第18章-4


 同じ時間、彼はベッドで考えていた。雨は激しく、窓にさす街灯の明かりもにじんでる。思考は行きつ戻りつしていた。へんえんをたどるだけで中心にいたらないのだ。


 目を覚ましたのは六時頃だった。風は強いものの嘘のように晴れている。テレビは被害じょうきょうを伝えていた。ゆかうえしんすいが何百件、死者と行方不明者が十数人。ぼんやり画面を見つめ、彼はひたいこすった。映像は現実に感じてるものとかけはなれて思えた。まるで別世界の話だ。


 店の電話が鳴った。


 顔をしかめ、彼はゆっくり降りていった。――そういや、かしわが殺された日にもこういうことがあったな。出ても無言で、いや、なにかは聞こえてたんだ。そう考えてると今度はスマホが鳴った。画面には『山もっちゃん(毛が薄い)』と出てる。


「ああ、やっと出たな」


「なんだよ、こんな朝っぱらから。店にかけてきたのもあんたか?」


「ん、初めからこっちにしときゃよかったんだが、その、なんだ、ちょっとどうてんしてんだろうな。悪かったよ」


「どうした。なにがあったんだ?」


「えらいことが起きた」


 そう言ったきり刑事はだまった。電話の向こうはさわがしい。


「なんだよ、早く言えって。なにがあった?」


「いいか? 落ち着いて聴いてくれ。今朝方、子供のたいが見つかった。アパートの階段から落ちたんだ。いや、自分で落ちたのかもわかっちゃいないが、とにかく階段の下で見つかったんだ。それでお前さんに電話をかけてるってことは、もうわかるだろ?」


 自然と息は止まった。朝日は床をえいかくに照らしてる。鳥のさえずりも聞こえてきた。


「どこにいる? あんたはどこにいるんだ?」


ほうみょうだよ。一階の住人が仕事に行こうってんで外に出たら、子供が死んでたらしい。今はかんしきが動いてる」


「母親はどこにいたんだ? それに、そうがどうのこうの言ってたろ? そいつらはなにやってたんだ?」


「時間がないんだよ。長く話しちゃいられないんだ。後で行くよ。ところで具合はどうなんだ?」


「そんなの知ったこっちゃない。これから出向くよ。そんとき教えてくれ」


「言ったろ? 時間がないんだよ。俺にはまだ嫌な仕事が残ってるんだ」


 そこで電話は切れた。





 シャワーを浴び、ひげると彼は電話をかけた。でんの踏切はカンカンと鳴っている。濃いコーヒーをれ、フライパンでトーストをつくってるところに折り返しがあった。


「どうしたの? また熱が出たりした?」


「いや、そっちは大丈夫だ」


「そっち? そっちじゃないのがあるってこと?」


「そうだ。悪いニュースがあるんだよ」


「悪いニュース? なによそれ」


 息はまるようになった。目は増水した川の映像へ向かっていく。だくりゅうだ。


「非常に悪いニュースなんだ。今はまだ言えないくらいひどいんだよ。とにかく来てくれ。話は会ってからの方がいい」


「なにがあったのよ」


「来てから話す。その方がいいんだ。早く来てくれ」


 カンナはパジャマ姿で座ってる。カーテンのすきからは光がしていた。


「電話じゃ言えないくらい悪い話ってこと?」


「ああ、そうだ」


「それで、私に来て欲しいのね?」


「ん、怖いんだよ。君がいないと気がくるいそうだ」


 いきづかいは耳許でしてる。カンナは胸に手をあてていた。ベッドは空で、タオルケットが乱れまくってる。目は細まっていった。


「私じゃないと駄目なの?」


「そうだ。カンナ、君じゃないと駄目なんだ」


 声はうめくようなものになった。テレビにはしんすいした家が映ってる。白みがかったどろですべてがくされてる映像だ。


「わかった、すぐ行く。それまでまんしてて」


 電話を切るとカンナは顔を洗い、手早くしょうをした。なにも考えないようにしたけどそれは難しかった。





 ほうきとちりとりを持って彼は外に出た。けやきの葉はいたるところに落ちている。れた枝も散らばっていた。それらを集めてはビニール袋に入れ、あるいはまとめてひもしばった。雲ははやく走り、陽光はガラス戸を輝かせている。あらかた片付いたところにタクシーがやって来た。


