第23話『榊坂家の裏仕事 その二』
多分、荘司が眠っていたのは十分ほどだったと思う。
「ここ、いーですかぁ?」と、幼い女の子が声をかけてきたのだ。
その声で目が覚めたが、しかし、そんな短時間の仮眠にしては疲れが驚くほど取れた。
全身が羽毛のように軽い。
彩葉に接していたのでその能力の影響下にあったのかもしれない――温もりに秘かに萌えた、ただの照れ隠しだが。
電車は箱席で、隣には誰も座っていない席もあった。
と言うより、この車両に荘司たち以外の客はいないようだ。
田舎の始発とは言え、隣の車両はそれなりに人の気配がある。
荘司は違和感を覚えたが、彩葉が「良いよー」と優しい口調で勧めた。
「ありがとー」
嬉しそうに笑いながら荘司の対面――通路側の座席について、キョロキョロと子供らしい落ち着きのなさで、幼女は興味津々とばかりに目を輝かせる。
「おにーさんたち、しんこんりょこー?」
ニコニコと人懐っこい笑みを浮かべる少女の年頃は小学校低学年くらいだろう。
外見だけであれば、入学前にも見える。だが、そこまで幼い少女がこんな朝早く一人で電車に乗ることはないだろう。利発そうというか、マセた子供だ。
この席を選んだのは、暇潰しに話し相手が欲しかったのか。
荘司はすこしだけ警戒心を緩める。
「うん、そうだよ」
荘司が幼女の質問に力強く答えると、隣に座った彩葉が「うひゃぁ」と短い悲鳴をあげた。照れているらしい。真っ赤になって頬を押さえている姿は可愛らしかった。
幼女は丸い目をわずかに細めて笑う。
「ふーん。そうなんだ。新婚旅行なんだねー」
その身に纏った空気がいきなり変容した。
子供特有の甲高い声のまま、口調さえ変化する。荘司がそれに何らかの反応を見せるより早く、幼女の手がゆっくりと伸びる。
まるでお菓子でも寄越せとばかりに胸元へ。
「それは残念だなー。そこまで浮ついた気持ちじゃ――死んじゃうよ?」
「え――?」
荘司はガシッとそのまま幼女に肩口を抑えこまれて動けなくなった。
それは小さな子供の腕力とは思えず、体勢が悪過ぎて武器を取り出すどころか、わずかな身動ぎさえ難しい。息が詰まり、体が痺れる。まさか、的確にツボを突かれているのか!?
彩葉が悲鳴を上げる。
「荘ちゃ――!?」
いや、その悲鳴は強制的に途切れた。パクパクと口を開閉させるばかりで言葉にならず、彼女が自発的に中断したとは思えない。何が起きているのか?
「あー、幼なじみちゃんも動かないでね」
それは姉に良く似た声なのに、間違いなく別人の声だった。
長い付き合いの荘司だから区別がつくのであって、他人では聞き分けられないだろう。それほど似ていた。
そして、現れたのは姉に良く似た女性だった。
「はじめまして、と言うべきかな? うん……やっぱり、キチンとお互いを認識した時が出会いだよね。はじめまして」
その女性の方がいくらか年上に見えるが、似すぎている。
髪型と化粧に工夫すれば、荘司でも見分けられないだろう。
それよりも彩葉の顔色が苦しそうに赤黒く変色していた。
喘ぐようにして喉元を掻きむしっているが、酸素が取り込めないようだ。
何が起きているのか分からない。
新たに出現した女性が何かした可能性が高いが、彼女はニヤニヤと隣の座席に足を組んで腰かけているだけだ。
一つ分かることは、彼女たちが敵の吸血鬼だ、ということ。
しかし、これはどういう能力なのか?
いや、違う。それよりも彩葉をどう救出すべきか。
現状、『弾丸』も持たず、幼女に抑えこまれている状況は情けないの一言。
荘司は歯を食いしばって全身に力を込めるが、やはりどうしようもなかった。
根性でどうにかできる問題ではない。
幼女の外見でゴリラ並の腕力とか笑えない。
――と、コクンという感じで彩葉が意識を失った。
一瞬、頭に血が上りかけるが、細い呼吸をしているから死んではいない。
少しだけ安心するが、何が起きたのか把握できなかった。
そういえば、どうして荘司の意識は刈り取らないのだろう。
吸血鬼としての身体能力があろうとも、闘争に向かない彩葉より、よほど自分の方が危険なはずだ。人質のつもりか?
