですよ。この男は信用していいし、こうがいするなと言えば絶対にしたがいます。それでも口外するようなら秘密がぞう中にばらかれるんでね」


 あんたんたる表情で刑事は首を振っている。自分からは話さないようにしてるようだ。


「それに、私たちは柏木さんを殺した奴を探してるんです。あなたの大切なお友達だった柏木さんのね。そのためにも平子さんのことを知る必要があるんですよ」


 男はしばらくてんじょうを見上げた。彼はだまってる。そうしていれば話しはじめるだろうとんでいたのだ。そして、その通りになった。


「ん、そうだな。そういうことなら話してもいいけどよ、――その、なんだ、こりゃほんとに与太で、俺だって信じちゃいねえことなんだ。それに、お前さん方は平子の婆さんのことをどんだけ知ってる? それがわからねえと言うのも難しいんだ」


「ああ、そうですね。では、平子さんがどういう方だったかもお教えいただけますか?」


 山本刑事はいぶかしそうな目を向けた。彼は背筋を伸ばし、あごも引いている。言葉づかいだってこれまで聞いたことがないようなものだ。――っていうか、こういうのができるならとり調しらべしつでもしとけよ。そう思ってるのだ。


「いや、どういう方って程のもんじゃねえんだよ。だけど、そうだな、俺がここに来た頃にゃ、まだ普通っていうか、あんなんじゃなかったんだ。それが、そう、十年くらい前だったかな、隣の家とトラブルになってよ、その後に今度はってた猫が次々と死んで、そっからおかしくなっちまったんだな」


「隣のおたくとトラブルがあったんですか?」


「ん? ああ、そうらしいな。いや、あそこは有名な猫しきでよ。俺はつきあいなんざなかったが、それは知ってたくらい有名だったんだ。その猫が、その、なんだ、」


 男は口をすぼめた。彼は身を乗り出すようにしてる。


「その猫がどうしたんです?」


「いや、こんなお姉ちゃんのいるとこで申し訳ねえがよ、その猫がウンコすっだろ? ま、生きてんだ、ウンコはするよな。それを隣の庭でするってんでもんがきてたらしい。それに、その家も猫を飼っててよ、けんしてしたとかもあったみてえだな。だけど、文句が出るくらいで収まってりゃ良かったんだ。ところが隣のカミさんってのがちょっとイッちまった奴だったんだろうな。そのウンコを集めちゃ、平子のげんかんに置いていくってんで、さらにトラブルになったようなんだよ」


「すみません。その隣に住んでた人の名前はわかりますか?」


 顔をしかめて男はまた天井を見つめた。カップには手を出そうとしなかった。


「なんだっけな? 聞いたことはあるんだが忘れちまったよ。そこはもう引き払って、違う家がなんけんも建ってっからな」


「引き払った?」


「ああ、そうだよ。そこのカミさんが自殺してな、そのすぐ後にいなくなっちまったんだ」


「自殺ですか」


「そうなんだよ。そのカミさんはウンコを玄関に置いたり、ひどいときにゃ庭に投げ込んだりしてたようなんだ。誰かが間に立っても聞く耳持たねえってありさまだったらしい。で、ビラっていうか、張り紙をしたんだな。ま、なんて書いたか知らねえが『猫のウンコ投げ入れ禁止』とでも書いたんだろうよ」


 カンナは唇をとがらせてる。申し訳ないとか言ってたけど、さっきから何回「ウンコ」って言ってるのよ。顔を向けると彼も似た表情をしてる。ただ、考えてるのは別のことだった。ビラね、なるほど。そう思っていたのだ。


「でもよ、そんなのったら誰がしてるかバレちまうわけだ。トラブルがあったのはわかってんだ、あそこのカミさんは猫のウンコをまき散らしてるって知れ渡っちまったんだよ。そりゃ、ヤバいよな。家の者もそんなの知らなかったんだろうさ。そいで、そのカミさんは自殺したんだろうって話だぜ」


「猫が次々と死んだのはいつのことなんです?」


「うーん、よくわからねえんだが、そのビラが出る前後くらいじゃねえかな。なんだかバタバタと死んでったらしい。平子の婆さんは『毒を盛られた』って言ってたようだぜ。それが何度もつづくんでおかしくなっちまったのさ」


「そして、その平子さんはりっきょうから落ちてくなってしまった。たしか去年の四月、ひどく雨の強い夜のことでしたね。柏木さんは身寄りのないその方のお葬式をあげてやったってわけですか」


