第7話『榊坂家の非日常 その一』
その男性は二十歳過ぎに見えた。
長身痩躯の美男子で、話し振りも柔らかで紳士的である。
仕立ての良いスーツを着て、縁の太い眼鏡をかけている様子は、やり手の銀行員といった風情だった。
健康的で若そうに見えているだけで、実際は結構年を食っているのかもしれない。
貫禄というか、不思議な雰囲気があった。オールバックのおかげか? それにしても、コートなしで寒くはないのか?
荘司は頭を掻きながら、応対する。
「えっと、すみません。今、父は外に出ていていないんですけど、ご用件は?」
「ああ、ワタクシ、鈴木というものです」
「鈴木さん、ですか?」
「はい、鈴木一郎と申します」
野球選手と同じ鈴木一郎です、と名刺を差し出しながら言った。
荘司は名刺をもらうなんて初めての経験で軽く浮足立つが、「どうも」と頭を下げてから常識的な判断を下す。
「あ、急ぎの用だったら電話で呼び戻しますけど」
「いえいえ、ワタクシ、昔、あなたのお父様にはお世話になりまして、ちょっと近くに寄ったからご挨拶させてもらえたらな、と。ご迷惑でなければ、すこしこの場で待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
全く警戒しなかったと言えば嘘になる。
しかし、身なりは良いし、物腰も柔らかい。
それに冬のこんな寒い時に外へ放り出したままというのはさすがに荘司も可哀想だな、と感じた。
「えっと、なら、上がってくださいよ」
「いえ、そんなお構いなく」
「本当に構えませんから。今、俺しかいなくて、お茶とか出せませんけど、それで良ければどうぞ」
「……そうですか、ありがとうございます」
家に上がってもらい、荘司はどうしようと思う。
さて、これで練習ができなくなった。
まぁ、頃合いを見計らって父を呼び戻せばノルマはこなせるだろう。
が、鈴木一郎は荘司の道着姿を見て言う。
「あの、もしかして、今練習されていたのでは?」
「ああ、はい、まぁ」
「荘司くんもやはりお父さんと同じように剣道を練習しているんですか」
あれ? と荘司はそこで違和感を覚える。
「俺、名乗りましたっけ」
「いえ、ご家族から聞いたことがあるだけですよ」
「? そうですか」
やはり違和感はあったが、その正体が分からなかった。気のせいか。
「ええ、練習中でしたけど、別に良いですよ。すぐに父さん呼び戻しますから」
「あ、それでしたら、練習を見学させてもらってよろしいですか」
荘司は考えた。そうして貰えたら、一石二鳥かもしれない。すぐに姉が帰ってくるだろうし、その間くらいは良いだろう。
「でも、道場って結構冷えますよ。板間だし、暖房とかないですし」
「結構です。ワタクシも今、どんな練習をされているのか興味がありますから」
「あ、もしかして、うちの父の元教え子とかなんですか、鈴木さんって」
「ええ、そんな感じです。とてもお世話になりましたよ」
それなら構わないか、と荘司は先導して鈴木一郎を道場へ通す。
しかし、やはり戻ってみると骨の芯から凍える寒さだった。
これは荘司の汗が引いただけではなく、道場の構造的欠陥だと思う。しかも、何故か夏は超暑いのだ。
「あ、俺、ちょっと座布団取ってきますから」
「いえいえ、そんなに気を遣わないでください」
「いえ、気を遣いたくないんで。寒いとやっぱり申し訳ないじゃないですか」
そう言うと、鈴木一郎はニッコリと笑い「では、お願いします」と言った。
どうせ、父さんに連絡しなきゃな、と思っていたので、座布団を持って戻る前に父の携帯に家電からかけることにした。
父はワンコールで電話に出てくれた。
『もしもしぃ、夕音子ちゃんの大好きなパパですよ~!』
即座に叩き切らなかったのは我ながら理性半端ないと思う。ああ、この感情が殺意なのか。情操教育上手だなぁ。反面教師的な意味で。
「おい、父さん」
『なんだ……荘司か。練習してろよ』
