第11章-2


 しかし、そういうほうもんだけではなかった。大きな紙袋をげた大和田紀子もやって来た。


「こんにちは。ごしておりました」


 ガラス戸があいた瞬間に二人は顔を見合わせた。この人のだんさんはきょうはくされてたんだ――そう思ったわけだ。ただ、笑顔を整えるとカンナはソファから飛び出した。


「まあ! どうされたんですか?」


「いえ、教室でパイを焼いたのでおすそけにと思いまして」


「えっ、手作りのパイですか? うれしい!」


 デスクに手をついたまま彼は目を細めてる。大和田紀子は頭を下げ、ソファに浅く掛けた。


「もう半年になりますわね。ほんとうにご無沙汰してしまって、すみませんでした」


「いえ、その後お変わりはありませんか?」


「はい。おかげさまで」


「で、今日はなにか?」


「ですから、パイのお裾分けにと思いまして」


 向かいに座りながら、彼はわからない程度に口許をゆるめた。踏切の音が遠く聞こえている。


「ほんとすごぉい。これ、レモンパイよ。はい、これは奥さんの。で、あなたがこっちで、私はこれね」


 のぞきこむとみょうに大きさが違う。さらに口許をゆるませ、彼は指をき出した。


「でも、それだけではないですよね?」


 大和田紀子は笑った。それまでとは違う種類の笑顔だ。


「やっぱりわかりましたか。なんでもお見通しの先生ですものね。――はい、ちょっと気になることを耳にしたので、」


「この店に関するうわさですね? 奥さんのお耳にも入りましたか」


「ええ、うちは料理教室をしてますでしょう。若い方も多いので、いろんな話が出るんですよ。その中にここのことがあって、――いえ、みんな嘘だろうって言ってるんですよ。信じてはいないのですが、」


 彼はうなずいた。カンナを見ると、口のはしについたクリームをぬぐってる。


「大変なことになってますわね。でも、大丈夫ですよ。私は味方ですから。そう言いたくて来たんですの」


「ありがとうございます」


 拭ったクリームを口に入れ、カンナも頭を下げた。ほんと、こういうのっていいわよね。接客のだいってやつよ。私たちはこうやってお客さんと信頼関係を築いてきたの。顔を向けるとおだやかなほほみが見える。ただ、目許にはモヤッとしたところがあった。――ああ、この人もちちり合ってるって聞いたんだ。ま、別にいいけど。



 それからはあいのない話がつづいた。その中で大和田紀子はこう言ってきた。


「そう、最近うちに黒猫がよく来るんですよ。ほんとかわいいんですけど、その、げんかんの前をおトイレと思ってるのか、いつもしていくんです。主人が片づけてくれてるんですが、ちょっと気の毒で」


「ああ――」


 語尾を伸ばし、彼は唇をゆがめた。クロだな。ま、はすべきものだが玄関前ってのはな。


「わかりました。いえ、どうするってわけではないですが、なんとかしましょう。そのうちそういうこともなくなるはずですよ」


「はあ」


 大和田紀子はあごを引いている。でも、この男ならなんとかしてくれるかもと思ったのだろう、笑いながら時計を見た。


「では、私はこれで。すみません、ながしてしまって」


「いえ、こちらこそ気をつかって頂いてすみませんでした」


 外へ出ると三人ともにひたいかざした。日は高く、いしだたみは反射できらめいている。行きかけたところで彼はこう訊いてみた。


「ああ、ひとつだけ。奥さん、ご主人の知りあいに七十過ぎのおじいさんはおられますか? よく顔を合わせてるような方です」


 振り向いた顔はいつものものだった。とくになにも知らないといった表情だ。


「そういう方はいないかと。でも、どうしてです?」


「いえ、とくに意味はないです。忘れて下さい」


 影が小さくなるとカンナは顔をあげた。


「さっきの、なんでああ言ったの? あんなふうに言われたら気になっちゃうじゃない」


「だろうな。でも、だから言ったんだ。あれを聴いたら、だんはもっと気になるだろ? そしたら向こうからせっしょくしてくるかもしれない。そうやって動くのを待つんだ。きっと、なにか新しいことがわかるだろう」




 そうはいったものの、これといって新しい動きはなかった。まあ、うたぐり深いや変態が来るようになったのは新しいことだったのかもしれないし、以前ほどいそがしくなくなったのも――みょうな表現になるけど――新しい動きといえるのだろう。問題はそのいずれもが望んだ状態でないことだ。


 そろそろ九月になるという火曜にカンナはソファで雑誌をめくっていた。暮れかかった日に影は長く伸びている。からすの声もわびしく聞こえた。夏は弱まり、秋が来るのだ。くびらしたカンナは口を押さえた。前に言われたときは腹が立ったけど、こういうのってなつかしい気がする。まだ寒かった頃はよくこうやって雑誌をながめていたものだった。あの人はバステト神像を縦にしたり横にしたり、『アスクル』をじゅくどくしてたっけ。


 カンナはてんじょうを見上げた。三十分ほど前にキティが来て、は二階にあがっていた。こういうのも懐かしい。そう、『大和田義雄りん事件』のときもこうだった。二人(というかなんというか)は上にいて、私は一人ぼっちだったんだ。


「はあ――」


 一人ぼっちという言葉にげきされたのか溜息が洩れた。誰も来ない。それに、「動くのを待つ」とか言ってたけど、なにも動いてないじゃない。だったら、せめてあのオマワリさんに会いたい。


「ほんと、来てくんないかなぁ」


 独り言も洩れた。ガラス戸の先はオレンジにまっている。


「あっ、そうか。またあのジジイにっかかっていけば来てくれるかも。そしたら、またお茶をお出ししなくちゃ。美味しいって言ってくれたもんね」


 蓮實淳は足を止めた。お前はしちか――というのが感想だ。警官に会いたいからって問題起こす奴もいないだろ? キティも目を細め、毛を逆立てている。


「ナア!」


 カンナは背中をかたくさせた。振り返ると猫しょうがいる。――やだ、いまの聞かれてないわよね?


「ん? どうした? そんな顔して」


「え? 別になんでもないけど」


 ニヤつきながら彼はガラス戸を開けた。キティが出ていっても同じ表情のままだ。


「来ないな」


「誰が?」


「ん? 大和田のだんだよ。ちょっとあやまったかもな」


 そう言った顔はさらにニヤついてる。カンナはほほを染め、雑誌に目を落とした。


「そのうち来るんじゃない? ――ま、とにかく待つしかないわ」

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