第8話『榊坂家の非日常 その二』
空転していた荘司の思考が回り始める。
ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、この状況は危険だ!
未だに詳しい状況なんて把握できていないが、自分の身に降りかかりつつある災難は理解できた。
とにかく後ろへ飛び退り、わずかばかりでも男との距離を開く。
鈴木一郎は動かなかった――いや、動いた気配はなかったが正確な表現か。すくなくとも荘司は感じ取れなかった。
しかし、事実は荘司が飛び下がるより速く間合いを詰められ、ガシッと顔面を鷲掴みにされていた。
頭蓋が割れるかと思うほどの握力で締めつけられる。頭蓋よりも首が折れそうだ。痛みと同時に焦燥と呼吸不全に襲われる。苦しい。痛い。
「おいおい、逃げるなよ。客人をもてなせよ」
口調も変わっていたのに、鈴木一郎の表情が変わらない。
ニコニコとした笑顔で腰の低い時と変わらないままだった。
しかし、その表情の温度が違う。
こちらを嘲笑っている気配は、アリの巣に水を流し込む幼児の残虐性に似ていた。
「は、が、ぐぐぐ」
荘司は万力のように締めつけられる痛みに堪えながら、全力で手首を握り潰そうとするが、全く外れない。リンゴを握り潰せる荘司の握力は八〇キロを超えているのに緩まない。
「おお、かなり鍛えているじゃないか。まぁ、知っていたけどね。話に聞いていたし、そもそも、試させて貰ったしね」
……試した? 何のことだ?
「ほら、野球のボールをぶつけてやろうってね。見事な動きだったよ」
学校のあの時から見張っていたのかよ!
そう荘司は口にも出せず、ただ為されるがまま道場に引き摺られた。
鍛えてなければ首の骨が折れていたのではないか、という乱雑さに恐怖心が生まれる。幼児が玩具のロボットを振り回す手加減抜きの動作だった。混乱と痛みと抵抗を一瞬で冷却するほどの圧倒的恐怖。漏らさないのが不思議なほどだったが、無理やり押し殺す。
怯えていたら本気で殺されかねない!
そんな場合ではない。父の教えだ、感情を飼い慣らせ。指先と足先に力を込め、熱を蓄える。大丈夫。行ける。今は耐える時だ。念仏のように唱える。
そして、荘司は人大の紙切れでも投げ飛ばすように軽々と放り捨てられた。
頚椎がねじ切れそうな衝撃を味わいながら地面を転がり、荘司は悟る。
これは、人間の、膂力ではない。
荘司はあえて転がりながら、道場の隅に片付けられていた木刀の傍にまで辿り着き、跳ね起きながらそれを掴み取った。
鈴木一郎はニコニコと笑ったまま、警戒もしなかった。
「良い動きだね」
荘司は木刀を正眼に構えながら、どこか痛めていないか確認する。大丈夫、まだ大きなケガはないようだ。普段の鍛錬に感謝する。
荒い息と震える手や足元が頼りないことを除けば、戦える。と信じる。
頭痛が伴うほどの拍動を深呼吸で整える。
一回、二回、三回……よし、いけそうだ。
理性的になれ。
鈴木一郎は冷酷な瞳でこちらの様子を観察しながら、パチパチと拍手する。
「それにしても荘司くんはタフだね。首が折れても構わないって思いながら投げ飛ばしたのだけど」
「……毎日牛乳飲んでるんで」
「ハハッ、やっぱり、榊坂は大したものだね。今の状況でそれだけ軽口を叩けるなんて称賛に値するよ。うん、感心した。やっぱり、あの人の息子だね」
どんな会話だよ、と荘司は思う。
遊ばれているのは重々承知だが、何者なのか。人一倍鍛えている荘司から見ても、化け物としか思えない腕力だった。同じ人間とはとても思えない。
「しかし、そんな木刀で僕と本気で戦うつもりかい? もうちょっと武器は選んだ方が良いよ」
他に何があるというのか。
素振り用の鉄棒だと取り扱いも難しいが、そもそも、殺してしまうかもしれない。
――いや、と荘司は考え直す。
それは当然じゃないか。鈴木一郎の言葉を思い出せ。最初からこちらを殺すと言っていたではないか。
これは殺し合いなのだ。
しかし、こんな非日常にいきなり直面させられて、そんな覚悟を持てという方が無茶だろう。トレーニングを積んでいても、殺し合いに備えているわけではないのだから使いやすく躊躇いなく扱える武器(木刀)のほうが役立つだろう。
落ち着いて荘司は彼我の戦力差を考えてみた。
相手は人間離れした超スピードと超腕力の持ち主であり、こちらはちょっと鍛えている高校生――おいおい、マジか。笑えるほどに絶望的じゃないか。
一挙手一投足を見逃さないよう注視していると、それだけで息が荒くなる。考えるにつれ泥沼化し、疲労が蓄積する。
それは父と対峙している時と同種の感覚だった。
しかし、一つ不思議だったのは鈴木一郎の所作に達人の気配がなかったことだった。
端的に言うと、無駄が多いのだ。
例えば、移動の際に肩が上下動している。
剣先で牽制しても急所を庇おうとする様子が見えない。
そもそも、身に纏う気配が練達の時間を感じさせなかった。
似ているとしたら、野生の獣だろうか?
