第8話 謀略の夜

 雲一つない深い月夜。

 モンテスリオ侯爵は澄んだ月明りを浴びながらベッドに腰掛けていた。すぐ傍には薄手の寝間着をはだけさせたルイズの姿もある。


「やはり若い肌は良いな」


「んぅ……侯爵様……」


「堪らんぞルイズ……はぁ……」


「あ……あぁ……っ」


 静寂の中で交じり合う、湿り気を帯びた二人の息遣い。


「ふぅ……すまんなルイズ、興奮して喉が渇いた」


「ではお水をお注ぎいたします」


「頼む」


 ルイズはローテーブルに置かれていた玻璃の水瓶とグラスを手に取る。白い素肌を晒したまま水瓶を抱えるルイズの姿は、神話に登場する女神の様に美しい。


「ルイズの肌は月明りに映えるな」


「そんな、恥ずかしいです……」


 水瓶からグラスへと注がれる、一見清らかな無色透明の水。モンテスリオ侯爵はグラスに注がれた水を一気に飲み干す。


「うぐっ!?」


 直後、モンテスリオ侯爵は喉を押さえベッドから転がり落ちる。

 乱れる呼吸、噴き出る脂汗、顔色は瞬く間に青ざめる。予想外の事態にルイズは、水瓶を抱えたままオロオロと狼狽える事しか出来ない。


「侯爵様! しっかりして下さい!」


「ぐぅ……喉が……」


 グラスの砕け散る音、モンテスリオ侯爵の呻き、そして悲痛なルイズの叫び。それら異常な物音を聞きつけ、屋敷の使用人達が寝室の外へと集まってくる。


「侯爵様? 何かございましたか?」


「く……う……っ」


「侯爵様? 聞こえておりますか侯爵様?」


「返事が無い、侯爵様に何かあったのか?」


「致し方ない、扉をお開けしよう」


 寝室へと足を踏み入れた使用人達は、踠き苦しむ主人の姿を目の当たりにする。騒然とする使用人達、そこへフランソワーズも駆け付ける。


「あなた!」


 駆け付けるや否やフランソワーズは、モンテスリオ侯爵の体を僅かに抱き起こす。頭を後ろに下げる事で、呼吸し易い楽な姿勢を取らせたのだ。


「あなた! しっかりして!」


「喉が焼ける……息が……」


「グレアム先生を呼んで、早く!」


「私ならばここにおりますぞ」


「グレアム先生、夫を助けて!」


「ふむ……侯爵様は毒を盛られておりますな」


 白衣を纏った老齢の医師グレアムは、モンテスリオ侯爵の咽頭を確認しただけで異常の原因を断定する。フランソワーズに呼ばれてから原因を特定するまで、僅か十数秒という異様な速さだ。


