第1章

 邂逅

 生徒の間である噂が喧伝している。


 深夜になると立体的な影が、どこからともなく現れて生徒を襲うらしい。影は人のような姿をしていることもあれば、廊下を塞ぎ先の見えない深い闇のように待ち構えることもある。また、山羊のような立派な角を持った恰幅な鬼のような姿をしているとも言われている。他にも人とは思えぬ奇声や、黒板を埋めるように「help」と大きく書かれることもあった。最も目撃証言が多いのが、当校の制服を着用した男子高校生で、何年か前に在籍していた生徒に酷似しているらしい。酷似している彼は影を立体的に操作して、生徒を襲うと言うのだ。


 目撃者Aは、鬼のような影に襲われて飲み込まれたと言う。体内に闖入する影は全身を蝕み、走馬灯のように過去のトラウマを蒸し返した。目撃者Aのトラウマは父からの暴力だった。平日も休日も区別がない父は、母に働かせて自身は毎日のように遊び歩いていた。金がなくなるといつも母に要求するのだが、母は必ず断ったので殴られていた。幼い子供からすれば、父は邪悪な存在で絶対的な悪である。「ママをいじめるな」と勇気を振り絞って巨悪である父に立ち向かった。そして、殴られた。絶望と父に対する激しい憎悪。忘れていた記憶が蘇る。曖昧でありながりも、事実に基づいた夢から覚めた目撃者Aは、廊下で目を覚ましてから、やっと全てが夢であると気が付いたそうだ。ただ、違和感があった。ろくに会話をしたこともない、声すら聞いたことない元クラスメイトの男子高校生が不意に頭の中を遮った。目撃者Aは「あいつの仕業だ」と直感で悟り、恐怖に怯えた。


 しょうもない与太話ではあるが、数々の証言によると酷似している男子高校生は一年前まで当校の学生として在籍していたようで、既に亡くなっていることも、どうやら事実のようだ。その学生は、どちらかと言うと地味なタイプで、浮いた話もなく、特別仲のいい友達もいなかった。それは空気のような存在。それでも身近で起こった突然の不幸に、誰もが彼の死を悼んだ。彼のことは禁句となり、一週間も経つと過去の話題となった。


 しかし、そんな彼が幽霊となり、生徒を襲っているとなれば話は変わってくる。噂が広まっていくと、情報は錯綜し、恐怖はあっという間に伝染していった。特に怯えたのは生前の彼を冷たくあしらった覚えがある元クラスメイトだろう。深く考えすぎなのだが、ノイローゼとなり登校を拒否した生徒も現れた。


 これは呪いではないか?

 

 増長された与太話は尾びれをつけて、伝染することになり校外にも広がった。SNSでも話題に上がることになり、あらゆる憶測が登場することになる。ここまで伝播すると、本当に呪いのようだった。


 となるとだ。調べてみるのも面白いのではと思う。ここまでの話は全て元クラスメイトに聞いたものだ。その人物はどうやら魑魅魍魎とか、都市伝説などが好きらしく、そんなファンタジー系の話をよくしている。まあ、僕はそいつから直接聞いたのではなく盗み聞きしたのだが。


 そう言えば、この手の話が好きな人物がいたなぁ、そうそう安原さゆりだ。2年くらい前に少し話をしただけだが、彼女に対して苦手意識が芽生えたのはよく覚えている。


 あの手の人間は、挫折を知らないだろうし、何でも思い描いた通りになると、心の何処かで思っているに違いない。それらは人並み外れた努力の賜物で、安原さゆりを才媛と謳わせたとなれば、自分が情けなくなる。


努力なしで才媛とは謳われない。僕の理解を超えた信念と努力が生み出す必然が、安原に能力と数多くの選択肢を与えた。仮に努力を知らない天才肌なら、僕は神様を軽蔑する。人間に才能と環境を平等に設けなかった神様の怠慢を見過ごすものか。


 それにしても安原さゆりは、僕をどう思ったんだろう。


安原からしたら、僕はノミみたいなものだと思う。叶えたい夢を持たず、欲求を満たす願望も、己を飾る信念を持たない僕に人間としての深みはない。僕は全てを否定しているんだ。そのつもりはないが、結果が物語っている。僕はいつも一人だ。殻に閉じ籠って時間の経過を黙って見守る。やっていることは、引きこもりと同類だ。その癖、誰の影響も受けようとはしない。咎められることを恐れているからだ。他人から逃避して、現実からも逃避する。僕は偏屈者であり臆病者でもある。


