第9話『榊坂家の非日常 その三』

 父の真一はあまりにも場違いな笑顔で、ニコニコと楽しそうだった。

 普段の練習の時よりも穏やかでさえあった。


 しかし、その笑顔に反して、父の手に握られた一振りの刀が異様だった。

 長曾禰虎徹――菊一文字則宗や昔家にあったという和泉守兼定に負けず劣らずの名刀である。

 もちろん、荘司は一目でその刀が虎徹であると理解したわけではない。

 刀の違いを一目で判別できるほどの目利きはないが、父の愛刀だったからそう判断しただけだ。

 虎徹にはある種の空気があった。

 人を斬る為の凶器。

 そして、それを操る為の狂気。

 父からは凶々しい気配が漂っており、笑顔はそれを押し隠そうとしているように見えた。


 真一は首をコキコキと鳴らしながら言う。

「あー、鈴木一郎さん。抵抗するな、とは言わないよ。うん、存分に抵抗してくれて構わない。許さないなんて言うつもりもないし、正々堂々とも言わない。殺意をもって殺しに来るべきだし、不意打ち大歓迎。寝ている時でも、飯を食っている時でも、排泄や自慰している時でも構わない。将棋の最中はちょっとむかっ腹立つけどな」

 あ、でも、負け将棋なら歓迎するぜ、と相変わらずニヤニヤと笑っている。

 父の刀は腰溜めの位置で、抜き放とうとばかりに鯉口は切られている。

 ゆったりとした足取りで間合いを詰める様子は隙だらけにさえ見えた。


 それに対して鈴木一郎は、


「くはっ」


 口の端から漏れ出す吐息。

「かは、ふはははははっ」

 笑っていた。

 狂気を隠しもせず、殺意を滲ませ哄笑していた。

 もう抑えきれないとばかりに爛々と光る目を吊り上げ、鈴木一郎も腰を落とし警戒態勢に入った。そして、懐から拳銃を取り出し、両手で構える。

 既に引き金に指はかかっていた。


 そんな武器用意していたのかよ、と荘司は思う。

 どれだけ俺が舐められていたのか……荘司は悔しさと焦燥感に襲われる。

「に……げ……ろ……」

「ああ、荘司。心配してくれるのは嬉しいが、正直、お前が素直だと気持ち悪いな」

 ――そんな場合じゃないだろ。バカじゃないのか。

 荘司の言葉にならない声を聞き取ったのか、父は笑う。

「そうそう、それくらいの悪態の方がお前には似合うな。よく頑張ったな。偉いぞ」


 その刹那、いきなり大きく父が仰け反った。


 何が起きたのか荘司は全く理解できなかったが、よく見ると服に穴が開いていた。

 鈴木一郎が音もなく発砲していたのだ。

 銃のことなんて全く知らないが、消音装置(サプレッサー)ってこんなに静かなのか、と信じられないほどの無音だった。撃鉄が落ちる音さえなかった。

 当然の話だが、攻撃の手はその一度ではなかった。

 鈴木一郎の引き金を引く姿に合わせて、真一は奇妙なダンスを踊る。手が跳ね、肩が回り、膝が崩れる。


 そして、父はその場に転がっていた。


 が、倒れているのに、無音の銃撃で体が跳ねる。

 その執拗さは凶気じみていた。

 そして、全弾撃ち尽くしたのか、拳銃を地面に投げ捨てた鈴木一郎はつまらなさそうに言う。


「余裕見せてんじゃねぇよ、糞野郎」


 それはたった今、人を撃った人間の態度ではなかった。

 せいぜい、虫を踏み潰した程度の様子で、それまでの高揚が嘘のように醒めきっていた。

 父は倒れたまま動かない。

 荘司は叫ぶ。


「と、さん……っ!」

「おおよ、どうした」

 ――のんきな返事が返ってきた。

「え?」と、いう呟きは荘司のものか、鈴木一郎のものか。


 ムクリと起き上がった父は平静な顔で言った。

「痛くないわけじゃねぇけど、九ミリ拳銃程度じゃ俺は殺せねぇよ」

 呆然としている荘司たちの前で、父は続ける。

「その銃、どこからパクって来たんだよ? 警察か? 自衛隊か? って、ああ、そうだよ。本当は分かってるよ。一三信金だろ? 多分、正規の手順で供出されたんだろ。糞が。一応聞いただけだよ。何が起きているかは分かってんだよ。言っておくけどな、撃たれて痛くねぇわけじゃないからな。そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔してんじゃねぇっての。豆鉄砲食らったのは俺だけどな」

「と、さん……どうして……?」

「ああ、荘司、無理して喋る必要はない。本当に申し訳ないよ、鈴木一郎くん。君にだって幸せに生きる権利はあったはずなんだよ。でも、それがこんな事態になって本当に申し訳ない。君の殺意は本物だし、謝ることばかりだよ」


 真一は息子の言葉を相手せず、ブツブツと独りごちている。

 それは鈴木一郎に対してというより、内省しているようにも見えた。


「それにしても、音を殺す能力とはね。音無し流かよ。暗殺向きなのに、調整ミスって真正面から来るとは。あー、腹が立つ。そんなに俺に嫌がらせしたいのかよ。なら、徹底しろってんだ。俺がどういう能力持っているかくらい教えてやれっての」

 父は怒っているようだったが、何に対して怒っているのか荘司にも見当つかなかった。


 鈴木一郎は愕然としたように言う。

「お前、どうして……」

「あぁん? お前が音無し流だとしたら、俺は鉄板流なんだよ」


 その次の瞬間、光が奔った。


 それが刀の斬光であることを、椿の花のように落ちた鈴木一郎の首で荘司は理解する。

 一瞬の早業過ぎて、現実離れしていた。

 父の鞘からの抜き打ちで、鈴木一郎の首を斬ったのだ。

 真一は手を緩めず、流れる動作で鈴木一郎の心臓に刃を突き立てた。

 首根っこから血が吹き出、地面に転がっていた荘司もシャワーのように血を浴びる。気持ちの悪い生暖かさに生理的な嫌悪感が湧き上がってきた。思わずえづくが胃酸の酸っぱさが口中に広がるだけだった。

 生者にとって死者は畏れを抱かせるようだ。


 そして、力を失った鈴木一郎がドサッとその場に崩折れる。

 分離し、転がった首が声にならない声で一言だけ。

「……のろ……われ……ろ……」

 呪われろ――呪詛一つを残して、もう痙攣もしなくなった。

 断末魔の表情は鬼のようだ。

 血がゆっくりと道場の床に広がっている。

 どうやったのか分からないが、父さんは上手く避け血をほとんど浴びていないようだ。

 それも非現実的だった。

 いや、もっと非現実的なのは転がった首と胴体。


 今、自宅で、人が死んだ。

 鈴木一郎は、死んだ。

 父が殺したのだ。


 生暖かい血に噎せながら、その事実に荘司は心を凍らせていた。

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