第10章-4


 警察に相談するというのは前からあった話だったけど、幾つかのことががいしていた。まず、カンナがオマワリ嫌いということ、それに大和田やしぎぬまるいおよぶかもしれないというのもあった。蓮實淳は悩んでいた。ただ、そんな考えをよそに警官は向こうからやって来た。


「あのう、すこしお話があるんですが、」


 そう言ってきたのは青いかんぷくの上にメッシュのベストを着込んだ若い男で、色は浅黒く、歯は輝くように白かった。その後ろには眼鏡をかけた小太りがひかえてる。


「えっと、お話ってどのような、」


 蓮實淳は立ち上がった。目はカンナへ向けている。こいつはそうとう不安定になってるからな。警官なんか来たら、また泣き出したりするんじゃないか? そう思っていたのだ。


「いえ、少し確認というかですね、」


 緊張したおもちで警官は入ってきた。むかえつつ振り向いた彼は、はあ? と思った。どんだけ作り込んだ顔してんだよ。――ああ、そういや母親のこと思い出したとき、昔の男も出てきたな。確かにるいけいだ。しかも、こっちの方がだいぶ上等だしな。


 彼はそのように思ったわけだけど、カンナの心情はより複雑なものだった。まずは母親を思い出し、なつかしさと同時にけんを感じた。それから、この前の回想に入った。千春ちゃんはこの人が好きでたまらないんだろう。あんだけしっするってのはそういうことよね。だったら素直に言うとか、態度であらわせばって思うけど、そうはできないんだろうな。それに、私が一緒にいるのが気に入らないのもあるんでしょ。でも、なんだからしょうがないじゃない。――あっ、そうか。ほんとにどうとも思ってないって示せばいいんだ。


「カンナ?」


「はい?」


 とんきょうな声を出し、カンナは口を押さえた。


「どうしたんだよ、ぼうっとして」


「え? ぼうっとなんかしてないでしょ。ちょっと、その、考えごとはしてたけど」


 見上げたほほまってる。小太りがわきに立ったけど、そちらは見ようともしない。――うん、り固まってちゃ駄目ね。せまい世界にいると、どうしたって考えがかたよっちゃうのよ。私は東京に出てきたんだし、ここには大勢の男がいるの。こんなろくでなしを中心に物事を見るなんて馬鹿げたことなんだわ。


「さ、お掛けになって下さい。お茶をれますね。――あ、コーヒーの方がよかったかしら? それとも冷たいものがいいですか?」


「いえ、おかまいなく。すぐ戻りますので」


「でも、お茶の一杯くらい飲んでいけるでしょう? すぐ出せますから」


 困った顔で警官はあいぼうを見た。奥からは鼻歌とカチャカチャという音がしてる。蓮實淳は座るよううながし、自分も向かいに掛けた。


「で、お話というのは?」


「はい、実はですね、ある方から相談があったんですよ。その、こちらとトラブルになったとかで」


「トラブルですか?」


 そう言ったとき、作り込んだ笑顔のカンナがやって来た。


「警察のお仕事も大変でしょう。こんな暑いのに動きまわったりするんですもの。――あの、私の母も警察官なんですよ。だから、そういうのすごくわかります。これは疲労回復のお茶です。ちょっとっぱいけど暑いときにはいいですからね」


 ほほんだままカンナはじっと見つめてる。その意味をりょうかいしたのか、二人とも口をつけた。


「あっ、美味しいですね」


 ひときわ強い笑顔をみせるとカンナはだいぶはなれたところに座った。そこから若い警官をながめてる。小太りは手帳を出し、ページをった。


「ええと、三日前ですか。八月十八日の夕方、五時近くですね。この前を通りかかった男性にこちらの女性の方が、その、突然バイクの前に飛び出してきて、なにか言ってきたとのことですが」


 目を向けられてもカンナは気づかないようだった。おいおい、マジかよ――そう思いつつ彼は身を乗り出した。


「なにか言ってきたというのは? いえ、確かにそういうことはありましたよ。でも、先方はどうおっしゃってるんです?」


「それが、あまりくわしく聴けてないんですよ。その方はすごくおびえてましてね。ええと、『若い人たちに囲まれて、意味のわからないことを一方的に言われた』と仰ってますね。『突然バイクの前に飛び出されて、それだけでも怖かったのにおどされもした。もう怖くてあの辺には行けない』とです」


 ふうむ、そうきたか――蓮實淳は鼻に指をあてた。目は自然と細まっていく。ただ、カンナを見ると吹き出しそうになった。こいつ、まったく聞いてないな。ま、その方がいいけど。


