生前2

 追試を終え退室する。僕は仙崎との下校を企てるが、仙崎はさっさと片付けて「また明日ね」と走り去ってしまった。そう都合よくはいかないようだ。とっと帰るか、と嘆息を漏らす。


 僕の浅学非才ぶりは異常だ。この高校も奇跡的に受かったようなもので、入学から一週間もしないうちに、外国語を勉強している気分になり、授業にはついていけなくなった。救いようのない馬鹿であると自覚している。机に向かえればいいのだが、僕の集中力は5分が限界だ。おぞましい程に意志薄弱でメンタルが弱く、体力もない。


 思えば小学生の頃から鉛筆を長時間握るのも苦しかった。スポーツを始めても、練習にはついていけない。努力はもちろんしない。


 だから自身に対して常々思っていることがある。本当に僕は高校生なのだろうか、と疑問が浮かぶのだ。僕がクラスメイトよりも、精神的に優れているとかではなくて、(僕の方が精神年齢は低いけど)、そうじゃなくて肉体年齢の話だ。


 青春期の活気が充満する教室は、居座るだけで体力を消耗する。とにかくうるさいのだ。耳障りとまでは言わないが、四六時中、無尽蔵な談笑を続けるクラスメイトには恐れ入る。年を食うと体力が衰えるそうだが、果たして僕は十年後どうなっているのだろうか。生存しているだろうか?


 どんなに罪深く、恥の多い生涯とはいえ、 五十歳くらいは生きたい。


 今年の夏休みも無味乾燥に時間が経過していくだろう。毎日昼過ぎに起きて、ゲームやらパソコンに没頭して、深夜に寝る、味気ない毎日。学生の本分を見失い、青春を謳歌する友達すらいないのだから当然の行く末だ。別に僻んでいるつもりはない。自分で選択したんだ。後悔はない。と思う。


 歩くことが億劫に感じた。足が重い。現在地は三階。


「柿原翔太君」


 驚嘆した。声をかけられたことではなく、名前を、しかもフルネームで呼ばれたことに驚嘆した。高校入学してからの二年間、生返事と無視を履行するかのように駆使してきた結果ーー僕の存在感はノミと差違がなくなった。


 当たり前のようにそこにいるが、気にならない存在。僕のフルネームをクラスメイトですら、把握していないのではないか。まして、共通点がない〝彼女〟がどうして僕を知っているんだ。彼女は踊り場で悠悠閑閑と僕に視線を送っていた。


 彼女ーー生徒会長ーー安原さゆり。きめ細かい白く綺麗な肌を持ち、背が高く、穏やかな口調。誰かの脳内から飛び出したのではないかと思ってしまう創造の中の美貌である。高校生にして既に完成されている。


 安原さゆりは仙崎同様に校内での認知度は特別なものだ。


 僕らが通う高校はスポーツよりも勉学に力を尽くしているが、それは勉学において才覚溢れる生達達を集めた特待クラスでの話だ。他クラスと比べて偏差値が群を抜いて高く、校舎、教員、グランドまでもが隔離され、異なる時間を過ごしている。偏差値を気にしたことのない僕達劣等生は彼等と関わることは滅多にない。


 それでも特待クラスの安原さゆりの情報は嫌でも耳にする。入学してから、全科目トップの座を一度も譲ったことはない才媛の持ち主でありながら、人格的にも優れ、積極的に奉仕活動に参加している。一年生の時から生徒会に所属し、二年生にもなれば満を持して会長に就任。会長選挙では、学年問わず多くの学生が彼女に協力をしていた。僕からすれば〝 人望の深さ〟は常軌を逸している。仙崎とは違うタイプの王様タイプで、彼女が為政者なら独裁者も夢じゃない。


 おまけに容姿にも恵まれて、デカイんだ。とにかくデカイんだ。何がそんなにデカイかは敢えて言わないとして。そんな真逆の立場の生徒会長ーー安原さゆりが、僕に何のようだ。


「そんな、畏まらなくても」


 言われて気付いた。僕は直立不動で安原さゆりと向かい合っていた。ごくごく自然な行動だ。


「いや、そんなつもりはなかったんだけど」


 頭を掻いた。緊張している。手が僅かに震えている。僕にだけダイレクトに地震でも起きているのか。だとしたら嫌がらせだ。抗議する。


「そう。ならいいんだけど」と安原は階段を降りる。僕はゆったりとした足取りに注視した。スカートから伸びる足は思いのほか筋肉質で綺麗だ。薄手の夏服は豊かな胸元を強調している。揺れる、揺れる。妄想が膨らむ。蛇足。