ただ、生きているだけでこちらを圧倒するポテンシャル。マウンテンゴリラとレスリングしたがる人間はいないのと同じようなもの。
理不尽だ。
ここで荘司が選べる手段は多くない。
唯一の逃げ道である出入り口には鈴木一郎が立ち塞がり、相手の方が身体能力も高い。つまり、正々堂々逃げることはできそうもない。父さんが来たとして、二人で力を合わせれば……いや、その前に殺されかねない。
理不尽だ。
荘司は一度唾を飲み込んでから言う。
「お前、一体、何者だよ!」
「時間稼ぎの会話だったら、君を存分に甚振って拘束した後に楽しみたいね」
時間稼ぎにいきなり失敗した。
むしろ、逆鱗に触れたのか、鈴木一郎は音もなく間合いを詰め始めた。
とりあえず、一つ分かったことがある。
こいつの目的は復讐だ。
怨恨が原因なのは、嗜虐的な笑みが物語っている。
荘司も無意識のうちに恨まれている可能性が皆無というわけではないが、恐らくは父のせいだろう。
助かった後に文句を言ってやろうなんて考えは来年の予定を話すようなもので、目の前に立ち塞がって笑う鬼をどうすべきか。いや、こんなことを考えている場合ではないのだ。集中しろ!
感情と同じように無駄な思考を切り捨てた。
鈴木一郎の不自然なまでに速い飛び込み。荘司は迎撃として、右の貫手に対して手首に木刀を当て、その軌道を逸らそうとするが、いきなり失敗した。
かなり強く打ったはずなのに、鈴木一郎は物ともしない。
貫手の狙いはこちらの左肩。半身になって紙一重の距離で避けた。ギリギリまで引きつけたわけではなく、その距離でしか避けられなかったのだ。
カウンターで下腹に蹴りを入れる。
相手の体勢を崩すためではなく、こちらが間合いを外すためだ。
だから、こちらの打点は踵ではなく、拇指球。前蹴りではない。相手が壁のようなものなので、遠慮なく三角跳びさせてもらう。
問題だったのは鈴木一郎が本当に全く体勢を崩さなかったこと。
蹴った時の感触がゴムタイヤのようだったのだ。
確かに彼は長身であり、見た目より重いのかもしれない。
しかし、身長一七二センチに体重八一キロある荘司だって別に軽量級ではない。見た目より十キロは重いと言われるのだ。それなりに体力には自信がある。
低空のジャンプで距離を取ってから、気息を整える。
荘司はブルブルと手が震えていた。恐怖ではなく、疲労のせいだ、多分。あれ、これはどちらが不味いのか?
鈴木一郎はほぉっと感嘆の息を漏らした。
「大したものだね。よくもまぁ僕の一撃をあんな簡単に避けたものだよ」
称賛に値するよ、なんて言われても嬉しくないし、パチパチと拍手を送られても腹が立つだけだ。
さっきから頻繁に荘司を褒めるのは、基本的にも応用的にも見下されているからだ。絶対に挑発行為だろ。強者がする駆け引きは周到か姑息か侮蔑か……どちらにせよ迷惑である。そもそも、杜撰なのだ。
荘司として納得できないことがあった。
どうしてこんなにも鈴木一郎は速いのか?
