第14話


僕は、ごく平凡な人間だった。

千葉県南部の田舎で生まれた僕は、親からも親戚からも程々な愛情を注がれ、何てことない日々を生きてきた。特別、何かの能力に長けているわけでもなく、特別問題児だったわけでもなく、ただただ「平凡な子ども」だった。

幼稚園に入園しても小学校に入学しても、それは変わることはなかった。僕はありふれた日常を淡々と過ごしていた。

それが少しだけ変わったのは、小学校卒業まで残り半年を切ったあたりだった。

当時、僕は卒業式実行委員の一人だった。確か、卒業式に向けての歌練習や、お世話になった先生方への色紙の創作を進めていた気がする。

僕は、日々淡々と(いい意味では真面目に、悪い意味では無関心で)学校生活を過ごしていたことで、クラスの推薦で副リーダーに選ばれた。

「どうかな、松原くん。先生も他のメンバーの友達も支えるからね。」

担任の先生はそう言い、僕の返事を促すような目をした。

僕自身も嫌な気はしなかった。「分かりました」と、即了承し、僕の実行委員としての日々が始まった。

当時担任だった先生は4~50代の女の人で、学校では怒らせると怖い先生で有名だった。どんなに自信満々な優等生やガキ大将の男子でさえ、その担任の先生の前では弱弱しかった。ただ、むやみやたらに怒ることはなく、絶対に「何か」の理由があった。時々、宿題を出さない生徒が多かったり最上級生としての意識が薄れていたりする時は、罪のない生徒でも連帯責任として怒られることもあった。が、「こういう時もある」と僕達は高をくくり、その先生に何も言わずに従っていた。僕も、特別嫌いだとは思っていなかった。

ある日、僕は実行委員のメンバーと一緒に先生の机の前に呼ばれた。クラスの生徒は休み時間で、教室の中で楽し気に話していた。呼ばれたこちらの方を意識することはなかった。

「今後の卒業式練習の予定なんだけど…」

担任の先生は、いつものように僕達に予定を話し始めた。僕は「またいつものことだ」と思いながらも、その話に耳を傾ける。

僕はふと、左側に映る外の景色に視線を移した。外は快晴だった。最近は雨続きだったので、綺麗な青い空を見るのは久しぶりだな、と僕はその景色に完全に目を奪われた。


その瞬間、僕の頭に大きな衝撃が走った。

「松原くん!」

僕は、その衝撃が放たれたであろう方向を向いた。そこには、怒り心頭でこちらを見る先生と、「やっちまったな」と表情で語るメンバーがいた。

叩かれた。それだけは分かった。

「あ、すみません。つい」

「…はい。今先生はなんて言っていましたか。」

担任の先生は顔を真っ赤にして、そう問い詰めた。僕は教室を見渡した。気づけばクラスの生徒も話すのをやめ、僕達の方を凝視していた。

「えっと…その、あの。」

「はぁ。松原くんはそういうクセがあるわよね。なんで直さないの。」

何度同じことを言わせるの、と担任は嫌味たっぷりにそう言った。

元から、どこか周りへの興味が薄れると自分の世界に入るクセはあった。それで先生から何度か注意を受けたこともあったが、ここまで怒られることはなかった。

「ごめんなさい。」

僕は小学生ができる最大の謝罪の言葉を口にした。担任の先生は、フン、と鼻を鳴らして勝ち誇ったような表情をした…と同時に、親のような優しい表情になって僕を見てきた。


「これは虐待じゃないからね。指導だからね。」


担任の先生は、威圧的にそう言ってきた。

僕は、まだジンジンとする頭を抑えた。すぐに問いただされたせいで、今になって痛みが増してきた気がする。

…あぁ、僕は先生から叩かれたんだ。その自覚が、ようやく出てきた。

口頭で怒ったり、たまに教壇や黒板をバンバン叩く先生は見てきた。その度に「先生は大変だな」と思い続けてきた。でも、生徒に対して手を挙げているのは見たことがなかった。実際、僕以外の人もそうだっただろう。僕と先生のやり取りを見て顔をそむける人もいた。

僕はもう一度先生の目を見た。その目はまだ威圧的だったが、生徒に手を挙げてしまったことの焦りとも見て取れた。

「…はい、分かりました。」

僕は、その強者と化す先生に、そう言うしかなかった。


一度だけ、担任の先生に叩かれた。


それ以上のことを経験した人は沢山いるだろう。そして、元を言えば僕の不注意だったのもある。今更「体罰」だのと訴える気は全くない。それでも、その時のことは今でも鮮明に思い出すことができた。

その後、その先生と僕の仲は悪くなる一方だった。何かと当たりが強くなり、僕は服を引っ張られたり異常なまでに教室で怒られることもあった。

それでも僕は、親や教育委員会に訴えを起こそうとはしなかった。あの時、担任の先生が言った「これは指導の一つだ。」という洗脳とも取れるその言葉は、キッチンにこびりついて取れないコゲのように、僕の頭にこびりついていたのだ。


そして中学・高校生活に入り、高校で浮気され、大学に入学した。

これらの出来事を根に持ち、「僕は被害者です」と世間に広めたいとは微塵にも思っていない。が、さすがに浮気された時は「僕はついていない人間だなぁ」と思ってしまった。特別変わった生徒でいたわけではなく、どちらかと言えば真面目な部類の人間として生きて来たつもりだったのに、気づけば体罰だの浮気だの人の感情に触れ、自分とかけ離れていると思っていた経験をしていた。なんでだろう、と僕は不思議に思った。ただ僕は普通で、平凡で、でもどこか幸せを感じる生活をしたいと思っている。それ以上のことは何も求めちゃいない。それでも気づけば、それとは反対の方に近づいていた。


『松原くんのことが知りたいんだよね』


僕は、ついさっき言われた瀬戸の一言を思い出した。この一言も、自分がかけ離れていると思っていた言葉の一つだった。

こんな普通の人間を知って、何になるんだよ。何かの調査か?

だけど。

「…変だよな。」

僕は顔に手を当て、俯いた。変だ。なぜかそれを、純粋に嬉しいと思う自分がいる。

自分のことを見てくれた人がいる。

そして自分のことを「知りたい」と思ってくれている人がいる。


『松原くんのことが知りたいんだよね』

「…変な期待はしたくないんだけどな。」

僕はアパートの部屋で一人、椅子に座りながら空を仰いだ。

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