第11章-6
帰り道でも彼は鼻に指をあてつづけていた。六時までに考えをまとめとなければならない。しかし、どうしたらいい?
「はあ」
「どうしたんですか? そんなところで」
「ああ――」
走るように近づくのを嘉江は笑顔で
「考えごとをしてまして。いや、変なとこ見られちゃいましたね」
「なんでもお見通しの先生でも悩むことがあるんですね。ちょっと安心しましたよ」
薄く笑いながら彼は奥にあるアパートを見つめた。屋根の一部しか見えないものの、それすら間違ったものに思える。
「そうそう、
「はあ」
蓮實淳は時計に目を落とした。――一時十二分。うん、話しといた方がいいかもな。この人はあのジジイと関係があるんだし、『あくりょう』という言葉でも
「では、すこしだけお
「もちろんですよ。先生は恩人なんですから。さあ、どうぞ、お入りになって」
庭を通るときもアパートが気になった。窓は閉じられ、強い日に輝いている。前に見たのはカメラのレンズだったのかもしれないな。あのジジイは写真を撮りまくって、
「先生?」
「あっ、すみません。また考えごとをしてました」
彼はまだ窓を見つめていた。その視線をたどり、嘉江は口許を
「主人が好きだったんですよ。お酒も好きなのに、甘いものにも目がなくて」
窓は開け放たれ、
「そうそう、先生にお説教されてからのゆかりは、それはもうきちんとしてますよ。お
「それはよかったですね」
「ええ、ほんとに。――ところで、さっき、ほら、外でお見かけしたときですよ。なにを悩んでらしたんです?」
「はあ。これからちょっと
「面倒なこと?」
「はい。実はお
お茶を
「トラブルですか? それはどのような?」
そうきたか。唇は自然と
「
「まあ、そうでしたの」
お茶を
「
「はい。おられますよ」
「その方なんですよ、トラブルの相手というのは。奥さんとは
「いろいろご存じのようですね。さすがというところでしょうか」
「ええ、まあ。これでもなんでもお見通しなもので」
彼は目を細めた。口許の
「これから私は
「謝罪に?」
「その方が謝罪を求めてるというんです。しかし、すこしおかしい。いや、全体を考えるとかなり
「どういうことです?」
「なんかちぐはぐなんです。話にまとまりがないんですよ。動機ははっきりしてるのに、それ以外が連動してない。まるで一人の人間がやってることじゃないみたいなんです。――いや、なに言ってるかわからないでしょう? 混乱してるんですよ。それくらい柏木伊久男という人物はつかみどころがないように思えます」
「ほんと、よくわかりませんわね。だけど、柏木さんはとてもいい方ですよ。それはこの辺の人に訊けばすぐわかることです」
「そのようですね。ただ、私にはそれも妙に思えるんです。大多数の人から好かれてるのに、ごく一部の人間からはひどく嫌われてる。――いえ、懇意にされてる方を悪く言うようですが、これは事実です。たったいま、その一人と会ってきたんですから」
首だけ動かし、嘉江は固まったようになった。視線は
「先生?」
「はい」
「柏木さんは古くからの友人なんです。私のというだけでなく、主人の
「いえ、見えませんでした。前にも言いましたが、あなたの過去はぼんやりしててよく見えなかったんです」
「でも、あの子――」
そう言って嘉江は仏壇を指した。声の
「古川
彼は口を半開きにした。『悪霊』だ。やはり、この人と柏木伊久男には
「自殺した生徒と柏木さんには関係があるんですか?」
嘉江は顔を向けてきた。
「いいえ。関係などありません。あるわけがないでしょう?」
「そうでしたか。――いや、すみません。なんか変な話になってしまって」
頭を下げながら彼は考えた。――古くからの友人ね。なんでそう言ってきたんだ? いや、流れからすりゃ、おかしくないか。ただ、自殺した生徒については? ――ああ、なるほど。向こうも探りを入れてたってわけか。どこまで知ってるか気になってるんだ。
「羊羹、もう少し
顔をあげると彼は身を引くようにした。嘉江は
「あっ、ああ、はい」
「さっきも申しましたが、主人はほんとにこれが大好きでね。誕生日にもケーキより羊羹がいいって言うくらいだったんです。だから、いまも
「はあ」
「これを食べると思い出すんです。それに、こうやって切り分けてると
皿を差し出し、嘉江は微笑んだ。
「ご主人を愛してらしたんですね?」
「いえ、違います。いまも愛してるんです。あの人はいつも私を
うつむいた顔を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます