第16章-4


 日の暮れかかった中を彼は足早に歩いた。頭の中はこんだくし、うずを巻いている。――そうだ。『あくりょう』だ。あのじいさんは自らそう名乗っていた。


「ええ。あの男はこう言ったんです。『ご主人、私は昔から「あくりょう」と呼ばれてるんですよ。下手すると取り殺されるってわけです』」


 じんわきみちで彼は立ちどまった。ちょっと待て。やはりなにかがおかしい。かしわはなにがしたかったんだ? どうしてきょうはくじょうに『あくりょう』と書いた? いや、それ以前に、なぜ俺たちの店をつぶそうとした?


 低くうなりながら彼は歩き出した。あの男は脅迫者だった。それは確かだ。しかし、俺がその金づるを断ち切った。、脅(おど)してきた。そう考えるのが最もシンプルなんだろう。ただ、どこかが変だ。あの記号だっておかしい。ぼうで記したならアルファベットにする必要なんてなかったはずだ。それに、あの字。あれはちょうめんさからかけはなれていた。そこにもがある。


 みょうけんどうの前で右に折れると薄暗い細道になる。じきに黒いいたべいも見えてきた。――もし、ひるよしにとっての悪霊が柏木伊久男だった場合、それはなにを意味するんだ? 自殺した生徒と関わりがあるというのか? いや、そもそも、なぜ『悪霊』と書き残した? そして、嘉江はどうしてそんな男をアパートに住まわせたんだ? 彼はまた思い出した。俺が「ご主人を愛してらしたんですね?」と言ったとき、あの人はこうこたえた。


「いえ、違います。いまも愛してるんです。あの人はいつも私をゆるしてくれました。沈みこんでいく私を沈みきる前に救い上げてくれたんです」


 門はかたく閉ざされてる。それを見つめながら彼は深く息をいた。とにかく知ることからはじめなきゃな。キティも言ってたじゃないか。本当のことを知りたかったら全部見るしかないって。