「それで相談されたってことですか。しかし、あれはかんちがいっていうか、まあ、行き違いみたいなものだったんですよ。そう仰ってはいませんでしたか?」


 小太りの警官は片方のまゆをあげた。なにかに落ちないといった表情だ。若い方はしきりにうなずいている。


「そうですね。向こうの方も人違いじゃないかと仰ってます。でも、ほんとうにそうなんですか?」


「まあ、そうなんでしょう。いえ、見ればわかるでしょうけど、この子はいつもぼうっとしてるんですよ。それで勘違いしたんだと思いますよ。先方もそう言われてるようだし、それだけのことに思えますが」


 ん? カンナは唇をすぼめた。れてるとはいえ、聞いてないわけじゃなかったのだ。うんうん、あのジジイが相談したってことでしょ。でも、そのおかげで私はてきな方にめぐり会えたってわけね。ほんと、悪いとしか思えないことにも良い部分はあるもんだわ。――あっ、そういった意味じゃ、「ジジイ」なんて言うのはよくないのかも。「おじいさん」って言うべきよね。まったく、たちの悪いお爺さんだこと。


「で、その方はどうして欲しいと言ってるんです?」


 小太りはとなりを見た。相棒は正面を向いたままだ。


きょうはくになるだろうから、うったえることもできるはずだと言ってましてね。――いえ、ここだけの話なんですが、ちょっとうるさ型の方でして」


 蓮實淳は眉をひそめた。なにかがおかしい。小太りを見ると、その顔にも薄くこんわくが浮かんでる。――しかし、脅迫ときたか。よく言えたもんだな。


「でも、おかしくないですか? その方も人違いだと言ってるんですよね? だったら、なにもそこまでしなくていいじゃないですか」


「仰る通りなんですが、その方は大変おびえてるんですよ。外にも出られないと言ってるほどなんです」


 若い警官はあごかたくさせている。ただ、すぐにゆるめ、手帳を閉じた。


「しかし、勘違いなら同じことは起こらないと考えていいのでしょう。そういうことですよね?」


「そうですね。お互いそう言ってるのだし、トラブルになる原因もないのだから同じことは起こらないでしょう」


「では、先方にはそのように申し伝えておきます。それで納得してもらえれば一番ですからね」


「すみませんね。お手数かけてしまって」


「いえ、こういうのはよくあるんですよ。――ま、これもあまり大声で言うようなことじゃありませんが、この辺は田舎いなかと違って、少しばかり頭でっかちなお年寄りが多くってですね。だからかわかりませんが、トラブルも多いんです」


「そうなんですか。ああ、そういえばなにかで聞きましたね。豊島区は空き家も多けりゃ、独り暮らしの老人も多いって」


 グラスを置き、小太りはうなずいた。先程の困惑は消え失せたようだ。


「ええ、ほんと多いですよ。それに、空き家は増える一方です。この前も、いや、去年の四月だったな、この近くのりっきょうから独り暮らしのおばあさんが落ちてくなりましてね。けっこう広い家が空き家になってしまったんです」


「ああ、それも聴きました。ひどい雨の日に足をすべらせたとかで、」


 そこまで言って蓮實淳は口を閉じた。なにかが気になったのだ。ただ、ふたたび吹き出しそうになった。こっちの相棒はよだれらしそうな顔つきをしてる。


「ま、そういうわけなんです。老人同士のトラブルも多いですから。しかし、この件はすぐ解決しそうですね。ありがとうございました」


 小太りが先に出ていった。若い方は戸口で振り返り、「あの、お茶、美味しかったです」とささやいてきた。


「――あっ、いえ、気に入っていただけたようでうれしいです。いつでもいらして下さいね。美味しいお茶をれて差し上げますから」


 蓮實淳はてんじょうを見上げた。相手もどうこたえたらいいか迷ったのだろう、「はあ、では機会があれば」と言って出ていった。


「君はオマワリが嫌いなんじゃなかったっけ?」


 二人だけになると彼はそう訊いてみた。


「私そんなこと言った?」


 振り向きもせずにカンナはこたえた。目はガラス戸の先へ向かってる。


「そんな感じのことを聴いたように思うけど」


「ま、もしそうだったとしても、すべてのオマワリさんが嫌いなんじゃないわ。中には素敵な方もいるんだし」


「なるほど」


 彼はグラスを片づけはじめた。こんなんじゃ使い物にならないだろう。そう思ったのだ。ただ、奥に行きかけるとカンナはにらみつけてきた。


「そういえば、さっき私の悪口言ってたでしょ。いつもぼうっとしてるとかって」


 首を振りながら彼はグラスを洗った。――ほんと感情のふくが激しすぎるな。マジで疲れるわ。

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