第16話『榊坂家の仕事 その四』
荘司の決意に、父から仮吸血鬼化する薬――『弾丸』を二錠受け取った。
一つは予備だが、そもそも、一つも使わない事態が一番良いのだ。連続して服用すれば二十分は吸血鬼になって戦えるらしい。一度に二錠服用するとそれよりやや効果時間が短くなる。
基本的な服用方法は難しくないが、簡単だからこそ取り扱いは注意が必要だった。
そして、荘司は菊一文字を片手に、再度彩葉を軟禁している病室へ向かった。
もちろん外では竹刀袋で覆い隠し、病院内でも鞘に納めていたが、既に抜身と変わらない存在感を放っている。
重く、硬く、冷たく、思わず力がこもる。
もう時刻は深夜だった。
冬の病棟は静まり返っている。
病院の機器が一定の騒音を作っているからこそ逆に、その静寂が際立っていた。
凍えた世界は永久凍土に粉雪が降り積もるようだった。
その調和に異物が交じる。
カツン、カツンとリノリウムの床に足音が響いている。
荘司の足音だ。
夜間でも押し留められなかったのは、荘司の家の権力が大したものだった、ということだろう。いや、真一の後ろ盾が正しいか。
一度もナースステーションも見回りにも遭遇しなかった。
不自然なまでに静かで、だからこそ、不思議な威圧感が漂っていた。
荘司は急ぐことにした。
荘司は彩葉の病室に入り、その姿に話しかける。
「彩葉……」
「ああ、荘ちゃんか。こんばんは。どうしたの? 刀なんて持って」
彩葉は寝ていなかった。
カーテンも締めず、ベッドに座ったまま、虚空を睨んでいる。
荘司が話しかけてもボーっと目が虚ろなままだ。
ちなみに、吸血鬼は夜行性だと言われるが、睡眠がほぼ不要になるだけだ。
一日中動けるため人の割合で夜動く姿が目立つから生まれた逸話であるらしい。
興味深い話だと荘司は思う。
主体は吸血鬼ではなく、人間だという部分が面白い。
ポツリと彩葉は言う。
「それでわたしを殺してくれるの?」
そこで、ようやく荘司は気づいた。何かゴテゴテした服装だな、と分かってはいたが、それの正体にようやく気づいたのだ。あまりにも酷くて認識できていなかった。
彩葉の体は拘束具で自由が効かなくなっていた。後ろ手に回され、足も固定されていた。寝転がることはそもそもできなかったのだ。
それは正しく囚人の姿だった。
「……っ」
思わず息を呑み、頭を抱えたくなる。荘司がいない間に、どういうことがあったのか想像すると、足が震える。彩葉が発作的に暴れ制圧されたならまだ黒服の気持ちも理解できなくはないが、単純に警戒し拘束されただけだとしたら――殺意さえ感じる。
「殺してくれるんだよね? 別に良いよ……もう独りだし」
死んだような瞳の彩葉が繰り返した。
「っ――」
声をかけてやろうと思い、意味がないと諦める。
絶望している人間に声なんて届かない。もし、届いたとしても曲解され、真意は決して伝わらない。それは絶望している人間が悪いわけではない。もちろん、本人の努力が不足し絶望することもあるだろうが、すくなくとも彩葉の場合は違う。
だから、荘司は無言で抜いた刀を振りかぶった。
ふと脳裏をよぎったのは、幼き日からの彩葉の姿だった。
その記憶はある年齢を境にして一気に数を増やす。笑顔や泣き顔、怒り顔。いろいろな顔があった。美しく成長したな、と他人事のように思う。
それが吸血鬼のせいか、自分の意識のせいか分からない。
一人になった、と言った彩葉へ荘司は刀を振り下ろす。
彩葉は目を逸らすことさえせず、自分の最期を見つめていた。
そして、振り下ろした菊一文字は、スパッと拘束具を根本から断った。
ハラリと縛めが落ち、自由になった彩葉はとても不思議そうな顔で言う。
「……? どうしたの? 殺さないの?」
刀を納めた荘司は、彩葉の手を強引に取り簡潔に答える。
「逃げるぞ」
「え?」
「二人で逃げるぞ」
彩葉の不思議そうな顔は、どこか泣きそうでさえあった。そっぽを向きながら、
「無駄だよ。どうして、そんな無駄なことをするの?」
その声音は絶望で彩られていた。簡単には心が融けないのは明らかだ。
どう言うべきだろうか? どうやって説得すべきだろうか? もちろん、それが容易でないことは重々承知で、意味がないと先ほど荘司は諦めたくらいだ。でも、それでも、戦わなければ生き残れないのだ。だから、真摯に言葉を探るしかない。
