第17話『榊坂家の仕事 その五』

 満月を背景にする――なんて格好の良い舞台は揃わなかった。

 中天を浮かぶ月は半分以上を狼に喰われている。

 これは狼が月を食べるから欠けていくのだ、というおとぎ話から来ている。

 狼は吸血鬼の眷属だ、とも、吸血鬼の天敵だ、とも聞くが、これは後者の立場での伝承である。吸血鬼は月夜に真価を発揮するという伝説から生まれたのだ。


 そんなつまらないことを考える荘司は、現実を直視したくないだけだろう。

 先ほど、十三真鬼を狩るなんて啖呵を切ったくせに、なんて小さな奴だ。しっかりしろ。

 だが、立ち塞がる父の姿はあまりにも大きかった。


 萎縮しないよう意識して言葉に力を込め、荘司は問いかける。

「……どうして分かったのさ?」

「荘司、お前は一流の剣道家にはなれるだろう。だが、一流の討伐人にはなれない。だからだよ、俺とは違う。自分を騙すことがあまりにも下手だ。というか、分からないと思う方が分からないな。俺はお前の父親だぞ?」

 虎鉄を正眼に構えた真一の迫力は圧倒的だった。

 思わず、ジリと後退りしたくなる。

 父こそが吸血鬼という月を喰らう狼だから当然か。

 しかし、どれほど自身が力不足であっても、荘司は引くつもりなどない。

 彩葉を守るという気持ちからすると、本来なら立ち塞がるラスボスは安曇高座を始めとした十三真鬼であって、どれほど年季と役者が違おうとも父では不足なのだ。

 これは通過点でしかなく、怯えている場合ではない。


「無抵抗で投降すれば、荘司は助けてやる。どうだ?」

 それは荘司に対しての通告ではなく、彩葉に対するものだった。

 その言葉は見事にハマり、彩葉をチラッと確認すると、迷いで青ざめ、瞳が揺れていた。

 だから、それを遮るように、庇うようにして荘司は一歩前へ出る。

「断るよ、父さん」

 もう迷わないと決めたのだから真っ直ぐ睨みつける。


 真一はアッサリと言う。

「そうか、なら、共に斬り捨ててやる。それが情けというものだろ」

 恐怖で沸騰する思考を冷静さで塗り潰す。

 感情は不要なものではない。

 恐怖する自分がいるということは、どうしても生き残りたいと思っていることなのだから、人に力を与えてくれるものなのだ。父の教えは間違いない。その父が恐怖の権化というのは皮肉としか言いようがないが。


 鼓舞するため振り返らずに荘司は叫ぶ。

「彩葉っ! 絶対に、何があっても、手を出すなよっ!」

「……分かったわ。だから、かって!」

 それは自分の味方として『勝って』か、それとも、討伐人の息子として敵を『狩って』か。どちらでも大差はないだろう。そして、結果も同じこと。

 深呼吸を細く深く一度、二度。

 手先、足先に宿る熱。


「父さん」

「荘司」


 呼び合うだけで、もう言葉は不要。


「殺(しゃ)ぁぁっ!」


 呼気と区別のつかない程度の短い気合いを吐き、荘司は間合いを詰め始める。

 ぼんやりと半眼でありとあらゆる状況を把握することに務める。

 どこかを注視するわけではなく、視線と足と肩の動きを中心に全体を見る。

 三日月の下、暗く見通しの悪い世界は、実力差を埋めることに役立つか、それとも、突き放すことに寄与するか。

 風が吹き、砂埃の小さな粒子が目の前を過る。

 真一は悠然と刀を正眼に構え、巌のように動かない。

 父は荘司とは年季も技術も違う。実力段違いどころか、桁違いだ。今までに練習で勝ったことなど一度もない。練習で勝てないのだから、本当の死合の今、勝てる道理はない。

 しかし、可否ではなく、現実として勝たなければならないのだった。

 一か八かは悪手でしかない。

 捨て身の行動なんて事態に追い込まれる時点で、荘司の負けに等しい。

 負けないことを一番に考え、慎重にジリジリと間合いを詰める。重症になった時には逃亡失敗で負け決定なのだから、なるべく軽傷で勝たねばならない。


 まだ刀の間合いの外だ。

 あと三歩ほどで間合いに入る。

 落ち着け。すり足で。

 落ち着け。ジリジリと。

 落ち着け。近づく。

 落ち着け。と、考える主体は果たして落ち着いているのだろうか?