 うなずきながらお茶を飲み、男はまぶたを瞬かせた。思ってたのと違う味だったのだろう。


「ん、そうだ。柏木さんはな、あの婆さんのめんどうをよく見てたんだ。イカレちまって誰も相手にしねえってのに、あん人は違ってた。会いさえすれば話しかけてたし、平子の婆さんだって柏木さんとは落ち着いて話してたんだ。その上、葬式まであげてやったんだぜ。そんなの普通じゃできねえだろ?」


「ですよね。ほんとにそう思います。ところで、あなたが言ってたばなしというのは? いまのは全部聞き伝えにしても、きちんとしたものに思えますが」


 ハゲ頭をでつつ男は隣を見た。刑事はもくねんとしている。


「ああ、与太か。だけど、こりゃほんとに与太でよ。警察のだんに聞かせるようなもんじゃねえんだ」


 彼はほほをゆるめてる。そのままで指先を向けた。


「山もっちゃん、あんたもなんか言えよ。わかってるだろ? これはむちゃくちゃ重要な話だぞ。しかも、この方からしか聴けねえことなんだ。そうだろ?」


「わかってるよ。――あのな、おやっさん、俺はこうがいするなって言われりゃ、誰から聴いたかなんて絶対にらさねえんだ。だから頼むよ、教えてくれ。あんたにめいわくかけねえようにすっからよ」


「うーん、そうかい?」


 口を湿しめらせ、男はあいまいな表情をつくった。ただ、話したくてしょうがないのだろう、ふとももたたくと顎をき出してきた。


「そこまで言われたら仕方ねえな。じゃ、言うけど、旦那、気を悪くしねえでくれよ。平子の婆さんが死んだのはこの兄ちゃんが言ったようにひでえ雨の夜だった。そういうのもあって誰もそれを見ちゃいねえってことになってる。警察もすぐに事故だって言ったもんな。ま、イカレた婆さんが足をはずしたってのはいかにもありそうな話だ、俺もそうなんだろうって思ってたさ。だけどな、そうじゃねえって言う奴もいるんだ」


 そこで男は全員を見た。探るような目つきをしている。


「俺は信じちゃいねえよ。だから与太って言ってんだ。ただな、平子の婆さんが落ちて死んだとこを見てたのがいるっていうんだよ。そいつは若い男がそこにいたって言ってるらしい。それだけじゃねえんだ。同じ男に食ってかかってたって話もある。死ぬ二、三日前のことだってな」


 彼はまた鼻を叩きだした。深く息をく音がする。山本刑事のものだ。


「ま、年寄りってのはひまだからな。ああいうのがあると寄ってたかっちゃ、いろいろ話すもんなんだ。とくにおかみがしくじったって話が好きなんだよ。――いや、旦那、悪いがそういうもんなんだ。俺はそう思って気にもしてなかったんだが、兄ちゃん、こりゃほんとのことってわけかい?」


 指先を向け、彼はささやくように言った。


「もしかしたらそうかもしれませんね。しかし、これについては誰にも言わない方がいいでしょう。いいですか? すくなくともあなたはこれを忘れた方がいい」


「は? おいおい、おどかすなよ」


「いや、これはな話ですよ。これ以上この話をすると危険なんです」


 顔からは表情が抜け落ちていった。瞳だけがあちこちへ向かってる。


「ああ、わかったよ、そうする」


「ありがとうございます。ところで、今日はどういったご用でしたか?」


「ん、そうだったな。俺は用事があって来てたんだった。――あのな、しきだろ? ってんで、きんを集めて回ってんだよ。前は柏木さんがやってたんだが俺が代わりに来たってわけだ」


「そうだったんですね。このいったいはあなたが?」


「いや、」


 手を振りながら男は薄くだけ笑った。


「こんなんが来たらかつげに思われちまうだろ? だから他は別の者が回ってる。俺はせんにああいういきさつがあっから、ここだけはってお願いしたんだよ。ほれ、なんだ、びを言いたくってさ」


「そうでしたか。――カンナ?」


「あ、はい」


 突然呼ばれてカンナは首を引いた。顔はすこし青ざめている。


「お渡ししてくれ。でも、幾らくらいがいいんですかね?」


「うーん、ま、こころざしってやつだからな。そっちに任せるよ」


「じゃ、十万で。これはうちの前にある板に書かれるんですよね?」


「ん、そうだよ。って、そんなにいいのかい?」


 彼は笑いながらうなずいた。それまでのきんちょうを切って落とすような表情だ。


「もちろんですよ。ちょうなお話を聴かせていただけたんだし、そろそろ私たちもこの町にまなきゃなりませんからね。――はい、お渡しします。これからもよろしくお願いしますね。それに、何度も言うようですが今のは忘れて下さい。これは他ならぬ、あなたのためになることですから」


「ああ、わかった。ありがとよ」


 ふところふうとうを突っ込むと男は出ていった。

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