「来たわ」


 伸ばされた手を彼はにぎりしめた。二人ともなにも考えてなかった。必要と思えることをしただけだ。


「これから行くとこがある。一緒に来てくれ」


「わかった」


 そのまま二人はさんどうを歩いた。じんわきみちを下り、みょうけんどうの前で折れる。


「カンナ?」


「なに?」


「あの子供は死んだ。ペロ吉んとこの子だ。階段の下で見つかったらしい。原因はまだわからないそうだ」


「そう、――そうだったの」


 にはパトカーがまってる。うまも多かった。それをけつつ奥へ行くと、「あっ」と声がした。


「なんでこんなとこにいるんだ?」


「近所だからさ」


 わかぞうつながりあった手を見つめてる。唇はみょうねじれていた。


「山もっちゃんはどこにいる?」


「もちろん中にいるよ」


「呼んで来ちゃくれないだろうな」


「俺たちはひまじゃない」


 行きかけた肩をつかまれ、若造はにらみつけてきた。


「やめろよ、俺たちはいそがしいんだ。こんなことするとほんとにこうしっこうぼうがいたいするぞ」


「お前なんか行かなくても問題ねえよ。ああいうのはプロにまかせとけ」


 腕は払われた。それでも彼は顔を寄せている。


「行かなきゃならない。お前と遊んでる暇はないんだ」


「その前に一つだけ訊かせろ。あそこの母親はいなかったのか? それにそうってのはなにしてたんだ?」


「それじゃ二つだ」


「なに?」


「質問が二つになってるって言ってんだよ」


「じゃあ、二つこたえろ」


 立ちふさがれて若造は肩をすくめた。ほほは引きつっている。


「母親はいったん戻ったようだが、また出たらしい。どこに行ってたかは聴いてる最中だ。でも、ようりょうを得ないんだ。だんが捕まっただけでも取り乱してたってのに、今度は子供が死んだんだからな」


「児相の方は?」


 弱々しく首を振り、若造はまた睨みつけてきた。


「それが変なんだ。連絡がうまく行ってなかったらしい。いや、北条が報告したのは確かだ。それは奴の上長にも確認した。でも、きんきゅうせいがないって判断されたんだろう、父親が捕まったのも連絡されてなかったみたいだ」


 するどく見つめたものの、カンナは口をすぼめた。若造の目は赤くなっている。


「なんとかできるはずだったんだ。俺はそう考えてる。でも、このありさまだ。ほんと嫌になる。申し訳ないよ」


 けんまみ、若造は首をらした。そして、ゆっくり戻っていった。


「ああ、ちょっと待て」


「あ? まだなんかあるのか」


「もうひとつだけだ。あの部屋に猫はいなかったか?」


「猫?」


「そうだ。ハチワレの小さな猫だ」


「いや、いなかったな。俺は見てない。いればわかるはずだがな」


「そうか」


 しばらく立ちどまり、若造は表情を整えた。それから、スーツのえりを直し、歩き出した。


「おい」


「ああもう! なんだよ!」


「教えてくれてありがとう」


「ふんっ!」


 そう言って、若造は野次馬をき分けていった。





 せいせんの向こうは静かだった。人の出入りは多いものの、みなもくもくと作業してる。二人は同じ場所でずっと前を見つめていた。


「ね、」


「ん?」


「大人になったらって言ってたけど、あの子はそうなれなかったのよ。逃げ出すこともできずに死んじゃったの」


「ああ」


「そんなことってある? あの子は言ってた。お腹が痛くなったとき、ペロ吉としゃべれるおじさんが助けてくれたって」


 彼はあごかたくした。息は浅くなっている。


「なにができたかわからないけど、なにかはできたはずよ。でも、私たちはなにもできなかった」


「そうだな。なにもしてあげられなかった」


 階段は朝日に照らされていた。かんしきの人間なのだろう、しゃがみ込んだ男が白いこなを吹きかけている。


「あっ、」


「どうした?」


 視線をたどるとひとみの中にひるよしがいる。ゆかりは首を伸ばしていた。


「蛭子の奥さん方ね。――って、大奥さん、顔色すごく悪くない?」


「具合が悪いってのは嘘じゃなかったんだな」


 ゆかりは二人がいることに気づいてるようだった。しかし、顔は向けてこない。


「行こう。山もっちゃんはまだ出られないんだろう」


「うん」


 彼らはまだ手をつなぎ合っていた。その方が落ち着くとわかっていたのだ。ただ、がきちゅうでカンナは走りだした。


「どうした?」


「これ見て」


 枝にはピンクの首輪がぶら下がっている。それを取り、カンナはゆがんだ顔を向けてきた。


「切れちゃってる。どうして?」


「これは、」


 彼は目を細めた。確かに千切れてる。強い力で引っ張られたようにだ。


「――ん、そうか。なんで気づかなかったんだろう。あの子は自分で落ちたんじゃない。き落とされたんだ」


「どういうこと?」


「ペロ吉だよ」


「ペロ吉? ペロ吉がどうしたっていうの?」


「考えてみろ。自分で落ちたんなら、ペロ吉はずっと横についてるはずだ。鳴いて、助けを呼んだだろう。でも、そうじゃなかった。ペロ吉もいないんだ。ということは――」


 瞳は大きく広がっていった。それを見て、彼は首を振った。


「いや、そうじゃない。無事なはずだ。それはこの切れた首輪が示してる。あの子は誰かに殺されたんだ。ペロ吉はそいつにいどんだんだろう。助けようとしたんだよ。そこで首輪をつかまれ、投げ飛ばされたんだ」


「それで、切れたってこと? でも、ペロ吉はどこにいるの?」


 頭上にヘリコプターがあらわれた。バタバタと音がしてる。二人は顔をあげ、目を細めた。


「それはわからない。でも、もしかしたらうちに来てるかもな。そうだったらいいんだけど」


「そうね。戻ってみましょう」


 二人は音大の方へ出た。ヘリコプターは低いところを飛んでいる。ゆるい坂の途中で彼はこう言ってきた。


「カンナ、ものはできるか?」


「ヌイモノ? ああ、おさいほうのこと? まあ、それなりにできるけど」


「じゃ、そいつを縫い合わせてくれ。ペロ吉に返してやらなきゃならないからな」


 口をかたく閉じ、カンナはうなずいた。そのとき、涙がこぼれ落ちた。

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