「うーんと、僕なんかになにかようですか」


「柿原君と話してみたくて」と安原は微笑んだ。


 頬がゆるむ。ニヤニヤしていたら気持ち悪い。躊躇しないで破顔を晒す。その方が印象はいいだろう。


「てか、僕のこと知っての?」


「有名人だよ。特に女子の間では」


 そうなのか。初耳だ。まあ、悪い噂だろう。いつも教室の隅に隠れて気持ち悪いとか。友達いなくてかわいそうとか、女子の着替えを覗いていたとか‥‥。


「以前から君のことは知ってた。と言うよりは、目をつけてたと言うか、見済ましていたと言うか」


 人差し指をくるくる回す。言葉が出てこないようだ。 焦れったいので、言葉を指す。


「赤点組だから?」


そう、僕は先刻まで補習を受けていたのだ。どうにも安原はこの時間を狙って僕に接触してきた可能性もなくないので、やはり勉強のことか? 先生かよ。


「それもあるけど」と安原は肩を竦めて続けた。


「生徒会長という立場上とかではなく、個人的に柿原君と、仲良くなりたいと思って」


 いや本当、と安原は付け加える。生徒会長としてだろ。余計な一言で確信が持てた。否定はしない。生徒会長として責任感の強さは立派だ。迷惑な話だが。


「怪訝そうにしないでよ。友達がいなくて、成績も乏しい柿君に哀れんでるとかじゃないよ、違うから。本当」


「自白したも同然ですよ」


 焦燥が顕在している。僕を罵倒してどうするんだ。ガラスのハートが崩壊寸前だ。


「あはは。結構口達者だね」


 口達者はお前だよ。しかし想像以上に僕は悪目立ちをしているようだ。辛辣な状況を初めて自覚した。いや、知っていた。正しくは、他人事のように背いていた。


「成績なら仙崎だって不味いですよ。女の子同士仲良くしてあげたらどうですか? 安原さんみたいな才学非凡な生徒会長が友達にもなれば、仙崎にいい影響を与えますよ」


「それは、私を買い被り過ぎだよ。少なくとも、浅学非才な俄仕込みをどうにか出来るだけの余力は私にはない」


 仙崎を侮蔑するように罵る。鳥肌がたった。冷静になればわかること。正反対のコミュニティを形成する、生真面目な生徒会長と軽薄な今時ギャル。生き方、価値観共に対照的で、不和は当然かも知れない。第三者の介入がなければ関わることも、恐らくないのだろう。余計なことは口走った、と反省する。にしてもそこまで言いますか。女子って怖い。女子って皆こんな感じなのか。女友達なんて仙崎くらいなものだ。比較対照としては機能しないから、よくわからない。


「そんなこと言って、沽券に関わりますよ」


「ははは」と安原は嘲る。


「そんなことは柿君が気にすることじゃないよ。そんなことより自分自身のことわかってる? 進級も危ういし、このままじゃ退学も時間の問題だよ 」


 ねぇ、わかってる?と二度言う。大切な事のようで強調する安原は顔を近づける。何故に距離を詰める。僕は顔を背ける。


「わかってますよ。そろそろ本気でします」


 理解はしているつもり。 忸怩たる思いはあるが理想を追い求める勇気、熱意、羨望もない。あるのは難行苦行から逃れたい。という思いだけ。語れば語るだけ、自身がノミだとわかる。


「そういうのは、だいたい口だけーー」


 だからと、コンマ数秒後に発声された安原の言葉に、僕の思考は数秒間、もしくは数十秒静止した。


「ーーだから、夏期講習に参加しなさい」


「ーーーー?!」


「今年の生徒会の取り組みでは、校内格差を少しでも改善できないか、てことをテーマに取り組んで行こうと思んだ。その一環として、学力の強化。毎年、希望者のみを対象にしているんだけど、今年は生徒会が率先して参加者を募集することで、校内の学力向上を目指す。ほら私達の学校って、酷いくらい差別化されてるじゃない。学力で校舎や、運動場までもが、そういうのって学校として、どうなのって思って」