「このままでは危ういかもしれませんぞ」


「お願いグレアム先生、夫の命を救って! お礼はいくらでも支払うわ!」


「ご安心なさいフランソワーズ様、幸いにも解毒剤を持っております。この解毒剤で侯爵様は助かります、さあ早く侯爵様に飲ませるのです」


「ああっ、ありがとうグレアム先生」


 フランソワーズは受け取った解毒剤をモンテスリオ侯爵の口元へ運ぶ。しかしモンテスリオ侯爵は呼吸すら儘ならない状態、もはや自力で解毒剤を飲む事も出来ない。


「駄目だわ、飲んでくれない……」


「喉の奥に症状が出ております、自力では飲めないでしょうな」


「そう……分かったわ」


 そしてフランソワーズは驚きの行動に出る、何と解毒剤を自信の口元へと運んだのである。


「何をされるおつもりですかな!?」


「口移しで飲ませるのよ」


「いけませんフランソワーズ様! 侯爵様を苦しめているのは毒です、フランソワーズ様まで毒に侵されるやもしれません!」


「夫を助けられるなら、私はどうなろうと構わない!」


 フランソワーズは解毒剤を口に含み、躊躇う事なくモンテスリオ侯爵の口へと移し入れる。


「う……うぅ……」


 解毒剤の効果は直ぐに現れた。乱れていた呼吸は収まり、青ざめていた顔は血色を取り戻す。


「やりましたぞフランソワーズ様! モンテスリオ侯爵は助かりますぞ!」


「良かったわ、本当に良かった……っ」


 フランソワーズの献身により、モンテスリオ侯爵は一命を取り留めた。自らの命すら厭わないフランソワーズの行いに、見守っていた使用人達は心打たれ涙を流す。

 感動的な空気の中、ゆっくりと顔を上げるフランソワーズ。ルイズへと向けられた表情は、悪鬼の様な形相だ。


「……ルイズといったかしら?」


「は、はい……」


「……あなた夫に何を飲ませたの?」


「私は何も……」


「嘘おっしゃい、その手に抱えている物は何?」


「これはお水で……」


「その水瓶に毒を仕込んだという訳ね」


「違います、私は毒なんて仕込んでいません」


 ルイズは必死に無実を訴える、しかし誰もルイズの言う事を信じない。

 何しろ事態の原因らしき水瓶を抱えているのだ、しかも不貞行為の最中だったであろう姿のまま。

 一方のフランソワーズは命がけで夫の命を救った正妻である、状況は全てフランソワーズに味方していた。

 そこへタイミングを見計らったかの様にジョルジュ憲兵長が現れる。


「ルイズ様のお部屋からこの様な物が見つかりました」


 それは小さな瓶だった、歪な刻印の押された小瓶だ。


「これは魔女の刻印です、中身は何かしらの毒物かと思われます」


「魔女から毒を買い、夫を殺そうとしたのね」


「違います、その瓶は私の物ではありません」


「黙りなさい! この悪魔!」


 激高するフランソワーズの声に呼び起こされたのか、モンテスリオ侯爵は意識を取り戻す。顔色は優れないものの、命に別状はなさそうだ。


「フランソワーズよ……」


「あなた!」


「……朧気ながら覚えている、お前の深い愛情が俺の命を救ってくれた事」


「ああっ、無事で良かったわ」


 強く優しく抱き締め合い、熱く口付けを交わすモンテスリオ侯爵とフランソワーズ。数分間にも及ぶ抱擁の後、モンテスリオ侯爵は冷めた視線をルイズへと向ける。


「ルイズよ、この俺に毒を盛ったか」


「そんな、違います!」


「ジョルジュよ、この女を捕らえよ」


「嫌っ、信じて下さい侯爵様!」


 ルイズは抵抗を試みるが、呆気なく縛られ身動きを封じられる。抵抗した事で寝間着は破られ、秘部まで無様に曝け出されてしまう。しかし動けないルイズは体を隠す事すら出来ない。


「侯爵様、こちらをお渡ししておきます」


「ジョルジュよ、これは何だ?」


「侯爵様に盛られた毒かと思われます、ルイズの部屋で発見しました」


「この刻印は?」


「魔女の刻印でございます」


「魔女か、忌々しい……っ」


「興奮してはいけないわ、毒を盛られたばかりなのよ」


「む……確かにそうだな」


「今日はゆっくりお休みになって、魔女の事は明日にでも考えれば良いわ」


「お前の言う通りにしよう、今日は別邸の寝室で休む。ルイズは地下牢にでも放り込んでおけ、尋問して魔女の居場所を吐かせるのだ」


「かしこまりました」


 こうして月夜の毒殺未遂事件は幕を閉じたのであった。



 ──────。


 ────。


 ──。



 モンテスリオ侯爵の寝室を後にしたフランソワーズは、自室へと向かう廊下の途中、不意に暗がりへと視線を送る。


「いるわねジョルジュ」


「はい」


「ご苦労だったわね、お陰で忌々しいルイズを地の底に叩き落とせたわ。クククッ……」


 顔に張り付く邪悪な頬笑、暗々たる笑い声、つい先程まで見せていた献身的な姿は跡形もなく消え去っている。


「それにしても素晴らしい効き目だったわ、流石は魔女ラ・ヴォワザンの作った毒薬と解毒剤ね」


「毒薬の効き目よりも、フランソワーズ様の演技力に感服致しました。侯爵様を心配する迫真の演技は、完璧に人心を掴んでおりました。また、侯爵様に毒薬を飲ませルイズの仕業に見せかける手際、流石の一言でございます」


「夫は女を抱く前に必ず水を飲みたがるのよ。だから簡単なこと、ベッドの傍に水瓶でも置いておけば良いのよ」


 フランソワーズの企て、それはラ・ヴォワザンから買った毒薬と解毒剤による仕組まれた毒殺未遂事件。

 ルイズに罪を被せるだけではなく、モンテスリオ侯爵の信頼と愛情まで手にしたのだから全くもって恐ろしい。


「計画通りルイズは信頼を失った、後は魔女ラ・ヴォワザンを始末するだけね。彼女には色々と知られ過ぎてしまった、もう生かしておくわけにはいかない」


「侯爵様のご様子ですと、明日にでも魔女狩りの命令を下されるかと」


「その為に魔女の刻印を印象付けたのでしょう。ジョルジュは魔女狩りの命令を受け次第、速やかにラ・ヴォワザンを捕らえるのよ」


「かしこまりました」


 ジョルジュ憲兵長は恭しく敬礼し、暗がりへと姿を消す。


「これで完全に夫は私の物、彼の地位も財産も全ては私の物よ。クククッ……」


 謀略の夜は更けていく。


 そして翌日、モンテスリオ侯爵より魔女狩りの命令が下された。

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