失踪する猫

第17章－４

「こりゃなんだ？ 顔どころか姿もぼんやりしてんな。場所は――、ああ、こりゃ音大の裏手か？ ここに写ってるのは小学校のフェンスだろ？」

「だろうな。でも、こいつに至（いた）っては場所がわかるだけだ。音大と小学校の間に立つ男。しかも、ぼやけまくってて年格好もわからねえ」

　カンナは身を乗り出してる。テーブルに並んでるのは『ＨＭ２０Ｙ』の写真だ。全部で五枚あり、すべてが滲（にじ）んだようになっている。

「それね。さっき見たわ。私もなんだかわからなかったけど、これって他と違ってない？」

「どこがだ？」

　手を伸ばすとキティと目が合った。カンナは唇を尖（とが）らせ、見つめ返してやった。

「これだけ見ててもわからないけど、ほら、他のと比べると――」

「ん？ ああ、そういうことか。確かにちょっと変だな」

　キティも「はあ、なるほど」と言った。山本刑事は眉（まゆ）をひそめてる。

「もうひとつ誰かわからないのがあったでしょ。――えっと、これか。『ＮＦ０５Ｈ』ね。これと比べるのが一番いいわ。両方ともぼやけてて滲んでるけど、ほら、こっちはブレてないの。それに、ずっと同じ場所なのよ。動いてるのは人間だけ」

「ああ、そういうことか」

　深くうなずき、山本刑事も頬（ほほ）をゆるめた。

「確かにな。これだけ違ってる。ずっと同じとこを撮ってるし、ブレもない。こりゃ、三（さん）脚（きゃく）とかを使ったのかもな」

「いや、脅迫のネタを撮るのに三脚なんて使わないだろ。っていうか、こいつも謎（なぞ）だらけだな。池袋駅なのがわかるだけだ。ほんとブレまくってて、どれがターゲットなのかもわからないぜ」

「そうなんだよ。だから難物だって言ってんだ。ま、『ＮＦ０５Ｈ』ってなってんだから、この女なんだろう。こいつだよ、赤い服を着た。――ん？ 待てよ」

　そう言ったきり、刑事は黙（だま）った。風が戸を揺（ゆ）らしてる。彼は外を眺（なが）めた。集中しすぎてそんなことすら気づかなかったのだ。

「もしかしたら、こりゃ仁美婆さんかもな。もう出てきてたってことか。うん、きっとそうだ。『ＮＦ０５Ｈ』だろ？ つまりは、直江仁美だ」

「誰なんだよ、その直江仁美ってのは」

「ああ、わりい。いやな、仁美婆さんってのは有名な掏（す）摸（り）師（し）なんだよ。前は赤羽ら辺にいたんだが、出（しゅっ）所（しょ）してこの辺に来たんだろ。赤い服ってのがトレードマークなんだ。こんな目立つ格好して、みごとに掏るんだよ。きっとそうに違いない」

「じゃあ、柏木伊久男は掏摸師の上（うわ）前（まえ）をはねてたってことか？ しかも、こんなブレまくった写真で。そんなこと可能なのか？ 相手は名うての掏摸師なんだろ、脅されて金なんか渡すか？」

　リストに名前を書き足しながら刑事はぶつぶつと話した。

「これが脅迫されてた者のリストならそういうことになるはずだ。またわけのわからねえ話になりそうだが、そう言ってきたのはお前さんなんだぜ。あの爺さんは脅迫者だった。自分の知りあいにも被害者がいる。ただ、他にもいるはずってな。それでこういうのが出てきた。十一人ものリストだ。しかも、十人まで誰かわかったわけだ」

　書き足された文字を見つめ、彼は腕を組んだ。いまだ名前のわからない『ＨＭ２０Ｙ』と『ＨＦ８０Ｙ』――つまり、蛭（ひる）子（こ）嘉（よし）江（え）だ――へ目が行く。

「まあ、そうなんだけどさ、やっぱり引っかかるんだよ。ちぐはぐに思える。もやもやしてるんだ。この写真と同じだよ。ぼんやりしててつかみどころがない。それに、蛭子嘉江には四桁（けた）数字がない。その説明はつくのか？」

