第10章-3


「はい! そこのバイク! まりなさい! 停まるの!」


 さけびながらカンナは全力しっそうした。さんどうに居あわせた人は立ちどまって見てる。きってんから顔を出す者もいた。


「聞こえないの! 停まれって言ってるでしょ!」


 サイドミラーを見たのだろう、バイクはスピードを速めた。ただ、直後に減速した。追い越したカンナ両手を広げ、立ちはだかった。


「どうしました? なにかご用ですか? おじょうさん」


 バイクはぷすんぷすんと音を立てている。それもムカつきをぞうしょくさせていった。


「どうもこうもないわよ!」


「おい、やめろって」


 やっと追いついた蓮實淳は引き戻そうとした。しかし、カンナは動かない。


「飛び出すのは危険ですよ。おおするかもしれない。かわいい顔に傷でもついたら大変だ」


「そうやっておどすつもりなんでしょ! そんなのかないわよ! 私は決めたの! 負けないって! あんたみたいないんけんジジイになんて負けないんだから!」


「なんのことですか? まったく意味がわからないが――」


「しらばっくれる気?」


 だんむようにしてカンナはわめいてる。その頃には千春や学生たちも周りを囲んでいた。


「そう言われてもね。しらばっくれるもなにも私はあなたを知らないんですよ。あなたは私をご存じなんですか?」


「ご存じよ! すっごく、ご存じ! あんたがあの馬鹿げた! 嘘ばっかりの! いやらしいビラを作った犯人だってのもご存じなんだから!」


 ちょっとは落ち着けよ――そう思いながら彼は腕をつかんでいた。ただ、その度に払われた。しまいに二人はこんがらがり、わけがわからない感じになっていった。


「犯人とはおだやかじゃないですな。ええと、ビラですか? それを私が作ったと?」


「まだしらばっくれるの? いい? 私はいんばいなんかじゃないの! 『Bitch』の意味だって知ってるし、その上であれを着てるの! それに、私たちがいつちちり合ってたっていうの! あんなこと書くから、こっちは大変だったのよ! 従姉いとこともぎくしゃくしちゃったし! ほんと、あんたは『あくりょう』よ! 自分でも書いてたでしょ! 『あくりょう』って!」


 彼は目を細めた。あごかたくなったのを見たのだ。しかし、そうと気づいたのだろう、老人は顔全体をゆるませた。


「今度は『あくりょう』ですか。しかし、あなた方はその正確な意味を知らないはずだ。いや、知るわけもない」


「はあ? どういう意味よ!」


 カンナの怒りは収まらないようだった。――まったく、しょうがないな。彼は横から抱きつき、耳許にささやいた。


「もうやめろ。こんなことしたら俺たちの負けになる。それに、」


 え? カンナは身をすくめた。やだ、こんなとこでこんなこと。それに千春ちゃんに見られたら大変。ううん、絶対見られてる。――ところで、それに、なに?


「こんなとこで『淫売』だの『乳繰り合ってる』だの言うな。みんな見てるぞ」


 あっ、やだ、私ったら。カンナはしきりに髪をいじりだした。全身が赤くなってるのは怒りからだけではなかった。様々な感情が複合的におそい、こうふんが収まらないのだ。


「変な言いがかりはやめて下さいよ。私は気の弱い年寄りでね、こんなふうに若い人たちに囲まれるだけでも心臓に悪いんです」


 そこまで言うと老人はバイクを後戻りさせた。顔は蓮實淳へ向けている。


「こちらのお嬢さんはなにかかんちがいされてるんでしょう。それか、人違いなんでしょうな」


 彼はだまっていた。どう返せばいいかわからなかったのだ。ただひとつだけ確かなことがあった。やはり、この男が犯人なのだ。それもひとすじなわではいかない人間のようだ。老人は顔を近づけ、小声で言ってきた。


「これは、まあ、事故のようなもんでしょう。互いにがなくて良かったってことにしておきませんか? ただし、出過ぎたはやめた方がいい。怪我くらいで済めばいいが、うっかりするともっとひどいことになるかもしれない。運命なんて誰にもわからないですからな。そうでしょう? 先生」


 老人はじっと見つめ、口許をゆるませた。そして、そのまま去っていった。





 居あわせた全員がじんの方へ折れるバイクを見ていた。何事もなかったかのようにそれは姿を消した。


「カンナちゃん?」


 学生の一人が声をかけた。カンナはぼうっと立ちくしている。


「大丈夫?」


「え?」


 まぶたを瞬かせ、カンナは首を引いた。それから、千春の顔をうかがった。――やっぱり。こういうときだってしっはするのね。


「あ、うん。私は大丈夫よ。ちょっと、――ううん、だいぶこうふんしちゃったけど」


 今度は蓮實淳の方を窺ってみた。悩み深そうにしてるものの怒ってはなさそうだ。でも、ここは反省すべきとこよね。


「ごめんなさい! あんなことしちゃって」


「いいよ。――いや、まあ、よくはないけど、しょうがない。とりあえず店へ戻ろう。コーヒーれるよ。うんと濃いのをね。疲れたときや、頭が動くのを拒否してるときはそれに限る。千春はどうする? また寄ってくか?」