「あの、すみません、蓮實淳です。ちょっとよろしいですか?」


 黒い箱に話しかけるとびした声が聞こえてきた。


「あら、先生。どうかされました?」


「いえ、大奥さんにすこしお訊きしたいことができまして」


「はあ、そうでしたか。とにかく、そちらへ参りますね」


 彼はしんぼうづよく待った。のそのそ動いていたのだろう、ぼうっとした顔が出てきたときには日は暮れ落ちていた。


「ほんとすみません。おいそがしい時間におじゃして」


「それはいいんですけど、おさんはちょっとあいがよくなくって」


 ひそめたまゆかくすため彼はひたいおおった。しかし、その必要はなかったかもしれない。相手の表情は変わらない。


「おげんが悪いんですか?」


「いえ、そんなにではないんですけどね。でも、ずっとはなれにもって、寝たり起きたりしてるようなんです」


「それはいつぐらいからです?」


「そうですねぇ。ええと、なんて言ったらいいんでしょう。――ああ、その、ちょっと言いづらいんですが、先生が警察から出て来られて程なくだったような」


 目は自然と細まった。どういうことだ? なぜそうなった? しかし、これじゃどうしようもないな。――ふむ、こうしてみるか。


「あの、ゆかりさんは柏木伊久男という人物をどの程度ご存じですか?」


「え?」


「おたくのアパートに住んでたんですし、ここにもちょくちょく来てたようじゃないですか。話したりはされてたんですよね?」


「いえ、私はあんまり。いつも裏から入って、離れに行ってましたから」


「ああ、そのようですね。でも、裏の戸は普段閉めてるわけでしょう? 前におっしゃってましたよね? 毎晩きちんと閉めてると」


「はあ」


「そうなると、誰かが戸を開けていたことになる。それはお義母さんが?」


「はい。たぶんですけど」


「そうですか。ところで、お義母さんと柏木さんは仲が良かったそうですね。ほぼ毎日たずねてこられたようだし、くなったご主人とはおさなみだと聴きましたが」


「そうなんですか? それは初めて聴きました。仲良くされてましたけど、そんな昔からお知りあいだったとは」


 風が吹き、松がれた。ゆかりの顔はこわっている。


「おさんが亡くなられてどれくらいちますか?」


「十二年です。今年、じゅうさんかいをしましたので」


「あなたはここにとつがれて五年くらいですよね?」


「はあ、そうですね。そろそろ六年目になります」


「柏木さんがあそこに住むようになったのはいつ頃です?」


 アパートの方へ指を向けると、ゆかりは身をすくめるようにした。


「どうしてそんなに柏木さんのことを訊くんです?」


「必要だからです。ゆかりさん、いいですか? この近くにはまだ悪霊がひそんでます」


「――悪霊、ですか」


「そうです。もしかしたら、お義母さんの具合がよくないのはそのせいかもしれない」


 目つきはにらむようなものになった。長いあごかたくなっている。


「やめて下さい。そんなのじょうだんにもなりませんよ」


「すみません。しかし、いるのは確かなんです。前にも言いましたよね? このお宅には二体の悪霊がいたと。私はみょうな偶然からその一体を消し去らせました。それはあなたを見ればわかる。お義母さんも仰ってましたよ。そろそろお孫さんの顔を見られるかもしれないって」


「まあ、そんなことを」


「ええ、うれしそうに仰ってました。ただ、私はあやまっていたようだ。もう一体はここにいたのではなく近くに住んでたんですよ。ほんとごく近くにね」


 ふたたび身を竦めるとゆかりは固まってしまった。彼はうなずいている。


「私の言ってることがわかりますか?」


「ええ、なんとなくですけど」


「なんとなくでいいですよ。真に理解しようとするのは危険だ。そこでもう一度訊きます。柏木さんはいつからあそこに住むようになったんです?」


「あの、私が嫁いで間もなくだったかと」


「五年ほど前ってことですね?」


「はい、そうなるはずです」


「ありがとうございます。とりあえずはこれでいいでしょう。しかし、ゆかりさん、このままにしておくのはいけない。せっかく収まった家族の問題がさいねんしかねない。いや、前より悪いことが起こるかもしれないんです」


「どういうことでしょう?」


「どうもこうもそのままの意味ですよ。放っておいたらひどいことが起きるかもしれないんです」


「私はどうすれば――」


 わからない程度に唇をゆがめ、彼はこうささやいた。


「腹を立てて下さい」


「はあ? 腹を立てる? 誰にです?」


「私にですよ。あの占い師がまだ悪霊がいると言ってきたと怒るんです。取り乱したようにね。まずはご主人に、そして可能であればお義母さんにも。くつでは伝わらないことでも、そうすれば意外に伝わるものです。もし、お義母さんにそういうとこを見せられないなら、感情を爆発させ、怒りまくり、恐怖におののくんです。きっと、ご主人が伝えてくれるでしょう。なにしろ、ご主人はあなたを愛してますからね」


「そんなこと私にできるでしょうか?」


「できますよ。あなたならできる」


 腕を軽くたたき、彼はほほみかけた。


「というか、これはあなたにしかできないことです。ほら、思い出して下さい。私のとこへ来たときのことを。あなたはわざと怒ってみせ、私をさそい出したでしょ? 私なら解決できると信じ、あなたはああした。ですよね?」


 うつむきかけたものの、ゆかりは顔をあげた。


「いいですか? ゆかりさん、あなたがそうであったようにお義母さんも過去にしばられてる。古い記憶が現在をていしてるんです。でも、それは終わらないことじゃない。この前あなたはそれを経験した。そうでしょう?」


「は、はい。そうです」


「であるなら、お義母さんもそうなれるはずだ。いや、そうしなきゃならない。ゆかりさん、あなたは本来的には強い方だ。この前のときだって、あなたはお義母さんを救おうとした。だったら、今度もできるはずです。違いますか?」


 深くうなずくのを見て、彼は笑顔を強くした。

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