「はー」と僕は嘆息混じりに答える。


「私、柿原君を心配してるんだよーー」


 清々しいぼとに甲斐々しく図々しい。何かの冗談か。夢なら覚めてほしい。上手く懐柔された気分だ。僅か数秒前に〝本気〟がどうこう言った手前、断れない。


 と言うより、僕の成績は推し量る必要もなく、夏期講習を受ける選択は正しい。学力が低いクラスに所属しているとはいえ、毎回赤点はなのは僕と仙崎くらいで、断る道理がないのだ。


話の大部分は耳には入ってこない。面倒な夏休みを繰り返しイメージしてリピートした。僕の心情を知ってか知らずか、安原は淡々と会話を進める。


「ーー参加してくれるでしょ?」


「まあ、はい」


 極端に声が小さくなった。僕という人間は、とんでもなく分かりやすい。


「分かりやすい反応しないでよ、いじめてるみたいじゃない」


「いや、すみません。生来解りやすい、生真面目な人間なんです」


「嘘ばっかり」と安原は目を細め続ける。


「今日初めて柿原君と話したけたど、何だか親しみやすい。話しやすいって言うか、幼少からの友達と久しぶりに会って、だんだん打ち解けていくような、そんな奇妙な友情を感じた」


「そりゃあ、どうも」


 僕のことを格下と決め込んでいるからこその感想だ。と思うのは僕がひねくれているからだろうか。


「これって才能だよ。凄い才能」


 安原は僕の手を両手で包むように掴んだ。反射的に振りほどこうとしたが、悪い気がしないので、堪えた。


「夏休みはよろしく」


「あ、うん、どうも」


 安原は笑っている。好意を向けてくれているのに、僕の心は静まりかえっていた。彼女の笑顔から、悪意を感じてしまう。いつから僕は猜疑心の塊のような人間になってしまったんだろう。二年前の僕には猜疑心なんて縁のない言葉だった。人を疑うことを知らない無知で阿呆ではあったが、正義感の強い人間だったと自負している。あの頃の清く正しい純情な僕は果たしてどこに行ったのか。多分、もう会うことはないだろう。


「さあ、暗くならないうちに下校しようか。この学校出るみたいだし」


「出るってなに?」


「幽霊をはじめとした、魑魅魍魎の類いだよ」


「へぇー」


「妖魔や霊体、九十九神、魔女やエクソシスト、霊能者。世の中には信じられないことだらけーー」


 案外安原はミーハーなのか。オカルト好きなんて、予想外だ。合理的思考の持ち主で、現実的だとばかり思っていた。彼女の人気を鑑みれば、ミーハー的思考を持ち合せているからこそ、慕われるのだろうか。


「ーー学校七不思議的なのって、何だかワクワクしない。柿君はそういうの信じている人?」


「そういうのって?」


 右から左に聞き流してしまった。僕の悪い癖だ。


「お化けとかに決まってるでしょ」


「え?、あぁ……できれば突拍子のない事は信じないで、打算的に現実を生きたいかな」


「なにそれ変わってる。けど、柿原君ぽいかな。揶揄するように言うところが」


「僕は羨望を語っただけで、決して馬鹿にしたわけじゃない」


 と言うか、柿原くんぽいって何だよ。初絡みから、十分くらいしか経ってないだろう。もう僕と友達感覚なのかな。


「ふーん。そう。だからいつも一人でいるのかな? 打算的に、利己的思考を持って生きたいから、友達をつくらないと」


「少し違うかな。僕の中の友達が多い奴の特徴は、能力が低いから周りに頼り、性格が悪いからこそ誰構わず周りを巻き込める。要は精神年齢的に未熟だから、他力本願なんだ。だから利己的な人間ほど、友達が多い。僕は、そんな奴等と同じ括りにされたくない」


 本心ではない。戯れ言。嫌われる覚悟で言い返すが、安原は無表情で反応を示さない。妙に間を置いて、ゆったりとした語調で話し出す。


「トルコには『友人はあなたの為ではなく、自分の為に忠告する』。という諺がある。人は知性があり感情があるからこそ、不利益なことに敏感に対応する。誰かの為なんて言葉の真意は自分の為。柿くんはそういうことが言いたいのね」


