第3章-3


 このようにして蓮實淳は猫のペンダントを手に入れた(チェーンは雑貨屋にあった五百円のにしておいた)。もちろん猫としゃべれるなんて信じてなかった。たとえ売り主が真っ正直な人間であっても信じなかっただろう。ましてやあやしげな嘘つきから買ったのだから信じるわけもない。――いや、もしそう考えるようだったら、違う場所での生活をきょうようされる立場にいたはずだ。


 その日の帰り道、彼はずっと下を見ながら考えていた。どうやって千春に渡そうか。そもそも会ってくれるだろうか。最後のけんはヤバかったもんな。あいつ、普通の顔してひどいことポンポン言ってくるから。ま、俺もいらいらしてたし、そこは反省すべきなんだろう。――うん、まずは再就職してからだな。


 ふと顔をあげると、じんしゃ殿でんが見えた。普段であればそこを通ることはない。考えてるうちに足が向いたのだ。坂のちゅうで彼はいしべいを見つめた。そうしてると、おまいりしたくなってきた。神頼みしたいことは山ほどあるのだ。


 しかし、入口は閉ざされていた。しんじんなどめっにしないから知らなかったのだけど、鬼子母神は夕方になると門を閉ざす。蓮實淳は立ちくした。らいしんが強く、甘えん坊の彼はうまくいかないことがあるとすぐ心が折れる。なんか全部駄目な気がする。金もないのに馬鹿なもん買っちまったしな。こんなの喜ぶわけないんだ。五千円だったもんな。いや、元は百万だったけど。


 左手には公園がある。彼はふらふらとそこへ入っていった。さいのぞくと七百五十六円しか入っていない。こりゃ、ビールは無理だな。あの安いのにするしかなさそうだ。でも、あれ好きじゃないんだよな。酸味が苦手だ――などと思ってる内にだんだん情けなくなってきた。


「ほんと、まったく嫌になる」


 俺はなにしてんだ? こんなとこでひとりぼっち冬の風に吹かれて。しかも、無職ときたもんだ。神頼みしようにも、それすらきょされた。首を振りつつ彼はペンダントをかけた。――仮にこれを渡せたとしたら、千春は猫としゃべれる女になるわけだ。はっ! 馬鹿馬鹿しい。猫と話せる? こんなのパチ物に決まってる。それこそ仮に本物だったら、俺は猫と話せる女とつきあうことになるんだろ? そんなのゴメンだ。彼は盛大に溜息をついた。そのとき、小さいもののはっきりした声が聞こえてきた。


「まったく、ほんとくさくさするよ。けいなのはわかるけど、もうちょっとなんとかならないもんかねぇ。ああ、嫌になる。長く生きてたってロクなことありゃしない」


 声は奥から聞こえてくる。ただ、そこには植え込みと幾つかの木があるだけだった。風が吹き、葉はれている。霊的なものがいるのかもしれない。そう思った瞬間、背中一面に汗がき出てきた。


 混乱すると人は様々なことを考えるものだ。そして、それは(性質にもるけど)しんてきけいこうになりやすい。普段の彼は霊であったりの存在にかいてきだった。しかし、このときには動物と話せるだの、悪魔をしたがえるなどと聴いた後だったので少しだけ神秘に近づいていたのだろう。


「誰かいるのか? そこでごにょごにょ言ってるのは誰だ?」


「あん? なんだって? あんた、ごにょごにょって、いったいなに聞いたんだい?」


 声はやはりしげみからしてる。そこに誰かいるのだ。彼は身を引きつつ、植え込みを見つめた。


「不景気だとか、嫌になるとか言ってたろ。――なあ、あんたはどこにいるんだ?」


 茂みはかすかに音を立てた。風のせいじゃなく動いたのもわかった。逃げだそうとしたものの脚はうまく動かない。そのとき、雲が切れた。月あかりのす暗がりにあらわれたのは茶トラの猫だった。


「あんたかい? ――へえ、アタシの声が聞こえたんだね。で、なに言ってるかもわかったってわけだ」


 汗はさらに噴き出てきた。さっきとは違う混乱におそわれたのだ。彼は胸を押さえた。ペンダントは存在をするように熱をびている。なんてこった。こいつ、本物じゃないか。俺は猫としゃべってる。


