第11章-5
「ああ――」
大和田義雄は立ち上がった。テーブルにはコーヒーカップが二つ置いてある。
「すみません。早くに出たんですが、警察の人間と話してたものですから」
「警察の?」
「はい。ちょっといろいろありましてね」
そう言いながら蓮實淳は腰をかけた。相手は頭を下げている。
「あの、その
「大和田さん、それはもういいですよ。私の方も失礼なことを申し上げたんですから、お
「はあ」
「それで、さっそくですが、」
「これは?」
「奥さんから聴いてませんか? うちの店にこんなのが来て、それからコイツが音大や
「手に取ってもいいですか?」
「もちろんいいですよ」
蓮實淳は目を細めた。どっちを先に取るだろう? そう見ていたのだ。ふむ、脅迫状か。
「こんなものが、」
「それも面白いですが、こっちはさらに
眼鏡を
「これを妻に見せましたか?」
「いや、まさか。見せる必要はないでしょう。しかし、
「どういうことですか?」
彼は鼻に指をあてた。店の中は
「あなたの奥さんは
「それを妻は私に伝えた。あなたはそうなるだろうって考えたわけですか?」
「はい。そうでなきゃならないはずだと思いました。そして、実際にもこうなった。ということは、わかりますか? 奥さんはこのビラの内容も知っていたってことになる。まあ、すくなくともあなたのことが書かれてるのは知ってたはずです。それと私の訊いた老人が
溜息のような音がした。目だけが向けられている。口許には細かく
「
「いや、」
そう言ったきり、相手は固まったようになった。蓮實淳はじっと見つめてる。
「いえ、これ以上の嘘はよくないですね。はい、知ってます。それは、この『あくりょう』というので明らかです。柏木という老人ですよ」
「どういうことです? その老人が『あくりょう』というのは」
「自分でそう名乗ってきたんです。私はここで――」
周囲に目を向けると、大和田義雄は
「そう、ここでその男と知り合ったんですよ。はじめは人の良さそうな老人に思えたんですがね。混んでるときに席がなくて、どうしようかと思っていたら声をかけられて。いや、きっとあれも仕組まれたことだったんでしょう。それから話すようになったんです。それが、ある日突然写真を見せてきてね」
「なるほど。あなたがああいったことをしてた
「ええ。あの男はこう言ったんです。『ご主人、私は昔から「あくりょう」と呼ばれてるんですよ。下手すると取り殺されるってわけです』ってね」
「それから脅迫されつづけてたってことですか?」
「ただ、すこし
「少額というのは?」
「月に一万ですよ。毎月十五日にここで渡してました。いえ、もちろん少ない方がいいですが、もっと要求されると思ったので
「ふむ」
蓮實淳はふたたび鼻に指をあてた。どういうわけだ? ここにもちぐはぐさがある。金を持ってるのは知ってたはずだ。それは、『
「これも率直に訊きますが、あなたはこのビラを見せられてませんか? その柏木という老人からということですが」
「ああ、いえ、見せられてはいませんが、話は聴きました。夏の初めに久しぶりに会ったんです。そのとき、『あんたのことを書いたんだが、わからないようにしてあるから気にしないでくれ』って」
「わざわざそう言ってきたってことですか?」
「はい。あの人はちょっと変なんですよ。脅迫されてたのは事実ですが、こう、なんていうか、表面的には悪気がないというか。それに、一万円でしょう? 私の方もどういうわけか父親に
指は動きつづけてる。それに合わせて頭も回転していた。しかし、理解できることは少なかった。
「あの、」
思考は中断された。くたびれた顔は目の前にある。
「戻らなければなりませんので。他になにかありますか?」
「すみません。考えこんでしまいました。――そうですね、とりあえずはこれくらいでいいでしょう。あの男が脅迫してたというのはわかりましたから。ありがとうございました」
細かくうなずき、大和田義雄は腰を浮かしかけた。彼はその顔をじっと見つめてる。
「ああ、もうひとつだけ。ご主人、だいぶ前から奥さんは知ってましたよ。いえ、はっきり知ってたのではないでしょうが、あなたが悩まれているのはわかっていた。私は奥さんの中に見たんです。もやもやしたガスのような存在を。それがあなたを苦しめてると気づいていたんです」
座り直すと、大和田義雄は目を大きく見ひらいた。背中はひどく丸まっている。
「ですから、これについても話しておいた方がいいように思えます。後でわかるより、前もって耳に入れておいた方がいいってことですよ。差し出がましいようですが、私はそう考えます」
瞳は動きまわっている。ただ、最後に正面へ向けられた。
「そうでしたか。――わかりました。今日、家へ帰ったら話します。先生、ほんとうにいろいろありがとうございます」
よろめくように歩く中年男を見送ると彼はまた鼻に指をあてた。ほんと、あのジジイはもやもやしたガスみたいな存在だな。つかみどころがない。さて、これからどうなることやら。
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