「――例えば、世界中全ての人間から『死ね』と糾弾されたとする。彩葉はその場合、生き残ることは幸せだと思うか?」
「幸せなわけないでしょ」
「俺も同感、そんな人生は悪夢だ」
だが、
「今の彩葉は正にその悪夢の状態だ」
だから、
「俺だけはお前の味方でいたい。彩葉が世界の敵であれば、俺もその一人になりたい」
そう真っ直ぐと目を覗きこみながら告げた。
「えっと……」
「俺を吸血鬼にしてくれ、って言ってんだよ。彩葉が死ぬなんて納得できない。一緒に戦って生き延びようぜ」
首を差し出しながらの荘司の言葉に、彩葉は呆れたように言う。
「……バカだし。そんなことできるわけないし」
「頼む」と荘司は深く頭を下げる。
「断る」と彩葉はツンとそっぽを向いて拒絶する。
「お願いだ」
「ダメ」
「お願いします」
「嫌だってば。というか、どうして服を脱ごうとしてるのかな!」
「いや、土下座の流儀は全裸が基本らしくて」
「見苦しいから止めてね! やったら許さないからね! 許しませんとも!」
「じゃあ、止めるから代わりにしてくれるよな」
「お断りです。どんな交換条件なの!? どうしてそれが交換条件になると思えるの!?」
実は荘ちゃん、緊張してるの? と彩葉は言う。
弱々しい笑みだったが、ほんのちょっとだけでも顔が綻んだことが死ぬほど嬉しかった。
少しだけいつもの調子が戻ったようで、荘司は内心ホッとしながら咳払いをする。
「確かにらしくない態度だったな」
「ホントだよ」
「どうしてもダメか?」
「どうしてもダメ」
天井を仰いでシミを確認する。何を言えば良いか分からず、それっぽい行動で時間稼ぎをしているだけだ。さて、この頑固者をどう説得するのが正解か。押し一方ではダメか。
結局のところ、荘司の中にあったのは、一つの疑問だった。
「どうしてだ? 生きたくないのか?」
もう少しスムーズにことは運ぶと思ったのにそれほどまでに絶望していた、ということか。
彩葉は首を振りながら言う。
「荘ちゃんのこと、信じられないよ……」
「…………」
「んーん。荘ちゃんが、じゃないか。今、誰かを信じて裏切られたら辛すぎるよ。絶対にアタシ、耐えられないもん……」
「そうか……」
当然かもしれない。
感情的なものだとすれば説得など無駄だし、理屈的なものだとすれば荘司の言葉など届くとは思えない。もう拒絶という選択肢を選んだのであれば、聞く耳などないのだ。
だから、荘司は話を少し逸らすことにした。
「なら、損得で話をしよう。理論的に彩葉に利益のある話だ」
「アタシに利益のある話? 今のアタシに有利な話なんてあるわけないし」
「あるんだよ」
まず、確定的な情報だ、と荘司は前置く。
「日本には父さんのような討伐人が手出しできない十三真鬼という吸血鬼がいるらしい。つまり、生存権のある吸血鬼がすくなくとも十三体はいると予測できるわけだ」
「? そうなんだ。でも、わたしは別に違うよね。いきなり吸血鬼にされちゃったんだし、逆に言えば、その十三真鬼以外は許されてないってことだよね?」
「俺、不思議だったんだよな。どうしてそんな存在が許されてるんだと思う?」
「さぁ……人間側にも何か利益があるんじゃないの」
彩葉の言葉は投げやりだった。
仕方ないが、あまり真面目に考えるつもりがないらしい。
しかし、吸血鬼化して知能は本当に上がっているようだ。こんな風に言い返されることなんて、そう多くはなかったのに。
「俺はいくつか推測を立てた。まず、これだ」
俺は万が一ということで借り受けた『弾丸』を取り出す。
「……薬?」
「一時的に吸血鬼化するための薬だ。特殊部隊と一部の警官、あとは討伐人くらいしか配給されないドーピング剤らしい」
「ふーん」
彩葉も少しだけ興味が湧いてきたらしい。口ぶりは変わらなくても長い付き合いだからその顔色だけでも何を考えているか分かる。
「ところで『税金泥棒』って言葉があるだろ? あれは知っての通り、血税を無駄にするなって言葉だ」
「そうね、国民の義務の一つだもんね、納税は」
「そう、血税を納めることは国家安泰のために必須だな」
血税――それは文字通り血液を税金として納める行為だ。
