第10話『榊坂家の非日常 その四』

 荘司が感情と時間を取り戻したのは悲鳴が聞こえたからだった。


 ゆっくりと入り口を振り返ると、そこにいたのは夕音子の姿だった。

「そ、荘ちゃん……荘ちゃん!?」

 姉は真っ青な顔でブルブルと震えている。

 入り口で立ち竦み、もう泣きそうどころか貧血でぶっ倒れそうだった。


 当然だ、人が死んでいるのだから。


 首なし死体に鮮血の海――まるで、地獄のような光景が広がっているのだ。

 自宅だからこそそれは異様な光景になっているはずだ。


 真一が言う。

「大丈夫だ、夕音子。荘司に大きなケガはない」

 その言葉で夕音子はボロボロと涙を流しながら駆け寄り、その勢いのまま荘司にしがみついてきた。

「荘ちゃん、本当? 大丈夫?」

「あ、うん。ちょっと頭を打ったくらいで」

「本当に!?」慌てて頭を撫で回し、ついでに全身をペタペタと触診し「大丈夫そうね……良かった。良かったよ……」ボロボロと涙を流す。

「ちょ、姉さん、汚れちゃうから」

 荘司は引き離そうとするが、ものすごい力で抱きついたままで耳に届かないようだ。

 というか、死体が転がっている状態で、それに目もくれないというのはちょっとおかしくないだろうか?


 荘司がそんなことを呆然と考えていると、

「夕音子、荘司を頼む。ちょっと俺もヘマした。大丈夫だとは思うが、絶対に感染させるな」

 父のその言葉で姉の眼の色が変わった。


「荘ちゃん、血は飲んでないよね!?」


「え、えっと……?」

 夕音子の剣幕に慄きながらも舌で確認すると、すこしだけ錆鉄の味がした。

「多分、ちょっと口に入ったかもしれないけど――」

 大丈夫、まで言い切れなかった。


 いきなり、姉の唇で塞がれていたからだ。

 キスされていた。


 いや、それはキスなんて生温いものではなく、唇の中を蹂躙された。舌で奥歯や歯茎の裏、舌の裏側から唇の部分まで舐め回された。舌をしごかれ、口中を舐られた。それどころか、唾液まで啜られた。姉は官能的な雰囲気など微塵もなく、必死な様子だった。

 何か言い返そうにも口が塞がれていて、目を白黒させることしかできない。

 気持ち良いと感じる自分は最低というか、罪悪感さえ覚える。ごめんなさい、姉さん。


 真一がドン引きしながら言う。

「いや、夕音子さん、そんなにしなくても大丈夫だと思いますけど……」

 何故か敬語の父に、姉は啜った唾液を味見するように口の中で確かめた後、ペッとその場に吐き捨てる。そして、眦を決しながら叫ぶ。

「大丈夫、かな。うん。でも、万が一感染したらどうするのよ!? あああ、もう! 血だらけだし! 荘ちゃん、すぐに風呂へ入るよ!」

「う、うん?」

 荘司は手を引かれ、流されるがままその場を後にする。


 わけが分からないが、理由を訊けるような雰囲気ではなかった。

 一瞬だけ後ろを振り返り、転がった鈴木一郎の死体を目にする。

 当然だが、そこに今も転がっている。

 消えてなくなることなどない。

 つまり、現実だ。


 一体、何が起きているのだろうか?



 その後の話。

 荘司は文字通り風呂に叩きこまれた。

 同じく全裸になった姉が突撃してきて、

「ちょ、姉さん、そこは自分で洗えるから!」

「良いから! お姉ちゃんに任せなさい!」

「せめて、前隠して! お願いだから!」

「そんな場合じゃないの! ほら、お姉ちゃんだから問題ないよね! それに、荘ちゃん、すごく逞しいから恥ずかしがる必要ないし!」

「ちょ、マジで、そこは、お、お姉ちゃん……あぁぁぁ……」

 隈なく全身を磨き上げられた。

 もう本当にありとあらゆる箇所を丁寧なんてレベルを超えて、変質的なまでに洗われた。鈴木一郎に襲われた時以上の勢いだった。

 お婿に行けないと本気で思ったけど、よく考えると荘司が中学に入学するまで一緒に入浴していたことを思い出すと意外と普通かもしれない。でも、どことは言わないけど、姉は超成長していた。世界が狙える。立派です。ずっと般若心経を唱えていろいろ我慢するしかなかった。

 なお、剥ぎ取られた服は全てそのまま廃棄処分するらしい。


 ……本当に、一体、何が起きたのだろうか?



 風呂から上がって、着替えるといつの間にかたくさんの人が来ていた。

 誰一人無駄口を叩くことなく、黙々と作業に没頭している。

 警察だ、と荘司は思った。

 事情聴取大変なんだろうな、とも思った。

 しかし、それにしては妙だった。

 防護服というか、除染服みたいなものを着て、ひたすら掃除をしているだけに見えた。

 いや、鈴木一郎の肉体を回収しているところを見ると、掃除や現場検証というより、研究資料を採集している様子に近いのかもしれない。

「荘司、こっちに来い。夕音子もだ」

 そして、荘司たちは真一の私室へ呼ばれた。



 久しぶりに入る父の部屋は相変わらず汚かった。

 将棋の雑誌や本が片隅に積み上げられ、万年床は湿っぽい。

 脱ぎ捨てられた服が層をなし、何故か紙コップや酒瓶まで転がっていた。


 夕音子が頬を膨らませて言う。

「お父さんっ。もうちょっと片付けてくださいって私、いつも言ってますよねっ! また勝手に片付けちゃいますよ! 次は泣いても許しませんからね」

「う、うむ。まぁ、今はそれどころじゃないからな」

 普段であれば、もっと追求すべき場面かもしれないが、確かに真一の言葉通りそれどころではない。でも、泣いたという部分はちょっと気になる。エロ本でも見つけられたのか?


