第3話『榊坂家の日常 その二』

 朝稽古の片付けの最中、ニコニコとした笑顔が荘司の昂(たかぶ)っていた心を溶かしてくれた。

「荘ちゃん、お疲れ様」

「うん、姉さん。ありがと」

 制服にエプロンをつけた姉に荘司は礼を言った。


 彼女――榊坂夕音子(ゆねこ)は荘司の姉であり、父子家庭の榊坂家のお母さん役として頑張ってくれている。

 同じ高校に通っていて三年生の十七歳。来年度からすぐ近くの看護学生として進学も決まっている。

 もうすこしで誕生日であり、プレゼントは何にしようか荘司は悩んでいる。

 姉の容姿は弟のひいき目なしに超美人である。

 艶(つや)やかな髪は肩口で整えられ、いつも陽だまりの猫のような微笑を浮かべている。

 大人びた容姿のおっとり系。若干天然さんであるが、姉の悪口を聞いたことなど一度もない。

 告白とかされているらしいけど、家事が大変だからと断ってくれている。

 弟としては申し訳なさもあるが、安心もする。変な男に騙されるようなことだけは絶対にあって欲しくない。

 血が繋がっていることが惜しいほどに完璧な女性である。結婚したい。


 姉がタオルを差し出してきたので、荘司が受け取ろうとすると、

「お姉ちゃんが拭いてあげるね」

 抱きしめられた。

 その豊満な胸に顔が埋まる。

 良い匂いと柔らかい感触で荘司は顔が赤くなる。

「ちょ、姉さん、汚れるってばっ」

「はいはい、エプロンしているから大丈夫よ。それより動かないの」

 夕音子にゴシゴシと頭を抱えこまれて拭かれた。

 何というか、その、すごく照れる。


「いや、どうせシャワー浴びるからさ」

「うん、でも、まだ練習するんでしょ? 寒いんだから汗冷えないようにしないと」

 そして、

「強く打たれたね。大丈夫?」

 ヨシヨシと撫でられた。

「痛いの痛いの飛んで行けー」

「ちょ、姉さん! 恥ずかしいから。俺、もう十六歳だからね」

 そんなことを言いつつも荘司は抵抗できないし、自分から離れられない。


「えー。荘ちゃん。小さい頃はお父さんに竹刀で叩かれたら、いーっつも『痛いの痛いの飛んで行けしてぇ』って泣きながら姉さんに抱きついてきたのにー。お姉ちゃんさーびーしーいー」