　山本刑事は顎（あご）を反（そ）らした。目には曖（あい）昧（まい）さが加わっている。

「説明はつかないが、このフォルダにはむちゃくちゃ沢山の写真があった。きっとスキャンしたんだろうな、ほとんどが古いもんだよ。そのすべてが婆さんのものだった」

　ポケットから封（ふう）筒（とう）を取り出し、刑事はテーブルに放った。

「何枚か現（げん）像（ぞう）してきた。見たいだろうと思ってな」

　中には十枚の写真があった。いずれも古く、色（いろ）褪（あ）せている。彼は弱々しく首を振った。

「こりゃ、なんていうか、」

「見ただけでわかるだろ？ そいつは好きな女を写したもんだよ。だいたいがそんなもんだった」

「ほんと、そう見えるわ。笑ってるとこばっかり。でも、蛭子の奥さんってこんな顔だったんだ。すっごくかわいいじゃない」

　彼はまだ写真を見つめてる。蛭子嘉江と亡（な）くなった旦（だん）那（な）、それに柏木伊久男なのだろう、全員が笑顔で若々しい。

「そういや、柏木伊久男は傷（しょう）害（がい）致（ち）死（し）の前（ぜん）科（か）持ちだって言ってたな。そりゃ、どういう事件だったんだ？」

「ん？ それもよくわからねえんだよ。被害者は若い男で、現場は新宿の飲み屋だった。柏木伊久男は店に入ってくるなり、その足に躓（つまず）いてな、そっから喧（けん）嘩（か）になったらしい。で、酒（さか）瓶（びん）でこめかみ辺りを殴（なぐ）ったんだ。双（そう）方（ほう）ともに連れがいたが止めに入る間もなかったようだ」

「つまり、面（めん）識（しき）はなかったってことか？」

「そういうことになってるな。しかし、こう言うとお前さんのが伝（う）染（つ）ったみてえだが、ちょっと妙にも思える」

「というのは？」

「被害者の連れは躓いたのはわざとじゃないかって証（しょう）言（げん）してたようだ。それにな、その店に入る前、柏木伊久男はしこたま飲んでる。短い時間で浴（あ）びるように飲んでるんだよ。それが気になってな」

「まるで殺しに行くための景（けい）気（き）づけみたいに思ったわけだ。そうだろ？」

　刑事は下唇を突き出させた。それで返事の代わりにしたのだろう。

「この写真もらっていいか？」

「別にかまわないよ」

　風はいよいよ強く、欅（けやき）の枝は音をたてている。彼はデスクの抽（ひき）斗（だし）に写真を収めた。

「今日はこの辺でいいだろう。これ以上話したって頭がパンクするだけだ。山もっちゃん、名前のわかった者が当日なにしてたか調べといてくれ。俺は鴫沼と話してくる。それに、可能であれば蛭子嘉江ともな」

　刑事も立った。腰を擦（さす）りながら顔をしかめてる。

「ああ、もう一つ訊きたいことがあったんだ。小林に張りついてる若（わか）造（ぞう）も虐（ぎゃく）待（たい）されてるとこを見てないってことだよな？」

「そうだよ。外に出されてるとかがありゃ、言ってくるはずだがな。ま、だけど、あいつに任（まか）せときゃ大丈夫さ」

「優秀な刑事だからってんだろ？ あんたは後輩に優しすぎるんだよ。でもな、あんな半（はん）端（ぱ）もんに濃（こま）やかな仕事なんてできない。ちょっと心配だな」

「はっ！ 心配するこたねえよ。それに、容（よう）疑（ぎ）が固まりゃ、すぐ逮（たい）捕（ほ）だ。虐待してるってんなら、それも落（らく）着（ちゃく）ってわけだ」

　そう言って山本刑事はガラス戸を開けた。その瞬間に薄い毛は風に乱された。