日本だけではなく、世界中で行われている当たり前の行為だ。成人以上の男女が一定量の血を国に納める仕組みは、もう何十年も前から形成されている。
「血液製剤や輸血用だけじゃなくてな、それに適さない血も集めるのは、この『弾丸』の原材料とするためだよ。『弾丸』を一定量作るために必要だから、国民は血を徴収されている」
血のように赤い『弾丸』の素材は国民から集めた血液――それに思い至った時、荘司はいろいろと悟った。
この世界で吸血鬼という存在の重要性は大きい。
人間よりも優秀だとしたら当然かもしれないが、一般人にも大きく影響を及ぼしているのだ。
「…………」
彩葉の俯きがちの顔がわずかに上を向き始めていた。しかし、荘司とは目を合わせようとしない。最初の刀を向けた時以外、一度も目が合っていなかった。
「じゃあ、一体、その『弾丸』は誰が作っているのか、という問題だ。俺はそのシステムに関わっている者が十三真鬼だと考えている」
まとめてしまうと、十三真鬼の権力はかなり国の中枢に根付いている、ということ。だから、討伐人が吸血鬼と殺しあいなんてできるのだ。
そもそも、安曇高座を考えてみれば当然だろう。大昔の偉人が生きているのだ。その権力はせいぜい一〇〇年しか生きられない人間の比ではないはずだ。
「そっか……」
「不服そうだな」
「吸血鬼がそんな強い存在とは思えないけどね」
「その辺、ハッキリしたことは今の俺たちじゃ分からない。というか、想像するしかないからな。ただし、血税で血液量がコントロールされているということは、十三真鬼にもかなり利があるんじゃないか? 吸血鬼はその欲求不満解消のため一定量の人血が必須で、目立つことなく手に入れられるだろうし、あまりにも吸血鬼が増え過ぎたら人血が不足するだろうし。その調整のためにも十三真鬼以外の吸血鬼が弾圧されているのかもしれない。もしかしたら、現状の差別は吸血鬼同士の抗争とか利害の結果かもしれない。何とも言えないわな」
でも、そこはとりあえず、重要じゃない、と荘司は多少ごまかす。
あまり突っ込まれるとボロが出そうだ。確証などないのだから。
それより重要なのは、彩葉を説得することである。
「とりあえず、実は吸血鬼にも一定の生存権を確保しようとすればできなくはないということだ。ここまでで異論はあるか?」
「そうね。でも、それを既得権益として確保しているのが十三真鬼じゃないのって話でしょ。それなのに、どうして、わたしの利になるのよ」
「分からない奴だな。俺の父さんがやってる家業は何だよ? 説明しただろうが」
「……討伐人……?」
そう。榊坂家はそれを生業にし、知らなかったにしろ、荘司はずっとトレーニングを積んできた。その素養は十分のはずだ。
つまり、
「俺が十三真鬼を狩ってやる。その席を乗っ取るぞ」
彩葉の顔は見ものだった。
「……え?」
呆けたように眼と口を丸くしている。
だから、荘司は丁寧に繰り返す。
「どんな手段を使ってでも俺はそれを実現する。十三真鬼を倒す。だから、どうだ? 一緒に逃げようぜ」
国に保護されている十三真鬼ならば、末長い平穏が約束されるだろう。
もちろん、殺して奪えばどうにかできる、なんて甘いものでないことは荘司も知っている。これが夢物語でしかないことも知っている。
でも、荘司はそうするべきだ、と思った。いや、そうしたいと思ったのだ。
驚きが収まったのか、彩葉は困ったように言う。
「無理だよ。どう考えても……」
「どうしてだ?」
「どうしようもないことってあるもの」
「ない!」
「え?」
「そんなものはない!」
「…………」
「それは努力が足りないだけらしいぜ」
父は練習後にこんな発破をかけてくることがあったが、あまりこういう物言いは好きではなかった。努力なんて当然のものでことさらに騒ぎ立てるものでも、他者と比較するものでもない。しかし、嫌いだと感じていたのは、一種の嫉妬。いや、嫉妬とも違うか。この世には越えることができない壁が厳然と存在している。それは間違いのない事実だ。
しかし、それは立ち向かえないことを意味しているわけではない。
努力しても失敗することはあるだろう。
どれだけ頑張っても勝つことができないものはあるだろう。
努力と結果は無関係なのだから、結果の伴わない努力なんて腐るほどある。