 トルコの諺ってなんだよ。と問うと話が長引きそうなので聞かない。余計なことはしないほうが懸命だろう。適当に話を合わせる。


「そう。人には協力できるだけの知性がある。だけど、そこに感情が介入するから質が悪いんだ」


 そうねぇ、と安原は相槌をする。


「柿くんの言う通り、人は騙し合いや、他人を蹴落とすような行為を何百年も前から繰り返している。そうしなくては生きていけない時代もあった。私達はその子孫なんだから、当然悪意を持っている。もしかしたら遺伝的に残虐な行動を起こせるのかも知れない。けど、世代を重ねていくうちに、個人の利益を優先するなら、集団で行動するほうが、圧倒的に有利であると気付くの。だって、目先の利益ばかり求める人達が、安定した生活をおくれると思う?」


 時代が進むにつれて、ルールは複雑化し、危険な思考を持ったものは排斥される。そしてモラルとマナーが浸透した世界が誕生する。そのころには僕のような変り者はいなくなり、蜂とか、アリみたいな、個と集団が一体化した究極の社会を築いているんだろう。どこぞのSF小説じゃないか。


「人は一人では生きていけない。そのために進化の過程で良心を得た。互いを思いやる心は、勿論柿原君にも備わっている」


「結局は、『情けは人の為ならず』みたいな言葉があるように、良心の正体は利己的で、狡猾ってことだろう」


「別に良いじゃない。仮にそうだとして、それの何がいけないの?」


 安原は意地悪な目付きだ。


「悪くはないよ」


「なら、私とお友達になりましょう。とりあえず番号教えてよ」


「いやいや、それこそ話が飛躍してる」


 今日初めて話したんだぞ。すんなり友達とか。馴れ馴れしい。それとも最近の子は皆こんな感じなのか。僕が浮世離れしているのかーーしてました。僕は浮いた存在だった。


「飛躍してないよ。当然の流れ。自分で言ったじゃない、打算的に生きたいって、協力してあげるよ」


 私、優しいから、と安原は言う。


「だからってーー」


「だから、利用できないって? 友達だから利用し合うでしょ? 友達ってきっとそうやって割り切るものだよ。柿くんは根っからのお人好しなんだね」


 安原は僕の太股にタッチした。少し動揺するも悪い気はしない。携帯端末を見つけた安原は、素早い手付きで取り出す。


「見つけた。よしよし」


 安原が僕の携帯端末を操作すれば、バイブ音が響く。安原は端末を取り出し操作する。


「柿原君の番号ゲット!」


「おい。何勝手なことを」


「まあ、怒らないで。リハビリだと思って私と仲良くしましょう」


「リハビリって……」


 僕をなんだと思っているだ。ノミなのか。やはりノミだと思っているのか。


「悪いけど、そんな急に仲良くとか言われても、困る。僕みたいな内向的で人見知りの人間に対する配慮がなってないよ」


「そうだね。ごめんなさい。じゃあ段階を踏んで仲良くしましょう」と安原は僕の背中に両手を回して、抱き寄せた。突然の抱擁に口が塞がらない。


「や、安原さん??」


安原の柔らかい体を全身に感じて硬直。特に安原のボディラインで最も際立つあれを、直に感じてしまい僕は若干の興奮を覚えた。いろんな意味で反応してしまいそうだ。いつも遠くから見ていたあの揺れを。こんな近くで感じでもいいのだろうか?嫌ダメだろ。アウトだろ。何のご褒美だよ。よくわからんが頑張ろうと、僕は決意した。


「もう分かったから、勘弁してくれ」


十分に感覚を味わった僕はやっと声を発した。安原は「うん、うん」と、納得した様子で、僕を解放してくれた。




 その年の夏は僕にしては充実した日々を送れたと思う。毎日のように登校して勉強したし、怪異絡みもあって刺激もそれなりにあった。暑さを気にする暇もないと言えた。しかし、違和感は何をしていても取り憑いていた。本来なら無味乾燥に、怠惰な毎日を過ごすのが当たり前になっていたからだ。この違和感はなんだろう。右が左のような、携帯端末を失くしたような、正解ではないのに先に進む違和感。


 

 この違和感の正体に気づいた頃には、安らかに呼吸を止めていた。僕は、新学期を迎えることなく、この世から消滅した。

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