第11章-5


「ああ――」


 大和田義雄は立ち上がった。テーブルにはコーヒーカップが二つ置いてある。


「すみません。早くに出たんですが、警察の人間と話してたものですから」


「警察の?」


「はい。ちょっといろいろありましてね」


 そう言いながら蓮實淳は腰をかけた。相手は頭を下げている。


「あの、そのせつはいろいろとおほねりしていただきありがとうございました。失礼なことを言ったかと思いますが、そちらはごようしゃいただけると――」


「大和田さん、それはもういいですよ。私の方も失礼なことを申し上げたんですから、おあいってことにしておきましょう。さ、もうやめて下さい」


「はあ」


「それで、さっそくですが、」


 きょうはくじょうとビラを差し出すと、彼はひたいに指をえた。


「これは?」


「奥さんから聴いてませんか? うちの店にこんなのが来て、それからコイツが音大やぽんじょの近くにられたんです」


「手に取ってもいいですか?」


「もちろんいいですよ」


 蓮實淳は目を細めた。どっちを先に取るだろう? そう見ていたのだ。ふむ、脅迫状か。


「こんなものが、」


「それも面白いですが、こっちはさらにきょうぶかいはずですよ。どうです?」


 眼鏡をはずし、大和田義雄はビラを手に取った。セットしてあった髪はほつれ、うっすらと汗が浮かんでる。


「これを妻に見せましたか?」


「いや、まさか。見せる必要はないでしょう。しかし、うわさを聞いたとおっしゃっていたので、内容に関しても耳に入ってるかもしれませんね。いえ、たぶん知っておられるんでしょう」


「どういうことですか?」


 彼は鼻に指をあてた。店の中はさわがしく、すぐわきを通る者もいる。大和田義雄はビラを折り曲げた。


「あなたの奥さんはかしこい方です。それに、意志の強い人でもある。そういう方が久しぶりにたずねて来られた。自分は味方だと言いに来たと仰っていたが、たぶんそれだけではないのでしょう。助けを求めるつもりもあったのだと思うんです。では、どういう助けが必要だったのか? それは簡単ですね。元々あなたのことで来られたんだ、これだって同じと考えていい。だから、私はあなたに老人の知りあいがいないか訊いたんです」


「それを妻は私に伝えた。あなたはそうなるだろうって考えたわけですか?」


「はい。そうでなきゃならないはずだと思いました。そして、実際にもこうなった。ということは、わかりますか? 奥さんはこのビラの内容も知っていたってことになる。まあ、すくなくともあなたのことが書かれてるのは知ってたはずです。それと私の訊いた老人がつながったんでしょう。つまり、その者が作者なんだろうと思ったってことですね」


 溜息のような音がした。目だけが向けられている。口許には細かくしわきざまれていた。


そっちょくに訊きますよ。あなたはこれを作った男を知ってますね?」


「いや、」


 そう言ったきり、相手は固まったようになった。蓮實淳はじっと見つめてる。


「いえ、これ以上の嘘はよくないですね。はい、知ってます。それは、この『あくりょう』というので明らかです。柏木という老人ですよ」


「どういうことです? その老人が『あくりょう』というのは」


「自分でそう名乗ってきたんです。私はここで――」


 周囲に目を向けると、大和田義雄はささやくように話しだした。


「そう、ここでその男と知り合ったんですよ。はじめは人の良さそうな老人に思えたんですがね。混んでるときに席がなくて、どうしようかと思っていたら声をかけられて。いや、きっとあれも仕組まれたことだったんでしょう。それから話すようになったんです。それが、ある日突然写真を見せてきてね」


「なるほど。あなたがああいったことをしてたしょう写真ってわけですか。で、そのときに『あくりょう』と名乗ったんですか?」


 あごを引き、大和田義雄はにらむように見つめてきた。それから、息をくのに合わせてこう言った。


「ええ。あの男はこう言ったんです。『ご主人、私は昔から「あくりょう」と呼ばれてるんですよ。下手すると取り殺されるってわけです』ってね」


「それから脅迫されつづけてたってことですか?」


 にもたれかかり、男はうなずいた。けんには皺が寄っている。


「ただ、すこしみょうなんです。要求してきたのは思いのほか少額で」


「少額というのは?」


「月に一万ですよ。毎月十五日にここで渡してました。いえ、もちろん少ない方がいいですが、もっと要求されると思ったのでかたかしというか、」


「ふむ」


 蓮實淳はふたたび鼻に指をあてた。どういうわけだ? ここにもがある。金を持ってるのは知ってたはずだ。それは、『ゆうふくな家庭』と書いていたのからもわかる。それなのに、なぜ一万円なんだ?


「これも率直に訊きますが、あなたはこのビラを見せられてませんか? その柏木という老人からということですが」


「ああ、いえ、見せられてはいませんが、話は聴きました。夏の初めに久しぶりに会ったんです。そのとき、『あんたのことを書いたんだが、わからないようにしてあるから気にしないでくれ』って」


「わざわざそう言ってきたってことですか?」


「はい。あの人はちょっと変なんですよ。脅迫されてたのは事実ですが、こう、なんていうか、表面的には悪気がないというか。それに、一万円でしょう? 私の方もどういうわけか父親にづかいを渡してるような気分になってて。――いえ、もちろん、嫌ってはいましたがね」


 指は動きつづけてる。それに合わせて頭も回転していた。しかし、理解できることは少なかった。


「あの、」


 思考は中断された。くたびれた顔は目の前にある。


「戻らなければなりませんので。他になにかありますか?」


「すみません。考えこんでしまいました。――そうですね、とりあえずはこれくらいでいいでしょう。あの男が脅迫してたというのはわかりましたから。ありがとうございました」


 細かくうなずき、大和田義雄は腰を浮かしかけた。彼はその顔をじっと見つめてる。


「ああ、もうひとつだけ。ご主人、だいぶ前から奥さんは知ってましたよ。いえ、はっきり知ってたのではないでしょうが、あなたが悩まれているのはわかっていた。私は奥さんの中に見たんです。もやもやしたガスのような存在を。それがあなたを苦しめてると気づいていたんです」


 座り直すと、大和田義雄は目を大きく見ひらいた。背中はひどく丸まっている。


「ですから、これについても話しておいた方がいいように思えます。後でわかるより、前もって耳に入れておいた方がいいってことですよ。差し出がましいようですが、私はそう考えます」


 瞳は動きまわっている。ただ、最後に正面へ向けられた。


「そうでしたか。――わかりました。今日、家へ帰ったら話します。先生、ほんとうにいろいろありがとうございます」


 よろめくように歩く中年男を見送ると彼はまた鼻に指をあてた。ほんと、あのジジイはもやもやしたガスみたいな存在だな。つかみどころがない。さて、これからどうなることやら。

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