第8章-6


 曲は変わり、レイ・チャールズの『Hit The Road Jack』になっていた。オチョはしきりにあしめている。


「そう、大きい方のベンだ。あいつはけっこう外に出てるんだ。で、あの日もふらっと出た。あそこの公園に行こうと思って、この前を通ったんだってよ」


「それで?」


 顔をずいっとき出すとオチョは小声になった。


「ちょうど、この近くまで来たときにバイクが通ってったらしいぜ。それも、ベンめがけてくる感じだったから、あいつはおどろいてはしけた。そこで立ちどまって、スピードをゆるめるのを見てたんだ」


「じゃ、そのバイクに乗ってた奴が?」


 蓮實淳も顔を突き出させた。もう少しでオチョと鼻がくっつくくらいにだ。


「そう、それを大きい方のベンは見てたんだ。じいさんだってのも確からしいぜ。その爺さんは戸口でなにかしてた。たぶんあのふうとうを差し込んでたんだろう」





 カンナは肩をすぼめていた。――もういい加減にしてよ。ほんとしつこいっての。空は光るし、らいめいも聞こえる。水を吸ったくつは重たく、踏切を越えてからは歩くのさえおっくうになっていた。とはいってもかぎがなくては困るのだ。


 ま、最悪の場合、開けてもらうこともできるけど。そう考え、カンナは首を振った。いや、朝のあの人ほど信用ならない人物はいない。開店の三十分前に起きてたらいいくらいなんだもの。やっぱり取りに行くしかないわよね。


 雨のせいで少し先すらよく見えなかった。車が通るたびぶきもかかってくる。ほんと最悪。のろわれてるとしか思えない。私、なんか悪いことした? ふたまたにわかれてるところでカンナは立ちどまった。――ま、ああやって抱きついちゃったのがそもそもの間違いよね。しかも、千春ちゃんの前でだなんて。――泣いてたな。口じゃいろいろ言ってるけど、きっとあの人が好きでたまらないんだ。


 また空が光った。「きゃっ」とさけんだカンナは、ん? と思いもした。店の前にれぬバイクがまってる。白い、だいのついてるバイクだ。こんな雨の中なにしてんの? ゆっくり近づいていくと、バイクは動き出した。え? ちょっとなによ。どういうこと? カンナは走った。ただ、雨ににじんだテールランプはじんの方へ消えていく。――ほんと、なんだったの? っていうか、あれは誰?


 カーテンのすきからは光がれていた。それだけじゃなく、馬鹿げた声も聞こえてる。そのときかかっていたのはザ・バーケイズの『Soul Finger』で、波打つようなトランペットの後に「ソウル、フィンガー!」と叫び声がつづいていた。――まったく、緊張感のかけもない。カンナは手を伸ばしかけた。しかし、それはちゅうで止まってしまった。違う叫びが聞こえてきたのだ。


「じゃ、大きい方のベンが見てたってんだな?」


 はい?


 いまなんて言った? 大きい方の便ベン? それがなにかを見たって言ったの? いや、違うな。だって、がなにか見るなんてあり得ないもの。そう思ってるそばから「ソウル、フィンガー!」の叫びとともにこういう声が聞こえてきた。


「ふむ、大きい方のベンが見てたのか」


 どういうこと? やっぱり大きい方の便って言ってるわよね。――ん、もしかして、「大きい方の便を」って言ったのかな? それならまだわかるけど。――いやいや、なに言ってんの? 大きい方の便って、つまりは――


 大きく溜息をつき、カンナは空を見上げた。雨が顔に降りかかってくる。あの馬鹿はジジイを探してたんじゃないんだ。違うものを、それもよりによって大きい方の便、つまりはウンコを探してたんだ。もうやってられない。ほんとやってられない。


 ガラス戸を見つめ、カンナはもう一度溜息をついた。中からは「ソウル、フィンガー!」が聞こえてくる。なんだか疲れた。鍵なんてどうだっていい。あの馬鹿をたたき起こして入れてもらおう。すくなくとも今はウンコを探してるような奴と顔を合わしたくない。そんなことしたら、なぐりかかっちゃうかも。


 とぼとぼ歩きながら、それでもカンナは幾度か振り返った。ウンコなんて探してなにするっていうの? っていうか、それって誰のウンコなのよ。

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