「そうね。そうしようかしら」


 のそのそ歩き、彼らは適当な場所に座った。コーヒーをつくってるあいだ学生たちはいろいろ訊いている。


「ほんとにあのおじいさんがあんなビラ作ったの?」


「そうよ。あのジジイなの。さっきの見てたでしょ? ほんとムカつく! なにが『飛び出すのは危険』だっての!」


「でも、なんでわかったの? あのお爺さんだって」


 カンナはあごを向けた。そうしながら千春の方を気にしてる。


「なんでもお見通しの先生がきとめたの。ね?」


「へえ。やっぱり蓮實先生ってすごい人なんですね。なんでもわかっちゃうんだから。だけど、なんであんなの作ったりしたんだろ? カンナちゃん、どうしてなの?」


「それは――」


 カンナは奥を見た。コーヒーを運びつつ、彼はうなずいてる。


「あの爺さんはきょうはくしゃなんだよ」


「脅迫者?」


「うん。細かいことは言えないけど、ここに相談しにきた人の中にあの爺さんから脅迫されてたのがいるんだ。でも、解決されちゃったらもうおどせないだろ? だから、俺たちがじゃってことなんだろうよ。――ま、ほんとにそれだけかわからないけどね」


「どういうことですか?」


「いや、ちょっと変に思えることがあるんだよ。本人の動きからするといま言った通りなんだけど、所々にそれを打ち消すようがあるんだ。ま、これはかんみたいなものだけどね」


「ふうん。でも、悪いことしてるの邪魔されて腹立てるなんて、ほんと意地の悪い人よね」


「そうでしょ! まったく考えられないわ!」


 我が意を得たりとばかりにカンナはさけんだ。さっきの反省はもう忘れたんだろうな――そう思いつつ蓮實淳はコーヒーをすすってる。ガラス戸の向こうはいつものへいおんさに戻っていた。


「だけど、これからどうする気なの?」


「それが問題なのよね。あのジジイって評判いいらしいのよ。悪い話は聞かないんだって。そうなんでしょ?」


「ああ。それどころか、けっこうな人気者だ。俺たちがなんか言っても誰も信じないだろうな」


 カンナは腕を組んだ。目は千春に向かってる。――もう、ほんとさかいしっするのやめてくれない? だけど、こんなんじゃからげとビールもなくなるんだろうな。楽しみにしてたのに。そう考えてると、なんだか悲しくなってきた。


「ねえ、でも、これってナントカぼうがいってやつじゃないの?」


「そう、そうよね。たまに聞くやつでしょ。私もそう思ってた」


けいぎょうぼうがいね。確かにそうだ」


「だったら警察に言えばいいんじゃない? ビラはあるんだし、しょうにもなるでしょ?」


「まあね」


 そう言いながら彼はてんじょうあおいだ。どうしてかわからないけど、こいつは警察が嫌いだからな。――いや、なんか思い出せそうだぞ。それがらみの映像をような気がする。うーん、なんだっけな? 目をつむると、かつて受け取った映像がぼんやり浮かんでくる。ああ、そうか! 母親が警察官だったんだ! 制服着てるのをたんだ!


「どうしたのよ」


 だるそうな声で千春が訊いた。


「なにかわかったって顔してるけど、なにがわかったの?」


「ああ、いや、」


 彼は肩をすくめた。それから、は? と思った。カンナは今にも泣きそうになってる。


「今度はどうしたんだ? さっきまであんなだったのに」


「だって、」


「だって?」


 涙をこらえつつカンナは迷っていた。唐揚げが食べられなくなったのが悲しいなんて言えないし、どうしよう。でも、なにか言わなきゃ。


「――だって、あなたの占いはすごいのよ。ほんとにすごいの。それに、いつもはどうしようもない人なのに、相談に来た人にはとんでもなく優しいじゃない。それで救われた人がたくさんいるのよ」


 原因は別にあったはずだけど、カンナはしんそこそう思ってきた。もしかしたらしょうの愛というのが真の意味で心を満たしていたのかもしれない。不特定多数の人々――いまだ会ったことのない者にまで向けられた愛が突き動かしていたのだ。


「いい? あなたはこれまでだってたくさんの人を助けてきたの。それも、普通にはありえないような方法でたましいを救ってあげたの。それをあのジジイは妨害してんのよ。そんなのゆるせないわ」


 しゃがみ込み、彼は脚をぽんぽんとたたいてきた。カンナは深く息をいた。


「さっきから、ごめんなさい。なんか気持ちがコントロールできなくなってて――」


 おそるおそる千春の方を窺うと、その表情は意外なものだった。じゃっかんは腹を立ててそうだけど、激しい嫉妬は消えたようだ。それだって意識して求めたものじゃなかったもののカンナは満足した。

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