 ――変な思考に囚われていた。


 無私を心がけようとすることで、ズブズブと思考の泥沼にハマる感覚。

 グニャリと足元が歪む。規則的だった呼吸が乱れ、意識して整えようとすると更にぎこちなくなる。頭の中の一部分が熱くなっている。

 父の姿がやけに大きく見える。

 大きく見えたのは錯覚ではなかった。

 荘司が一方的に間合いを詰めていたはずなのに、いつの間にか、父に間合いを詰められていた。

 これでは普段と変わらないじゃないか!?


「っ!?」


 父さんの振るう刀が荘司に迫り、咄嗟に背後へ飛び退く。

 絶対に避けられないと思ったが、父は深追いせずにゆったりとした正眼の構えに戻る。

「一回」

 その意図を荘司は正確に理解する――父は手加減していた。

 真一にとってこれは単純な戦いではなく、荘司の心を折るための戦いらしい。

「荘ちゃん……」

 不安げな彩葉の声で荘司の脳髄は焦燥感で満たされる。これは荘司の心を折るだけではなく、彩葉の心も苛んでいるはずだ。本当に自分が生きていて良いのかという疑問。命を投げ出せば荘司だけは助けてもらえるのではないか、という救い。それは優しさという名の弱さで、犠牲という名の愛だ。思わず飛びつきたくなる罠。


 荘司は歯を食いしばる。堪えられない想い。そう、悔しさがこみ上げてくる。

 今の一撃で荘司は理解していた。

 普段の練習ですら、手を抜かれていたのだ……!

 その事実で、心が屈服を求めていた。


 真一は構えを解かずに言う。

「どうして、ここまで差があるか理解できるか?」

 荘司は答えられない。

 父はアッサリとその手の内を暴露する。

「教えただろ? 俺は幾度も『弾丸』を服用したことで、身体が吸血鬼化してるんだってな。能力は使えないし、肉体が変質するほどじゃないが、身体能力は既に吸血鬼並だ」


 父の強さはつまり一種の薬物中毒ということで……これが討伐人の末路。終着点。完成品。


 一瞬、吐き気がこみ上げてきたが、飲み込む。あまりにも絶望的な戦いだった。人の身で勝負になるわけがないのだ。このままだと勝てない。

 ふと、荘司はポケットの中にある『弾丸』の存在を思い出す。

 これを服用すれば、荘司自身も仮吸血鬼化する。

 つまり、条件は五分にまで持ち込める。

 いや、五分ではない、と荘司は即座に否定する。

 こちらは精々十分程度しか効果を発揮しないのだ。向こうは永続的な仮吸血鬼化。ただでさえ、実力差があるのに、制限時間を設けてどうするのか。受け潰されたら終りだ。

 いや、待てよ。仮吸血鬼化すれば、能力が発現するはずだ。その能力次第では五分以上に戦える、かもしれない。あくまでも運任せだが。

 こちらの奥の手を知られていないことが武器になるのに、五分にしてしまうことはこちらの利を捨てることになる。問題は荘司自身奥の手を知らないこと。果たして、どんな能力が発現してくれるか? ギャンブルは得意ではないが、贅沢を言っていられる状況ではない。

 しかし、五分でも勝率があるのならそれに賭ける方が正解か? 今のままでは間違いなく敗北することが決定しているのだから。いやいや、真一が生命を奪いに来るまで結論を後伸ばししても良いのではないか。それまでじっくりと機を伺うべきではないか。判断に迷う。

 分からない。

 どうすれば勝てるか分からなかった。

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