 父は咳払いをして話し始める。

「さて、真面目に話を始めるが、とりあえず、その辺に座ってくれ」

 最初の問題としてどこに座るか。

 姉と目を合わせ、適当にその辺のものをどける。

 こんな異常事態なのに、ゴキブリとか出てきたら嫌だな、と考える自分が滑稽だった。

 居住まいを正し、荘司は父に正対する。

 姉も寄り添うようにして荘司の傍らに正座した。

 真一はドッカリと胡座をかき、神妙な様子で口を開く。


「まず、大切なことは、だ。お前、彩葉ちゃんとチューしたことあるのか?」


 これが今、何の関係があるのか?

 荘司は深淵を覗き込むつもりで考えたが、皆目見当つかなかった。

 正直に答える。

「いや、ないけど」

「本当だな!? なら、さっきのは初チューか?」

「そうなるのかな。うん、そうなると思う」

 首肯すると、姉が顔を真っ赤にして、頬を両手で包みながら言う。

「あ、ああああ! お姉ちゃんもファーストキスだー! うわわわわぁ! ど、どうしよう、荘ちゃん! キャーッ!」

 照れているのか、喜んでいるのか。両方かもしれない。

 肩の辺りをバシンバシンと叩かれてもどうして良いか分からない。なんか荘司も照れくさくなるが、やはりそういう場合ではないだろう。というか、なんだ、コレ。


 父は苦渋の顔のまま「そうか……」呟く。

「そ、それが何か問題なのかよっ?」

「うむ……そういえば、さっき夕音子と二人で風呂にも入っていたな」

「ああ、そうだけど、それが?」

「どうだった?」

「どうだったって、全身を洗われたけど……」

「隅から隅まで? 足先から髪の一歩一本まで?」

「ああ、まぁ、一応」

 さすがに荘司も違和感を覚えてきた。

 カッと目を見開いた父は悔しそうに叫ぶ。

「姉弟でソーププレイかよ! うらやまけしからん! 背徳的過ぎるだろ、お前ら!」

「お前莫迦だろ! 状況を考えろ!」

「そうですよ、お父さん! 私と荘ちゃんは健全な関係です! 純粋な愛情で結ばれています! 背徳的なんて失礼です!」

「姉さんも何言ってるのさ!?」


 というか、絶対におかしい。

 人が死んだばかりなのに、こんなの絶対におかしい。


「父さん、真面目に話しようよ! 状況考えなよ!」

 なんか泣きそうになりながら荘司が言うと、真一はバツが悪そうに頭を掻く。

「いやぁ、スマンスマン。場を和ませようかと思ったんだが、失敗だったか」

「どう考えても大失敗だろ! もしかして、状況ってそんなに悪くないのか?」

「うむ。惜しいけど、ちょっと違う。最悪過ぎて、冗談でも言っておかないとやってられなくてな」


 違い過ぎだった。

 その言葉で荘司は天を仰ぐ。

 ああ――やはりそうだったか。


「そうか。仕方ないよな。相手は発砲してきたんだ。正当防衛が認められれば、すぐに出てこられるさ」

「荘司? 一体、何の話だ?」

「だから、父さん、刑務所に行くんだろ。安心しろって。姉さんと二人でこの家は守るから。うん、俺は父さんが悪くないことを知ってるからな」

 さて、まず、学校は中退すべきだろう。家計を支えるためにもバイトを始めなければならない。しかし、人殺しの息子ということで差別されないだろうか。マスコミ、うるさいかなぁ。彩葉に迷惑はかけたくないけど、あいつ、離れないだろうな。


 荘司がそんなことを考えていると、父は顔をしかめる。

「おいおい、荘司。そんなつまらない冗談なんてらしくないな。どうして、俺が刑務所に行くんだよ? まだ夕音子のパンツは盗んでないぞ」

「お前は十分最低だよ! というか、娘の下着ドロとかそんな話をしてんじゃねぇよ!」

「そうですよ、お父さん! 荘ちゃんならともかく、お父さんが私の下着を盗むとか許しませんからね!」

「俺は良いんだ!?」

 ビックリだよ! 話が進まないよ! もっと真面目にやれよ!

「そうじゃなくて、正当防衛とはいえ人を殺したんだぞ! 逮捕されるに決まってるだろ!」

 その言葉で、真一は笑った。

 快活な笑みというより、どこか力のない、諦めたような雰囲気だった。


「話さなければならないことは多いんだが、正直、あんまり教えたくないんだよな……そんな顔すんな。ちゃんと説明するから。とりあえず、まずは荘司の誤解を一つ訂正しておくぞ。俺は人を殺してない」

「はぁ? 父さん何言ってんだよ? 錯乱してんの?」


 そして、荘司は知る。

 その存在を。


「俺が殺したのは『吸血鬼』だよ」

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