落胆の声を隠しもしない父は紛れもない荘司の血元という感じがする。心の底から認めたくないが、気持ちは分かるだけに腹が立つ。
「姉さんはまだ買い物だよ。それよりもしかして父さん、姉さんからの電話だったら、いつもそう出てるのかよ?」
『当然だろ。お前だって夕音子ちゃんから電話が来たら、そうなるだろうが』
確かにテンションは超上がるが、死ぬほど一緒にされたくない。
「いや、そんなことよりも父さん、今どこにいるんだよ」
『普通に外だが』
耳を澄ますと、笑い声めいたがやがやとした音。木を叩くような乾いた音。
「まーた、将棋道場かよ」
歩いて十五分の距離に将棋道場があって、父はそこの常連だった。
『まぁな。ちょっと釜田さんに誘われて』
彩葉の父も将棋仲間なのだ。
どっちが先に誘ったのか知らないが、連れ立って足を運んでは彩葉の母親に仕事をサボるなと一緒に怒られている。
ちなみに、二人の戦績はほぼ五分らしい。
父に聞けば、父が。彩葉のお父さんに聞けば、彩葉のお父さんが勝ち越していると発言しているから間違いない。どちらもそれほど強くないが、同じくらい将棋好きである。
「まぁ、釜田さんは一時間くらい前に奥さんに怒られて帰っちゃったんだけどな」
独身最高っ! と真一が電話口でゲラゲラ笑いながら叫んでいるようだ。
ギャハハハと下品な笑い声も追随し、それだけで煙草臭と加齢臭がしそうな気配が感じ取れる。
荘司は若干、あの将棋道場の空気が苦手だ。
姉はセクハラされるし、彩葉との関係を邪推される。なお、怒りの割合は九対一。
夕音子が自ら反撃に出なかったら、血の雨で道場が閉鎖されるところだった。平和な未来的な意味で危なかった。
真一は笑いが収まったのか、改めて言う。
『それで荘司、どうしたよ。そんなにパパが恋しくなったのか? ん? んん?』
「ウゼェ、アンタに客が来てんだよ。早く帰って来い」
『客? 俺に? 誰だ?』
「ああ、えっと、名刺貰ったんだよ。一三信金の鈴木一郎さんって――」
ガタンと大きな物音が返ってきた。
なんだ?
椅子を蹴倒したのか?
「? 父さん? どうしたよ」
『いいか、荘司よく聞け』
声の温度が一気に低くなった。
それは道場での稽古中の父の声だった。
『今すぐその場から逃げろ。全力でだ。理由は後で説明する。質問はなしだ。分かったな? こっちに向かえ』
父がそういう声の時は『本当に真剣な場合』なので、荘司としてはその指示に問答無用で従おうと思った。
よく分からないが、分からなくても行動することはできる。
が、それはできなかった。
いつの間にか、受話器が手の内から消えていたからだ。
何が起きたのか理解できず、荘司は白痴のような動きでノロノロと顔を上げた。
目が、合った。
冷たい目だった。
いや、目だけが氷点下だった。
音もなく、鈴木一郎が荘司の傍に立っていた。
吐息がかかるほどの距離で、肩をポンと優しく叩かれた。
そして、その手中に受話器が握られている。
奪い取られたのだ――と理解するまでたっぷり二秒はかかった。
……いつの間に、というか、あまりにも意味不明で思考が停止している。
荘司は微動だにしない。できない。
父の反応も含め、どんな事態に巻き込まれているのか想像の埒外だった。
ニッコリと笑い、鈴木一郎は受話器に向かって一方的に宣言する。
「さぁ、榊坂真一。君の息子と遊んでいるから早く帰って来なよ」
そして、
「早くしないと――殺しちゃうよ?」
と、相変わらず平然とした口調のまま、あまりにも酷薄な様子で呟いた。
俯いた時、西日の影響で表情が翳る。
だから、どんな顔をしての発言か分からなかった。
「え?」という荘司の呟きをどう思ったのか、鈴木一郎は平然と告げる。
「ねぇ、荘司くんも死にたくないよね?」
あまりにもふざけた質問だったが、それが本気である、と停まった思考の荘司にも直感的に理解できた。
逆光で顔が見えない様子は幽鬼のようであった。
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