第12章-1



【 12 】




 ひる家を出たのは二時過ぎだった。シャワーをび、濃いコーヒーをつくると彼はソファにうずまった。けっきょく思考はしびれたままで、なにも解決していない。


「ま、解決するわけもないけどな」


 うつろにひびいた声は床を転がっていった。ほんと、いいようにやられてる。こっちは防戦一方で、まったく打つ手がないもんな。これでしゃざいなんかに行ったらどうなっちまうんだろう? そこまで考えて、彼は立ち上がった。ね上げ式の窓からは引っくような音が聞こえている。


「ああ、クロか。ちょうどよかった」


「ん? 先生、どうかしたのか?」


 コーヒーを飲みながら彼はその日にあったことを話した。謝罪へ行くこと、大和田義雄とのかいだんについて、それに、蛭子よしから得た印象。クロは『ニャンミー マグロ味』をがつがつと食べ、たまに「ふうん」だの「へえ」とこたえた。


「いま言ったの全部キティに伝えといてくれ。さっき公園に寄ったんだけど、いなかったんだよ」


「ああ、あねには別件があってね。それでいそがしいんだよ」


「別件?」


「そう、ペロのことでちょっとな」


「ペロ吉になにかあったのか?」


 口の周りをめつつ、クロはソファに飛び乗った。


「ペロにってわけじゃないんだ。――いや、これは順序だって話した方がいいな。俺たちはあのじいさんを見張ってっだろ? そうなるとペロのアパートも見える。でな、ゆうくんってのがちょくちょく外に出されてるのも見えちまうわけさ」


「外に?」


「うん。あそこの親はアホなんだろうな。かぎが無いことが多いみたいでさ、よく部屋に入れなかったりしてんだよ。でも、それだけじゃないんだ。放り出されてもいるみたいだな。夜、明かりがいてるのに外で泣いてたりすっからな」


「そうなのか」


 ひたいに指をえ、彼は目をつむった。あの子にはあざもあった。やっぱりぎゃくたいされてるのかもしれないな。


「それでキティは?」


「ああ、姐御はそれを心配してさ。だけど、ペロの奴はあまりしゃべらないんだよ。ま、そういうわけでペロん家や親のことも見張ってんのさ。きっとそのうち先生に相談するつもりなんだろうよ」


「わかった。キティにはこれも伝えといてくれ。なにかあったらすぐ言って欲しいってな」


 大きくうなずき、クロは飛び降りた。


「で、先生はあやまりに行くって言ってたな。六時からかい?」


「そうだ。まあ、なんの謝罪かわからないけど、とにかく行ってくるよ。それについても後で報告する」


りょうかい。――ん? そういや、ちょうどペロとオチョが見張ってるはずだな。ま、ペロに会ったら、頭でもでてやってくれ。アイツ、しゃべらないけど悩んでそうだから」


 クロが出ていくと蓮實淳は腕を組んだ。――事が多すぎるな。頭がれつしそうだ。しかし、ひとつずつつぶしていくしかないんだろう。まずはジジイからだ。





 着替えてるところに電話が鳴った。階段を降りながら時計を見ると、五時十二分。


「はい、こちらなんでもお見通しの占い師、蓮實淳の店。出てるのはその蓮實淳です」


 指示通りの台詞せりふを言ったものの反応はない。受話器をながめ、彼はもう一度耳に押しあてた。弱いいきづかいだけがしてる。ただ、しばらくすると「……ん、ん、……ん」というのが聞こえてきた。


「えっと、すみません。ちょっと遠いようなんですけど」


「……ん、ん、んぅ……」


「なにか言ってます? 申し訳ないけど、ちゃんと聞こえないんですよ」


 そこで電話は切れた。


「なんだよ、無言電話か」


 たたきつけるように受話器を置いてから、「ああ、あれか」と思った。この頃そういうのも増えたのだ。もちろんカンナ目当てで、無言の場合もあればわいな言葉を投げかけてくるのもある。まあ、これもそうだったんだろう。休みと知らない間抜けが(そんなことをするのだから間抜けには違いない)かけてきたってわけだ。


 外に出るとにゅうどうぐもき上がっていた。それでいて風はなほど冷たい。じんの門前で立ちどまり、彼は公園をのぞいた。もう一度寄ってみようと思ったのだ。奥には子供が二人いて、ゲーム機をにらみつけている。


「キティ? キティ、いるか?」


 しげみに向かって声をかけると子供たちは顔をあげた。それから、このおじさんが探してるキティなるはこんなとこにかくれてるのだろうか? といった感じに首を曲げた。もちろん、誰もいない。子供たちはごこわるそうに身体をこわらせた。


 まいったな。これじゃ、しんしゃじゃないか。「いや、あのな、俺は猫を探してるだけなんだよ」とか言ってやりたかったけど、それも言い訳じみている。子供たちは「なにも見てません」といったふうにゲーム機に顔を向けた。彼はいろんなことをあきらめた。公園の丸い時計は五時三十六分を指していた。





 みょうけんどうの前で彼は腕を組んだ。警官らしき姿はない。それどころか誰もいなかった。雲は黒くなっている。ま、これじゃこうもなるよな。そんな中を俺はわけのわからないしゃざいに行くってわけだ。


「ほんと、うんざりするな。カンナが行きゃいいんだよ。俺はなにもやってないんだ」


 嫌でもれる。それを払うように歩き、彼はの奥をのぞいた。


「ペロ吉? オチョ?」


 強い風が吹き抜けていった。どうしたってんだ? 猫すらいないぞ。そう思っているとひたいすいてきがあたった。


「ああ、降り出したか」


 雨粒はボツボツと落ちた。電線もれ、みょうな音をたてている。彼は目を細めた。かしわの部屋だけなんだかおかしく思える。――ん、ドアが閉まりきってないんだな。そう考えてる内に雨は激しくなった。辺りを見渡し、彼はのきさきへ逃れた。こんなとこ誰かに見られたらどうなるんだろう? っていうか、オマワリはなにしてんだよ。


「蓮實先生?」


 声がした。あらわれたのはペロ吉だった。


「ごめんなさい。ボク、ちょっと、」


「ああ、いいよ。気にするな」


「先生はどうしたの?」


「これからあのじいさんにあやまりに行くんだよ。ところで、オチョは?」


「オチョさんは――」


 小さな猫は首を曲げた。そのとき、ひときわ強い風が吹いた。上からはバタンっという音が聞こえてくる。


「なんの音?」


「たぶん、あの爺さんの部屋だろう。ドアが開いてんだよ。それが風で――」


 そこまで言って、彼はだまった。なんで開いてるんだ? 目の前にはだいつきのバイクがある。ということは部屋にいるはずだ。しゃりの雨はかいにぶくしていた。――ちょっと待てよ。部屋にいるなら、なんでドアを閉めない?


「ペロ吉」


「なに?」


「ちょっと覗いてきてくれないか?」


「うん、いいよ」


「覗くだけでいいぞ。中を見たらすぐ戻るんだ」


 彼は時計に目を落とした。六時五分だ。あの警官は六時半って言ってたんだっけ? いや、六時と言ったはずだ。雨音はうるさいくらいだった。ただ、雲は切れている。ま、じきにやむだろう。そう考えてるところにさけび声が聞こえてきた。


「先生! 蓮實先生!」


「どうした?」


「大変なの! お爺さんが! あのお爺さんが倒れてる!」

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