第12話『榊坂家の非日常 その六』

 釜田彩葉の好きな相手は一つ年上の幼なじみだ。

 超シスコンで、人を人とも思わないような酷い男の子。

 普段から態度も口も悪いくせに人のことをよく見ていて、困った時には手を差し伸べてくれる優しい人でもあった。

 あんな卑怯な男は他にいないと思う。

 面倒くさくて悪趣味――だから、好きになったと言っても過言ではない。


 そんな幸せな気持ちで帰宅したのに、それが一瞬で凍りついたのは言語化できない奇妙な空気が家中に漂っていたからだ。

 一歩踏み出しただけで空気の変わる感触。ねっとりとした気色の悪い感覚。背筋が凍り、お腹の底が重くなる気分。帰宅すると、それがあったのだ。


 すぐに彩葉は荘司を呼ぼうと思った。

 それを思い留まったのは、結局、ただの勘違いを恐れたから。

 そもそも、足を軽く捻っただけで、こうも優しくしてくれる人だ。勘違いだろうとも嫌な顔はしないだろう。

 だけど、できることなら迷惑は掛けたくない。

 理由は好きだから。至極当然かつ、単純な動機。できるだけ対等な立場であるべきなら、そうそう頼るべきではない。


 だから、ゆっくり、ゆっくりと歩みを進める。

「お父ちゃん? お母ちゃん?」

 彩葉は恐る恐る声をかけるが、返事はない。

 それどころか、やけに静かだった。反響音さえない。

「お、お父ちゃん、ダメだよ、店番サボっちゃ。お母ちゃんに怒られちゃうよっ。お母ちゃんもどこにいるの? まだ夕飯の準備には早いよね。あ、もしかして、おでんでも作ってるのかな? 時間かかるもんね。アタシ、お母ちゃんのおでん好きだから嬉しいなー。本当に嬉しいんですよ?」

 不安からそんなことを早口でまくし立てる。


 いや、分かるのだ。

 自分が意味のない言葉を繰っていることなんて。


 料理なんてしている気配もないのだ。

 匂いもしない。

 音もしない。

 不自然さが恐怖心を煽る。


 きっと気のせいだ。

 そうに違いない。

 そうに決まっている。

 そうでなければならない。


 ドンドン願望が膨らみ、期待が現実になると信じて、彩葉は笑う。

 まだ引き返せたはずなのに、まるで誘蛾灯に誘われる夏の虫のような足取りで、二階へ上がり、リビングに行き当たった。


 そこで、見た。


 まるで人形のように転がる二人。冬の冷たい床にくの字と大の字。その傍らに立つのは平凡なサラリーマン。上下共に上物のスーツで、ネクタイは赤と白のストライプ。普通に土足。冬場なのにそれだけで、寒そうな様子は一切ない。見たことなどない顔だ。すくなくとも彩葉は、口元に血を垂らしながらニヤニヤと笑う成人男性の知り合いなんていない。


「――――――――――――――――っ!」


 悲鳴にならなかった。

 そもそも、音にならなかった。


 肺が悲鳴という形で呼気を漏らしたはずなのに、形にならない恐怖に彩葉は混乱する。


「ああ、この家の娘さんか。確か、彩葉ちゃんだっけ」


 なのに、その男は平静な声でそんなことを言った。

 まるで、買い物で知り合いと立ち話をするような呑気さが、彩葉の恐怖を一層煽る。

「運が悪いね。まぁ、予想もしていたんだけどね。先回りして、血の補給をしていただけなんだ。悪気なんてないんだよ? 二人分で満足と言えば、満足なんだけどね」

 ああ、と思いついたようにその男は続ける。


「ところで、彩葉ちゃんって処女?」


 パクパクと、言葉を、返そうと、喘ぐようにして、呼吸する。

「うん、声にならないんだね。知っているけどね。君と榊坂の関係なんてそんなものか。ところで、処女って美味しいのかな。別に処女信仰なんてないし、美食信仰もしてないんだけどね。そうだ、榊坂の息子と恋人同士なら、適当に嬲るのも手かな。勃起なんてもうしないはずだけど、甚振るのも悪趣味で素敵じゃないか。そっちの君の両親は快感に負けちゃったけど、君はどうなのかな。処女だったら耐えられないかもね。あまりに気持ち良くて失神しちゃうんじゃないかな。あはは」

 それは脅しの一種だった。

 言葉で、無抵抗なこちらを虐めていた。

 絶対的優位を確信しているからこその余裕で貶めている姿は、猫が獲物を生かさず殺さず遊ぶ様子に似ていた。


 彩葉は、あまりの急展開に心が凍る。

「ん? 抵抗するのかい?」

 ただ、このまま何もせずに屈するのだけは我慢できないということ。

 怖くても、恐ろしくても、荘司に助けてもらったのだ。こんな簡単に諦めることなんてできない、と考えて心を奮い立たせる。


 彩葉は手にした荷物を投げつけ、反転しようと――

「ケガしているのに、無茶なんじゃないかな」

 ――転倒した。


 しかし、それはケガの痛みではなく、足元を払われたせい。

 いつの間にか、三メートルは距離があったのに、一瞬で間合いを詰められ、足払いを食らったなんて気づけという方が無茶だ。

 足首にジンジンと痺れたような熱さがあった。

 奇妙な方向へ足が曲がっていたが、痛みは感じなかった。

 何が起きたのか、分かっても理解できない。


 音なんてなかったのに!


「大丈夫だよ。血を分けてもらうだけ。君たちを殺すなんて大変だからね。良いかい。口封じするならいくらでも手段はあるんだよ。殺人は後処理が一番大変だから殺したくはないけど、それだって手段の一つでしかないんだからね。僕らに殺人の禁忌なんて当てはまらないんだよ。だって、君たちが蟻を踏み潰すのと大差ないんだからね」

 それでも彩葉は這って逃げようとしたが、首根っこを押さえつけられた。


「ああ、そうか。一番良い嫌がらせを思いついたよ」


 ニヤニヤという笑い声が降りかかるが、理解できる言葉として耳に届かない。

「そっちの二人はもう壊れちゃったから君で試すかな。僕だって吸血鬼だ。できないわけがないもんね。貰うばかりじゃ申し訳ない」


 目元を押さえつけられた。手足を拘束され、お腹を突かれた。その衝撃で息が漏れ、手足が痺れ、頭の中が真っ白になる。ああ、殺されるのか。心残りがあるとすれば、想いを告げなかったこと。結ばれなかったことよりもそれは大きい。


 死にたくない、と心から思う。


「僕が成功するとは限らないからね。君は保険だよ」


 何か、口の中に温かい、鉄錆の臭いのする液体が入ってきた。

 それが血だ、ということに気付けないほどの混乱の中、彩葉はゆっくりと意識が遠のいた……。

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