いろいろ考えてみるが、自分の悪手一つで殺される可能性が高いと思い至り、震えてきた。自分が死ぬよりも、彩葉を守れないことの方が万倍怖い。だからこそ、冷静になれ。激昂しては助けられる者も助からない。
「ねぇねぇ、夕音ちゃん、こういう時、私はどんな顔すれば良いのかな? 返事もしてくれないし、怒らせちゃったみたいだし、どうしようか」
「感動の再会ではないけど、泣けば良いんじゃない?」
「そっかー。でも、悲しいとかよりも、ドキドキしてるんだよね。んー、難しいね」
二人の意味不明な会話だった。
ただ、夕音ちゃんとか言われて、誰のことか分からないわけではない。
一度細く深呼吸してから荘司は平静に訊ねる。
「姉さん?」
「私?」
「違う、そっちじゃなくて、姉さんなの?」
体を押さえつけている幼女に視線を向けるとニヤリと笑って「正解」と呟いた。
次の瞬間、幼女の姿がグンニャリと捻じれ、気がつくといつもの姉の姿に戻っていた。
目を離さなかったのに、どのタイミングで変身したのか分からなかった。
ついでに言えば、体を抑えているだけなのに拘束も解けない。
夕音子は普段通りの優しげな笑顔だった。
「はーい、荘ちゃん。久しぶり。誕生日プレゼントありがとうね。とっても嬉しかったよ。家宝にするから! 毎年、家宝にしているけどね!」
髪飾りをチラッと見せつけながらの嬉しそうな言葉。久しぶりというほど時間は経っていないが、裏読みするとそれなりに重い意味がありそうだ。
屈託のない態度も含めて、挑発としてなら十分過ぎる。
「……喜んで貰えて嬉しいな。ははは」
乾いた笑い声で荘司は隙を伺うが、どう考えても脱出できそうにない。
姉が吸血鬼だったことよりも、不可解なまでの腕前の正体に納得していた。
最初から土台が違い過ぎたのだ。
「逃げようとしても無駄だよ。今の荘ちゃんじゃ無理。私、強いからさ」
不可能なことでも抵抗せねばならない時はあるが、今は少し違うか。
いつでも殺せるということは、すぐには殺すつもりがないと同義。
すぐに殺される可能性が低い以上、状況を見極める方が先決だ。
荘司は全身から力を抜き、言う。菊一文字の入った竹刀袋からも手を離した。
「……絶対に刃向かわないから、拘束解いてくれないかな。あと、無抵抗の間は命の保証もお願いしたい。当然、俺と彩葉の両方の命ね」
「うん、素敵だね。抵抗したら殺しても構わないって意志表示は素敵。やっぱり、荘ちゃんは最高だな。大好き」
大好きという嬉しいはずの言葉も、今の状況では深読みと裏読みをしてしまいそうになる。
「約束は?」
「良いよ。はい」
軽い調子で約束した夕音子が手を離すと、荘司はガクッと前のめりに倒れそうになる。不自然に全身が強張っていた。冷や汗で脇の下から背中まで濡れている。
夕音子が変身する能力だとしたら、それは人体への知識が人一倍あるということだろう。
とすれば、あの拘束は荘司の筋肉をも使用していたのか――化物の所業だ。
刀どころか、格闘戦でも勝負できる気がしない。
その戦力分析を行いながら、荘司は言う。
「姉さんも吸血鬼だったんだね」
「そうよ。何一つ分からない状況での冷静さはさすがね。ここで荘ちゃんが発狂して喚いたりしないって信じていたけど、その通りだと本当に嬉しくなっちゃうな」
冷静沈着を心がけているが、そういう言い方をされると多少不本意だった。
夕音子は荘司の菊一文字を取り上げ、自分のそっくりさんに渡した。
武器を奪われたが、そもそも、今は抵抗する気がない。
「うん、荘ちゃんは本当に素敵な男の子に成長してくれたね。本当に嬉しいな」
父に対峙した時以上の危機感。絶望感。姉の姿をしているが、別の生き物に見える。
大好きだからこそ、裏切られた気持ちが大きい。
しかし、これは荘司の自己中心的な甘えでしかない。
世界を敵に回してもなんて嘯いていたのだから、丹田に力を込めて踏ん張れ。
あまりにも変わらない態度に、荘司の精神はギリギリまで追い込まれていた。
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