確実な因果関係など成立しないが、逆に言えば、それが挑戦しないことの言い訳には決してならない。負けたとしても、転がされたとしても、生きている限り立ち上がることはできる。可能性は残る。
諦めなければ、人は立ち向かえるのだから。
だから、
「彩葉が自由に生きられる唯一の可能性だと思う。俺のことなんて信頼も信用もできないとしても、ただ飼われて死ぬよりはマシだろうさ。違うか?」
さぁ、と荘司は差し伸べる。掴めよ、と。
「やろうぜ。生きようぜ」
「……無駄だと思うよ。すぐに捕まっちゃうよ。どうせ逃げられっこないってば」
「だな。多分、無理だろうな」
「何よ、それ……」
「でもさ、やってみないと分からないだろ? やった後悔とやらなかった後悔って倍くらい違うらしいぜ」
「でも、荘ちゃんに迷惑をかけるし」
「そもそも、俺が望んだことだろうが」
「他の人にも迷惑だよ。荘ちゃんのお父ちゃんとか夕音ねぇとか、どう言い訳するのさ」
「知ったことじゃないさ。家出だ、駆け落ちだ、反抗期だ」
「無茶苦茶だよ……」
呆れたような彩葉にそうだな、と荘司は笑いかける。
荘司自身、久しぶりに笑った気がした。頬と肩の強張りがわずかながらも取れた気がした。案ずるより産むが易し。本当にそう思う。悩むより行動した方が遥かに楽だ。
彩葉の為であれば、全てを捨てても良いと荘司は想った。
これはそれだけの話なのだから。
そもそもさ、とシンプルな一つの命題を荘司は訊く。
「彩葉は未来を、明日を夢見ないのか?」
彩葉は一瞬答えに詰まるように口をパクパクさせ、
「……はぁ、荘ちゃんは本当に仕方ないなぁ。仕方ない人ですよ?」
と、まるで不本意だとばかりの笑顔だったが、ポタリと一筋の涙が零れ落ちた。
そして、目が合う。
くすんだ瞳は一般的な感性からすれば美しいとは言い難かったが、眦に溜まった涙が光る。
つまり、吸血鬼も人間もそれほど違いはないのだろう。
以前とは違う、ほんのわずか赤みがかった瞳に力がわずかながらも戻っていた。
「ありがとう」
彩葉は荘司の手を掴みながら言った。
「アタシ、明日がどんな日か、知りたい」
逃亡の最低限の準備はあらかじめ済ませておいた。
彩葉の服や靴と数日分のお金くらいだが、あまり準備し過ぎて勘づかれることは避けたかったのだ。
目的地である『常勝将軍』安曇高座の住居の住所は手に入れている。
父の部屋を家探したらすぐに手に入ったのだ。
ずぼらな父の性格に初めて感謝した。
本当だったら、彩葉の家にも少しは寄りたかったが時間がないので仕方ない。ないものねだりだ。不退転の決意を胸に秘め、荘司たちは病院を忍び足で後にする。
彩葉が病室の前に倒れている黒服に目を向け、小さな悲鳴を上げる。
「荘ちゃん、この人……? こ、殺しちゃったの?」
「違う。気絶させただけだよ」
油断させて後ろから一撃だった。
「ぜ、全然気付かなかったよ」
「まぁ、隠密にやったからな。多分、まだ大丈夫だと思うけど、いつ目覚めるか分からんから急ぐぞ」
「うん」
手の温もりが心強い。
病室を抜け、非常階段を使って、侵入した時と同じルートで抜け出る。
このまま行けば、裏の駐車場から行けるはずだ。
外に出ると、雲さえあれば雪が降り出しそうな寒さだった。
「寒くないか?」
「うん。全然」
吸血鬼化したせいだろうか。むしろ、荘司の方が凍えそうなくらいだ。
はぁ、と息を吐くと白くなる。
荘司はほんのちょっとだけ肩の力を抜いた。一先ず、ここまで来られた。
駐車場まで出たその時だった。
「急ごうぜ」
荘司は手を引こうとして、逆に、彩葉に引っ張られた。吸血鬼の細腕にたたらを踏む。
「そ、荘ちゃんっ? ま、待って!」
「は? あ!?」
一人の影が荘司たちの前に立ち塞がったのはその時だった。
油断していたわけではないが、荘司は全くその気配を察知できなかった。
彩葉がいなければ、もう斬り捨てられていた可能性さえある。
そのくらい唐突だった。
戦闘態勢に移行する荘司に、その人影は言う。
「お前だったら、そうすると思ったよ」
父の真一が、抜き身の虎徹を片手に立っていた。
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