第12章-5


 なにも知らないカンナはさっそうとマンションを出た。ここのところ変なお客さんが増えたし、ついこの間はヤクザまがいのオッサンまでやって来た。それだけじゃなく、イヤらしい電話やメールもくる。そういうストレスがこうばいよくに変化したのだろう、休みの昨日はイケセイに行き、馬鹿なんじゃないかと思うくらいさんざいしてきた。


「ま、とはいっても、自分でかせいだお金だしね」


 朝日に輝くバッグを見つめながらカンナはほほんだ。目白通りには学生がかっしてる。うん、負けてない。下手すりゃ私の方が若く見えるかも。――あっ、そういえば、あそこの生徒に間違われたこともあったっけ。そこまで考えて、カンナは立ちどまった。そう、あれは二枚目のビラを見つけた日だった。自転車に乗ったおばさまに「あなた、ここの学生さん?」って訊かれたんだ。ムカムカしてたから忘れちゃったけど、そういうこともあったな。


 美容室の角を曲がり、カンナはふたたび颯爽と歩き出した。あのジジイはほんとムカつくし、嫌なことも多いけど、悪いことばかりつづくわけじゃない。――ん? なんか、そういう言葉があったな。なんだっけ? ふくなわごとし、よね。ええと、エマニュエルみたいな言葉だったはず。禍福はエマニュエル縄の如しっぽい感じよ。うーん、なんだっけ?


 でんの踏切につかまってるときもカンナは考えつづけていた。「かざまてる」とか? 禍福はかざまてる縄の如し。いやいや、それじゃ人の名前っぽい。「風間テル」だ。――って、誰よ、それ。


 あいぼうたいされたというのに馬鹿げたことを考えてるものだけど、のときの思考はこのように動くものでもある。それに、カンナはまったくなにも知らなかったのだ。しかし、けやきなみに入った瞬間に思わぬ方法によってへんを感じることになった。


「ニャア!」


 聞いたことがないほどのさけびがとどろいたかと思うと、あらゆるところから猫があらわれた。ペロ吉、ゴンザレス、クロにオチョ。――あれ? この子はどうしちゃったの? 顔が傷だらけ。目を細めてる間にも猫は増えていく。オルフェ、ベンジャミン、――えっと、この子も知ってるけど名前が出てこない。いや、っていうか、どんだけ出てくるの?


 猫たちは鳴きもせずせまってくる。気がつくとカンナは二十匹以上の猫に囲まれていた。


「ナア!」


 ああ、この声は猫しょうよね。そう思ってるそばからしっを立てたキティがあらわれた。顔をあげ、じっと見つめてくる。


「え?」


 カンナはカーテンの閉まった店を見た。それから、視線をあげた。細い窓は暗い。


「なにかあったの?」


 さんどうを通りかかった人はみなぼうぜんとしていた。写真をる人もいるけど、だいたいが足早に去っていく。


「ナア!」


「ねえ、キティ、なにかあったんでしょ?」


「ナア!」


「もう! わかるように言ってよ!」


 急いでかぎはずすとカンナは階段をけのぼり、破るようにドアを開けた。


「え?」


 そう言ったきり、カンナは立ちくした。どうしちゃったの? 空っぽのベッドには陽光があたり、飲みさしのカップがテーブルに置いてある。それを取ったとき、階下からいっせいに声があがった。


「ニャア! ンナア!」


「ニャ! ニャ!」


「ンニャ! ニャア!」


 激しく頭を振り、カンナは降りていった。なんだかまいがするようだ。足許がふらつく。


「わかったから、ちょっと待って。そんなにみんなで鳴かないでよ」


 予約じょうきょうを確かめるとカンナは何本か電話をかけた。猫たちは嘘のように静まっている。それを横目に『本日りん休業。大変申し訳ございません』と書き、ガラス戸にりつけた。


「さ、なにがあったか教えて。私にもわかるようによ」


 腰に手をあて、カンナはならぶ猫を見渡した。じゃっかんは馬鹿げて思えるけどしょうがない。


「どうしてあの人はいないの? いったいなにがあったの?」


「ナア!」


 キティがえた。それを合図としたように猫たちはぞろぞろと出て行く。――もう! なんなのよ!


「は?」


 店前にはキティだけがいた。魔法をかけられたかのように猫は消えている。まあ、身体の大きなゴンザレスが見えたから、ばらばらに駆け出したのだろう。カンナはしゃがみ込んだ。


「で? キティ。私はどうしたらいいの?」


「ナア」


 弱く鳴き、キティは顔をそむけた。それから、じんの方へ走り、立ちどまった。


「ついて来いってこと? そうなんでしょ?」


「ナア!」


 また走り、キティは振り向いた。鍵を閉め、カンナも走り出した。

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