「なんなんだい? 自分から話しかけといておどろくこたないだろ。アタシだって驚いてんだよ。長いこと生きてきたけど、人間とこんなふうに話すなんて初めてだからね」


「ああ――、俺も猫と話すのは初めてなんだ」


 彼は辺りを見渡した。遠く、車の走りゆく音が聞こえる。現実は継続してるのだ。


「ちょっとこっちに来てくれないか?」


「嫌だね。どうして行かなきゃならないんだい」


「話したいんだよ。それだけだ」


「アタシは話したかないよ」


「どうして?」


「どうしてだって?」


 蓮實淳はベンチに腰かけた。猫はじりじりと動き、目を細めてる。


「アタシは人間が嫌いなのさ」


「どうして?」


「どうして、どうしてって、さっきからうるさいね。言いたかないよ。ただ嫌いなのさ」


「でも、」と言いながら、彼はもじゃもじゃの髪をかき上げた。


「こうして話してくれてる」


「めずらしいからさ。こんなふうに話せる人間に会ったのが初めてだったんで、少しきょうがあっただけだよ」


「なるほど」


 彼はごくわずかだけど落ち着いてきた。会話というのはせいを取り戻すになる。たとえそれが猫との会話であってもだ。茶トラは一歩だけ近づいてきた。


「もうちょっと話させてくれよ。このじょうきょうをきちんと理解したい。このまま帰ったら、俺はおかしくなっちまいそうだ。落ち着くためにも話したい」


「関係ないね。さっさと帰って、おかしくなっとくれ」


「それともいそがしいのか? これからねずみりにいくとか」


「アタシは鼠なんて捕ったりしないよ」


「だったら、つきあってくれよ。俺のことを話す。君は聴いてるだけでいい。ま、あいづちくらいはしてくれよ。それだけでいいから聴いて欲しいんだ」


「ふんっ!」


 茶トラはそっぽを向いた。でも、「わかったよ、話してみな。相槌くらいはしてやるから」と言い足した。



 蓮實淳はえんえんと話した。最近起こったこと、すこし前にあったこと、子供時代のこと。こんなに自分自身について話すのも初めてだった。しかも、相手は猫なのだ。いや、話せたのかもしれない。人間が相手だと言えないことも口から出てきた。茶トラは適当なところで「うん」とか「そうかい」と言ってくれた。そのタイミングもよかったのだろう、まるでこっかいしてるように話しつづけた。


 彼女の方(茶トラのことであり、わかってるかとは思うけどキティだ)は不思議な気分になっていた。自分でそうと言ったように彼女は人間が嫌いだった。それも、なんとなく嫌いなのではなく、しっかりした理由があった。見ようと思えば(いや、彼女が見せようとすればだけど)、身体には人間を嫌う動機そのものがきざまれている。記憶の中にも同じか、それ以上の傷があった。しかし、それでも、このしょぼくれた男を見ていると遠い昔に失った感情が残ってるような気になった。それを思い出そうとし、「ああ――」と思った。ほんとうは不思議でもなんでもなかったのだ。忘れた振りをしていたに過ぎないことだった。失っていない感情だったのだ。


「こういうのもなんだけど、あんたも苦労してんだね」


「ん? ああ、」


 彼は薄くだけ笑った。猫になぐさめてもらうとは思ってなかったのだ。


「苦労とは違うかもしれないけど、いろんなことがあったのさ。でも、ここ最近が一番キツかったな。なんて言うんだろ、――その、急にまわりが真空になったみたいな気分だよ。それまで聞こえていた音も光もそいつに吸い込まれてしまったみたいだ。俺に残ってるのはずっとつづくやみだけだ」


そうしつかんってやつだね」


「ああ、そう言うんだろうな。あまり急にいろんなもんを失ったんで、自分がどこにいてなにしてんのかもわからなくなっちまったんだ」


「わかるよ、そういうの」


 茶トラの声は優しく耳へ入ってくる。目にもまなしとでもいうようなものが浮かんでいた。――いや、猫にそれほど多くの表情があるわけではない。ただ、人間は相手の顔を話してる内容によってそうていするくせがある。


 ちなみにこれも書いておくと、猫と話せるといっても、


「ニャ」


「ニャニャ?」


「ニャア、ニャ」


 ――などという感じではない。そういう声を出すこともあるけど、それは人間に置きえると「ええと」とか溜息に似たものであって、それ以外はほぼ無音だった。つまり、かいを怖れず簡単に言うと、テレパシーみたいなものなのだ。だから、じょうを知らない者には(となると、ほぼすべてになるけれど)一人でしゃべってるように見える。まあ、ああして話しかけてるのだから、たぶん猫と話してるなんだろう、かわいそうに――といったふうに見えるわけだ。

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