第9話 「さよなら」と「まだ」
エマとカンタレラの出会いから凡そ一月、依然として二人の奇妙な共同生活は続いていた。
「んくっ……んくっ……、ぷはぁ」
「相変わらず良い飲みっぷりですね」
「エマの作る毒は美味しいから」
「はいはい、飲んだら後片付けですよ」
「エマ片付けてよー」
「またですか、そろそろ自分で片付けて下さいよ」
ぐだぐだと怠惰を満喫するカンタレラ。
そんなカンタレラに呆れながらも、エマはせっせと後片付けに勤しむ。その姿は恰も面倒臭がりな娘の世話をする母親の様だ。
「エマありがとー」
「はいはい、どういたしまして」
陰鬱であるはずの地下室は、不思議と平穏な空気に包まれていた。
しかし仮初の平穏は唐突に終わりを迎える。
「……ん?」
「どうしたのですか?」
「……誰か来る」
「えっ!?」
耳を澄ますと微かに聞こえる、地下室へ迫る複数人の足音。
不穏な気配を察知したエマは、大急ぎでトイレへと向かう。
「カンタレラ、こちらへ来て下さい」
「んー?」
掘りっぱなしの穴に木製の枠を取り付けた、非常に粗雑な作りのトイレだ。底の見えない穴の奥から、得も言われぬ異臭が漂ってくる。
「とても嫌な予感がします、カンタレラは隠れていた方が良いと思います」
「そうかな?」
「ところでここはトイレでありゴミ捨て場でもあります、失敗作の毒薬なんかも捨ててあります」
「うん知ってる」
「穴の底は酷い状態だと思いますけど、その……カンタレラはこの中へ入っても平気ですか?」
「うん、別に平気だよ」
「ではこの中に隠れて下さい」
狭い地下室に逃げ隠れ出来る場所は無い。とはいえトイレの中に隠れろとは、何とも凄まじい事を言うものである。
「穴の先は下水と繋がっています。底に溜まった色々な物は、数日おきに下水へと流される仕組みです」
「底に溜まった色々な物って、廃棄物と毒薬とエマの出した──」
「それ以上は言わないでください! とにかく数日待てば下水を通じて外へ出られると思いますから」
「数日も待たなくちゃいけないのー?」
「それくらい我慢して下さいよ」
あれやこれやと不満を口にするカンタレラ、どんな状況でもマイペースさはブレない。
「外から聞えてくる足音、あれは恐らくご主人様の足音ではありません。きっと人間の足音です、亜人狩りの足音かもしれません」
「だったらエマも一緒に逃げた方が良いんじゃないの?」
「私は奴隷の刻印に縛られて逃げ出すことは出来ません、そもそもトイレの中に逃げ込めるのはカンタレラくらいだと思います」
「そうかもね」
「カンタレラには命を救われました、生きる希望を与えられました。私にとってカンタレラは大切な存在なのです、だからカンタレラだけでも逃げて欲しいのです!」
「あのねエマ──あっ」
背中からエマに突き飛ばされ、カンタレラはトイレの奥底へと落ちていく。
その直後、地下室へと押し入る屈強な男達。先頭に立つ壮年の男は憲兵長ジョルジュである。
「ここは地下室か……貴様は誰だ? ここで何をしている?」
「エマと申します、あの……ご主人様の命令で毒を……」
「ご主人様とは魔女の事か? 魔女は今どこにいる?」
「えっと……私には分かりません……」
ジョルジュはエマ髪を乱暴に掴み上げ、エルフ特有の鋭く長い耳を確認する。
「汚らわしい亜人め……このエルフを捕らえろ、逃走した魔女の情報を吐かせるのだ」
「「はっ」」
両手両足を鉄鎖で拘束され、エマは地下室から引き摺り出される。
「さよなら……カンタレラ……」
絶え入る様なエマの声、その声に気付いた人間は誰もいなかった。
──────。
────。
──。
穴の底は汚物と廃棄物に溢れる、凄まじく劣悪な環境だった。その様な環境にも拘らず、カンタレラはどこ吹く風といった様子である。
「んー、生まれた場所を思い出す」
汚物と廃棄物に塗れてなお、真白な姿は奇妙に美しい。暗々とした地の底で、怪物は静かに笑う。
「まだ……さよならの時じゃないよ、エマ……」
地の底に響くその声に、気付く者は誰もいなかった。
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