 人は弱い生きものだ。弱いが故に、ストレスを感じると無意識に自己防衛の動きをとり、心のバランスを保つ。それは自然の行いで安原も言っていたが、人の深層心理には残忍、攻撃性といった本能的側面があり無意識に発揮している。


 代表的な心理が、スケープゴートだ。スケープゴートは集団心理の一つで、身代わり、生贄といった意味があり、古代ユダヤ教で贖罪の日に山羊を生贄にしたことから、集団が持つストレスを解消するために、一人を攻撃する心理のことを指す。現代で言うところの、いじめだ。


 スケープゴートは防衛本能の一例に過ぎない。人は弱さを受け入れて本能の赴まま生きるが、本来の人としてのあり方。でなければ、人は壊れる。


 なら、他人を蹴落とす度胸がない僕のような人間はどうするのか。とにかく回避する。不安、不信、罪悪、劣等、憎悪、負の感情が芽生えないように人との関わりを回避することで心のバランスを保つ。孤独こそが僕に許された生き方であり、頼れるものだ。まあ、今となっては過ぎた話であって安原と話すことはないし、僕は本当の意味で孤独になっているのだが。かなり話が逸れた。


 放課後となり人気が散漫とする時間になったので、僕は校内を歩き回ることにした。まずは、目撃者が襲われて意識を失ったとされる現場に向かった。


 使われてない校舎の三階。一番角にある教室の前だったかな。


なぜ使われてない校舎の、しかも三階の奥にわざわざその生徒が出向いたのか。さっぱりわからん。良からぬことを企んだのだろう。知らんけど。


 現場に到着するが特に違和感はなかった。強いて言うなら、暗くて怖いくらいだ。


 廊下の電気を作動させたいが、よろしくはない。「僕はここにいますよ」と盛大にアピールして問題になるのは避けたい。でも、早く帰りたい。家に帰って風呂に入って、暖かい布団でぬくぬくと過ごしたい。


 物音がした。教室からだ。誰かいるみたいだ。だとしたら恐怖でしかない。こんな時間に一体何をしているんだ。いじめか、いじめなのか。


扉を開くと教室の真ん中には、椅子に縛られる美女がいて、僕は美女を開放してあげる。何でも美女はモテモテで毎日のように男に告白されてはお断りをしていた。ある日、フった男の一人を好いていた女子に「どうしてお前が選ばれてんだ。何様のつもりでフってんだ」と逆恨みをされて美女を縛り上げて、放置した。そんな中で僕が登場して美女の問題を颯爽に解決。僕は美女と結ばれる。みたいな糞みたいな妄想はさておき、僕は扉を開けた。


 まず目に入ったのは、ピンクを基調としたショーツだった。暗い無機質な教室内には机や椅子は置かれていなかったので、一際派手な色はとても綺麗に感じ、嫌でも僕の視界を染めた。黒のハイソックスが肌を隠す役割を果たしていても、筋肉質で女性らしい太腿であることは一目瞭然だ。何よりも心が躍ったのは、ショーツにかかった指先である。妄想を過剰に刺激する、指先が艶かしさを引き立てていた。ハイソックス、ショーツ、肌が作り出す光景は、絶景そのもので、男の性なのか、僕の性癖なのか、わからないが、そのムッチリとした太股に挟まれたい、と言う欲求にまみれた。


 そのまま視線を上に持っていく。無駄な脂肪のない引き締まったウエスト。そして、下着ではなかった。双丘。女性らしい狭い肩幅に対して、大きめなサイズは、官能的である意外表現できない。この世にこんな美しいものがあってもいいのか。はじめて女性のそれを見た僕の感想はもちろん感謝であった。神様ありがとうございます。


 ここで僕は全体に視野を広げた。意味ある部位に脂肪を蓄え、適量な筋量を維持する。日課で運動をしていないと、こうはならないのではないか。努力を怠らない立派な精神の持ち主であると推測できる。それとも生まれながらにして、完璧なスタイルを持つ特殊な遺伝子か何かだろうか。


 記憶に留めたい。もしかしたら僕の人生で二度とこないチャンスではないかと思うと、願望と欲望がかつてない集中力を発揮させた。体感は10分以上だが、現実では1秒も経ってないだろう。僕は流れるように、さらに上に視界をやった。


 肩まで伸びた黒髪に、見覚えのある整った顔立ちだった。僕は彼女を知っている。だけど、すぐに思い出せなかった。とても大切な人だったと思う。けど多分違う。


曖昧な記憶と感覚。齟齬に戸惑いながら、僕は彼女が仙崎カンナであると断定した。僕の記憶では金髪で派手な印象だった仙崎は、落ち着いた黒髪となって僕を見つめてた。


「かっ‥‥カッキー?」


 間違いない仙崎だ。僕に変なあだ名をつけて、呼ぶ人は仙崎カンナしかいない。仙崎はか細い声で僕を呼んだ後に、体が震えて、目頭から雫を流した。泣いているのか。だけど、どうして?