身体能力が人間離れしているのは認める。
しかし、速いだけであれば、こうも後手に回るだろうか? 単純に無駄が多い動きで、先読みさえすれば一矢報いることができそうなのだが……分からない。
「お前、何者だよ。俺たちに何の恨みがあるんだよ!?」
「一つ答えよう。君のことはどうでも良い。ただ、榊坂真一に対する嫌がらせだね」
やっぱりかよ。ふざけんなよ。親の因果が子に報いかよ。
「あとは、人質としての価値もあるかな」
やはり一人で切り抜けるしかないようだ。さて、どうすべきか。
迷っていては勝てるものも勝てなくなる。
決断力とは捨てること。他の可能性を捨てる。逃亡、時間稼ぎ、どんどん可能性を限定し、排除する。
父が帰ってきてくれるという希望さえ捨てた。
荘司は決断の一手を踏み込みという形で表す。
「っしぃ!」
大上段に振りかぶって、木刀を脳天めがけて振り下ろした。
鈴木一郎は拳で真っ向から迎え撃つ。
予想通りに。
強いから――こちらの攻撃なんて通用するわけないと思っているから、避けることはないと踏んでいた。
荘司は拳と木刀が接触する瞬間、木刀を掴んでいた手を離す。
虚を突かれたのか、鈴木一郎の動きが僅かに停まった。
その隙を逃さず、踏み込みの体勢から膝を抜き、上体を低くして鈴木一郎の右足にタックルする。
ラグビーやアメリカンフットボールのタックルのように脇を締め、肩ではなく右胸の前面のポイントに鈴木一郎の右膝の内側を当て、刈り取った。
「うおっ!?」
さすがの鈴木一郎も短い悲鳴と共に転倒する。
荘司はそのまま自分が回転して膝の関節を破壊すべきか、一瞬だけ迷った。
しかし、最初の決断を信じ、即座に鈴木一郎の背後へまわり首を締める。
鈴木一郎の首に右腕を回し、左上腕部を掴み、左手は後頭部を押して締めた。
完璧に決まった。
裸絞(バックチョーク)だ。
この体勢から逃れられる術はない。
このまま絞め落とすため、全力で力を込める。
しかし、
「え……?」
鈴木一郎は何の苦もなく立ち上がっていた。
荘司はまるで大人におんぶされている子供のようにしがみつくばかりだった。いや、確かに絞めているのに! 頸動脈を極めているのに!
「それは悪手だね」
次の瞬間、天井が見え、壁が見えた。
それが、まさか、鈴木一郎が物凄い勢いでブリッジの体勢に移行していたなんて、そんな事態を把握しろという方が無茶だろう。
「ぐがっ!?」
音もなく衝撃だけが後頭部に叩きこまれた。
失神していたのはほんの一瞬だったと思う。
加速距離もなく、バックドロップなんて言葉が相応しいほどの高さもない。
ただ、背後に倒れ込んだだけにしてはありえないほどの衝撃であったが、受け身を取れなかったことの方が問題だった。
荘司の頭の中で早鐘を打っているような音がする。
視界がグルングルンと回り、視線が定まらない。吐き気に頭痛。手が痺れて、力が入らない。叱咤して体を動かそうとするが、まるで海の底に沈められたように重く、纏わりつかれている。
鈴木一郎が立ち上がりながら服の埃を払い、荘司を見下ろして言う。
「素晴らしいね。さすがは榊坂家の嫡男。上と見せかけて下、その本命の為の戦術眼は子供とは思えない。武器を自分から捨てるって難しいのだよ。でも、絞め落とそうとしたのは失敗だったね」
いや、褒めるべきは決断力かな、と鈴木一郎は言う。
耳鳴りもしている荘司は完璧に聞き取れたわけではなかったが、褒めていることは分かった。しかし、それは死体に鞭を打つようなものであり、完全敗北という辛酸を嘗めさせられる。悔しさか、恐怖か分からないが、涙が溢れる。言葉が出ない。
これから、自分はどうなるのか?
鈴木一郎は笑う。
「安心しなって。指くらいは潰すつもりだけど、まだ殺す気はないから」
立ち上がれ。抵抗しろ。まだ足掻けるだろ。死にたいのか。
無力感に支配されているわけでも、諦めたわけでもないが、脳震盪を起こした荘司の体は自由がきかない。
ただ迫り来るその死を覚悟した。
次の瞬間、ドバンと大きな音を立てて扉が開いた。
足で蹴り開けたのだろう、不自然な片足立ちでそこにいたのは父だった。
荘司の涙で滲んだ視界に、真一の姿は拝みたくなるほどの頼もしさで映った。
ニッコリと笑う父は呑気な声音で言う。
「おお、荘司、生きているか。良かった良かった」
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