第11章-6


 帰り道でも彼は鼻に指をあてつづけていた。六時までに考えをまとめとなければならない。しかし、どうしたらいい? ほうみょうさんどうを抜けた足はじんへ向かった。昼下がりのそのいったいは静かで楽器をたずさえた学生が通る程度だ。日は高いところにあり、せみが鳴いている。細い道に入ると彼は立ちどまった。


 しゃざいするっていっても、こっちには下げる頭なんてないんだ。それに、そもそもなんで犯罪者に謝罪しなきゃならない? すべてが間違ってるわ。


「はあ」


 しびれすぎた思考はに終わった。頭を振りつつ歩き出したところに声がした。顔を向けるとひるよしがいる。


「どうしたんですか? そんなところで」


「ああ――」


 走るように近づくのを嘉江は笑顔でむかえた。手には黒い袋をげている。


「考えごとをしてまして。いや、変なとこ見られちゃいましたね」


「なんでもお見通しの先生でも悩むことがあるんですね。ちょっと安心しましたよ」


 薄く笑いながら彼は奥にあるアパートを見つめた。屋根の一部しか見えないものの、それすら間違ったものに思える。


「そうそう、ようかんを買ってきたとこなんですよ。せっかくお会いできたんですから寄っていきませんか?」


「はあ」


 蓮實淳は時計に目を落とした。――一時十二分。うん、話しといた方がいいかもな。この人はあのジジイと関係があるんだし、『あくりょう』という言葉でもつながりがある。考えをまとめるには必要かもしれない。


「では、すこしだけおじゃしましょうか。でも、いいんですか?」


「もちろんですよ。先生は恩人なんですから。さあ、どうぞ、お入りになって」


 庭を通るときもアパートが気になった。窓は閉じられ、強い日に輝いている。前に見たのはカメラのレンズだったのかもしれないな。あのジジイは写真を撮りまくって、きょうはくのネタをひろい集めてるのだろう。


「先生?」


「あっ、すみません。また考えごとをしてました」


 彼はまだ窓を見つめていた。その視線をたどり、嘉江は口許をかたくした。




 はなれに入ると嘉江は羊羹を切り分け、ひとつをぶつだんそなえた。


「主人が好きだったんですよ。お酒も好きなのに、甘いものにも目がなくて」


 窓は開け放たれ、せんぷうが回ってる。線香のけむりは薄まっていった。


「そうそう、先生にお説教されてからのゆかりは、それはもうきちんとしてますよ。おそうも行き届くようになって、ほんと感謝しかないわ。それに、こういうのもどうかと思いますが夫婦えんまんのようでね、もしかしたら程ないうちに孫の顔が見られるかもしれません」


「それはよかったですね」


「ええ、ほんとに。――ところで、さっき、ほら、外でお見かけしたときですよ。なにを悩んでらしたんです?」


「はあ。これからちょっとめんどうなことがありましてね。どうしたらいいか考えてたんです」


「面倒なこと?」


「はい。実はおたくのアパートに住んでる方とトラブルになりましてね」


 お茶をすすりながら彼は反応を探ってる。この人はきっと知ってるはずだ。さあ、なんてこたえる?


「トラブルですか? それはどのような?」


 そうきたか。唇は自然とゆがんだ。嘉江はごく普通の顔つきをしている。


かんちがいから起こったことなんですがね、その、なんていうか、うちのカンナがぼうげんきまして、それで相手の方はおびえてるようなんです。外にも出られないとおっしゃってるようで」


「まあ、そうでしたの」


 お茶をれ直そうと嘉江は横を向いた。その瞬間に彼はこう訊いてみた。


かしわさん。そういう方がいますよね?」


「はい。おられますよ」


「その方なんですよ、トラブルの相手というのは。奥さんとはこんにされてますよね? ここにも来てるようだし、あなたもアパートまでよく行ってる」


 きゅうを持ち上げ、嘉江はほほんだ。


「いろいろご存じのようですね。さすがというところでしょうか」


「ええ、まあ。これでもなんでもお見通しなもので」


 彼は目を細めた。口許のしわ、小鼻の動き、口の開け具合。そういったものを見てるのだ。


「これから私はしゃざいに行かなきゃならないんですよ」


「謝罪に?」


「その方が謝罪を求めてるというんです。しかし、すこしおかしい。いや、全体を考えるとかなりみょうなんです」


「どういうことです?」


「なんかなんです。話にまとまりがないんですよ。動機ははっきりしてるのに、それ以外が連動してない。まるで一人の人間がやってることじゃないみたいなんです。――いや、なに言ってるかわからないでしょう? 混乱してるんですよ。それくらい柏木伊久男という人物はつかみどころがないように思えます」


「ほんと、よくわかりませんわね。だけど、柏木さんはとてもいい方ですよ。それはこの辺の人に訊けばすぐわかることです」


「そのようですね。ただ、私にはそれも妙に思えるんです。大多数の人から好かれてるのに、ごく一部の人間からはひどく嫌われてる。――いえ、懇意にされてる方を悪く言うようですが、これは事実です。たったいま、その一人と会ってきたんですから」


 首だけ動かし、嘉江は固まったようになった。視線ははいに向かってる。しかし、二つある内のどちらを見てるかはわからなかった。


「先生?」


「はい」


「柏木さんは古くからの友人なんです。私のというだけでなく、主人のおさなみなんですよ。占ったとき、それも見えたんじゃないですか?」


「いえ、見えませんでした。前にも言いましたが、あなたの過去はぼんやりしててよく見えなかったんです」


「でも、あの子――」


 そう言って嘉江は仏壇を指した。声のよくようとぼしくなっている。


「古川おりのことは見えたんですよね?」


 彼は口を半開きにした。『悪霊』だ。やはり、この人と柏木伊久男にはつながりがある。それも古くからのいんねんめいたものが。


「自殺した生徒と柏木さんには関係があるんですか?」


 嘉江は顔を向けてきた。ほほけずり落としたようになっている。


「いいえ。関係などありません。あるわけがないでしょう?」


「そうでしたか。――いや、すみません。なんか変な話になってしまって」


 頭を下げながら彼は考えた。――古くからの友人ね。なんでそう言ってきたんだ? いや、流れからすりゃ、おかしくないか。ただ、自殺した生徒については? ――ああ、なるほど。向こうも探りを入れてたってわけか。どこまで知ってるか気になってるんだ。


「羊羹、もう少しし上がっていって下さいね」


 顔をあげると彼は身を引くようにした。嘉江はほうちょうを持っている。


「あっ、ああ、はい」


「さっきも申しましたが、主人はほんとにこれが大好きでね。誕生日にもケーキより羊羹がいいって言うくらいだったんです。だから、いまもつきめいにちにはそなえてるんですよ」


「はあ」


「これを食べると思い出すんです。それに、こうやって切り分けてるとなつかしく思えますよ。あの人は『もっと大きく切ってくれ』って言ってね。私が『これくらい?』と訊くと、『もっとだ』って。そういうとこは子供だったんですね」


 皿を差し出し、嘉江は微笑んだ。


「ご主人を愛してらしたんですね?」


「いえ、違います。いまも愛してるんです。あの人はいつも私をゆるしてくれました。沈みこんでいく私を沈みきる前に救い上げてくれたんです」


 うつむいた顔をのぞきこむと嘉江は瞳だけ向けてきた。すこしすごのあるような表情だ。蓮實淳は顎を引き、鼻に指をあてた。

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