 まさかだが、仙崎がいじめられているのか。クラスどころか学校であんなに人気のあった仙崎がか?


 だけど、放課後の使われてない教室で泣いているなんて、理由を聞く必要はないだろう。余計な詮索が嫌われる。確実にそうだろう。自分自身に憤りを感じる。


 とりあえずは現状可能なこと。まず行うべきなのは、仙崎を慰めることだろう。僕以外は誰もいないし。僕しかできないことだ。ちょっと緊張するな。上手くできるかなぁ。


 一歩踏み込んだ。仙崎が少しだけ大きく見えた。より鮮明に写り込む仙崎の姿を見て、足が止まった。これ以上近づくことに、暗澹とした思いが芽生えたのだ。拒絶されたらどうしよう。


 しかし、よくよく考えたら、仙崎は着替えの途中ではないか。仙崎なら笑って許してくれるかもしれない、と僕は少し期待をした。不慮の事故だし、だいたいこんな時間に生徒がいるなんて普通は思わない。仙崎なら全てを理解して理解を示してくれる。なんなら頬を朱色に染めて「えへへ」とか、女の子らしい悲鳴をあげたりとか。まあ、後者の場合はかなり都合が悪くなるが。


 現実は甘かった。仙崎は腕で胸を覆い隠くすと、空いた手で足下に置いてあったカバンから、ブラを取り出した。ショーツと同じ色だ。ブラを着け終えたタイミングで、僕は「すみません」と謝って一旦教室を出ようとしたが、仙崎の初動は速かった。


 一瞬で間合いを詰められ、顎に肘鉄が喰らった。脳を揺さぶられ、視界が細波のように唄う。僅かに反応したので直撃ではなかったが、それでも意識がなくなりそう。


 仙崎は続けて、僕の右半身にボディーブローを放つ。鋭い一撃に内蔵が爆発したと思った。僕は情けない声と共に、肺の空気を吐き出した。上手く呼吸ができない。


 悲観的な僕は、最悪な状況で冴えた。仙崎は戦闘に通じている。ボディーブローの目的は、相手の動きを止めることにある。次はフィニッシュブロー。確実に相手も仕留める強力な一撃が来る。初動の速さと精密度は、この身体で経験した。だが、所詮は女の子だ。腕力に関しては、そう強くはない。


 僕は腕をクロスさせて、次の攻撃にそなえた。狙い通り顎に拳が向かってきた。タイミングは完璧。受け流しに成功したと思ったが、何かが違う。仙崎の姿を捉えられない。


 背中から細い腕が腰に絡み付く。仙崎は攻撃をすることを忽然に変更して、僕の背中に回っていたのだ。体が宙に浮く。両足が浮いて重力から解放されたのだ。仙崎に持ち上げれた。そう判断する前には、後頭部から首、背中に駆けて強烈な痛みが駆け巡る。僕はあっさりジャーマンツープレックスを決められた。付け焼き刃とは思えない完璧なジャーマンツープレックスだった。女性の裸(上半身のみ)をみた報復が、ジャーマンツープレックスで締めるコンボ技とは。小柄な女の子に、呆気なく持ち上げられる僕が、貧弱なのか。遥かに重い男を持ち上げる仙崎が、イレギュラーなのか。


 意識が遠のく僕を見下ろす仙崎。かつて僕に向けてくれた笑顔はそこにはない。あるのは迷いのない剣呑な目付きだ。底知れない恐怖心を覚えた。戦く。意識が朦朧とするなか仙崎の屈託のない笑顔が心中で渦巻いた。その顔は歪んでいき、剣呑な目付きに変貌する。トラウマを植え付けられた瞬間だ。しかし、それでいいと誇る。仙崎カンナの裸ーー双丘の記憶は、僕の頭からは決して離れない。珍重として最高の思い出にしようーー僕の意識は途切れた。

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