 ブーブーと夕音子に不満そうに訴えられた。超恥ずかしい。

「いや、そうだけど……」

「それとも、荘ちゃんはお姉ちゃんに痛いの痛いの飛んで行けーってされるの嫌なの?」

「嫌じゃないけどさ……」

「じゃあ、良いでしょ?」

「……うん」

 荘司は夕音子にされるがままに任せた。

 実際、タオル越しとはいえ、姉の柔らかな手の感触は安らげる。超気持ち良い。

 荘司は自覚症状のある重度のシスコンだから、拒むことも反発することもできるわけがないのだ。


 その時だった。

 何か重いものがドサッと崩れる音が道場に響く。

 チラッと荘司が視線を向けると、道場の中央に父が倒れていた。

 伸ばした手指がピクピクと苦しそうに痙攣している。


「「…………」」


 姉と目を合わせて、荘司はため息を吐く。

 夕音子は冷静にやんわりと言う。

「お父さん、そんなとこで寝ていると風邪ひきますよ?」

 返ってきたのは「う、ぐ、ぐ、ぐ……」呻き声だった。

 真一の手はワナワナと苦しそうに虚空をさまよわせている。


 夕音子は一言告げたことで義務は果たしたとばかりに、ニッコリと荘司に笑いかける。

「それじゃ、荘ちゃん、もうちょっと練習するよね。お姉ちゃん、朝食の用意をしておくから七時までにはシャワーも済ませてね?」

「うん、分かったよ。いつもありがとうね、姉さん」


 榊坂家の朝は早い。

 まだ三十分は練習ができるので、道場の倉庫に片付けている特注の鉄棒を取ってこようとした時、真一が跳ね起きた。

「おい! 尊敬すべき父を心配しろよ!」

 荘司は半眼を向け、優しく簡潔に告げる。

「無理。死ねば」

「おぉぉぉぉぃいっ! 荘司! お前は冷たいぞ! 夕音子はそんなことないよな? ってもういないし!?」

 姉は早々に道場を退散していた。

 荘司も気付かないほどの迅速さで、ほんのすこしだけ父に同情する。


 荘司は絶叫する父に分かりやすくため息で呆れを知らせる。

「あのな、俺と姉さんが仲良くしているからって嫉妬するような人間、どう尊敬するのさ。心配しろって方が無理だろ」

「嫉妬だと! 違うぞ! 俺は息子が娘のオッパイに顔を埋めていることが羨ましかっただけだ! お前ら仲良すぎ! 近親相姦は許さんぞ!」

「お前マジで死ねよ」

「父さんにお前とか死ねとか言う息子なんて死ね!」


 その叫びを聞き咎めたのか、台所の方から姉の怒気を孕(はら)んだ鋭い言葉が返ってきた。

「お父さん! 荘ちゃんに酷いこと言ったら食事抜きですよ!」

 夕音子も自覚症状があるどころか、公言しているどころか、自慢しまくるレベルのハイエンドなブラコンなので、ひいきが酷かった。


「そ、それなら、外で食べるから問題なし!」

「じゃあ、料理は用意して味をもっと濃くしますからね!」

 用意したのに食べない。

 抗議としては妥当かもしれないが、間違いなく夕音子に嫌われる。

 そして、味付けを好みから外すという脅しは効果てきめんなようだった。


「……はい、スミマセン。いつも通りお願いします……」

 やり込められた真一はシュンと小さくなった。

 味覚過敏なのか、父の料理はかなり薄味に作られている。つまり、心臓を握られているに等しかった。食卓を守っている姉に逆らえる人間はいない。


 最強は姉だったかー、と荘司は脳内順位の最終稿を完成させておく。

 それにしても、駆け引きの上手さはさすがである。真の戦巧者はこうやって弱点を突くらしい。勉強になる。


 真一から先程までの威厳(いげん)というか、荒々しい空気は微塵(みじん)も感じられない。

 むしろ、体育座りをして拗(す)ねている姿なんて二人も大きな子供がいるとは信じられないほど、その、言葉を選んで言うと、みっともなかった。

 だが、腕が立ち、荘司が知る限り最強剣士なのだから質も悪く、だからこそ、腹が立つ。


「もう邪魔だからどっか行けよ」

 荘司はその怒気を糧に練習のモチベーションに繋げる。

「はいはい。お前は良いよなぁ。優しくて美人の姉ちゃんがいて」

 父は一人っ子だったらしい。

 優しいお姉さんが欲しかったせいか亡き母も年上女性だった。

 写真も残っていないのだが、今の夕音子はその面影を濃く受け取っているという。

 しかし、姉萌えの遺伝子が息子にも受け継がれていることは、そのDNAの強さに驚かされる。

 妄執(もうしゅう)も受け継がれるらしいが、ひたすらにどうでも良い。


「うるせぇよ。父さんがどんな性癖でも勝手だけど、練習続けるからどっか行けってば」

「ちぇ。冷たい奴……俺に勝てないくせに……」

「うっせぇ!」

「努力が足りないんだよ、努力が……軽口です! 夕音子さん! 冗談ですから塩をそんなに入れないで! うぅぅ、血税払っているのも俺なのに……何、この扱い……」

 姉が何かしたのか、父はブツブツ言いながら出て行った。

 あんなちゃらんぽらんなのに、練習中は鬼なのだからその切り替えの良さは異常である。別人格を疑うほどだ。


 見習うべきところは見習い思考を切り替え、荘司は特注の鉄棒を掴んで道場の中央に立った。

 長さは普通の竹刀の一・五倍。重さは約五キロ。

 荘司はこの鉄棒を五秒かけて大きく振り上げ、五秒かけて振り下ろす。

 これだけ寒いのに、わずか数回で一気に汗が吹き出るほどハードだが、細く深く呼吸しながら続ける。

 以前は数回振るだけでも握力がなくなるほどだったが、今ではかなり慣れた。

 筋力が発達したこともあるが、単純に成長しただけかもしれない。


 刃筋を意識し、これが現実の刀だと想像する。

 その明確なイメージは昔振ったことがあるので、難しくはない。


 現在、榊坂家には二振りの刀がある。

 一振りは『長曾禰虎徹(ながそねのこてつ)』。

 もう一振りが『菊一文字則宗(きくいちもんじのりむね)』。

 どちらも名刀であり、父の子供の頃にはもう一本あったらしい。

『和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)』という刀だが、昔、盗まれたという。

 それなりの値段だろうが、それよりも我が家から盗みを働くとは大した度胸のある泥棒だと思う。

 現在、残された二振りの名刀は真一の寝室に隠してあって、その場所を荘司は知らない。

 いつかそれらの刀を振るう機会があるかどうかは分からない。

 竹刀を使用した練習ばかりで、居合とか全くしたことないのだけれど、いつでも扱えるように鍛錬をしていた。

 剣道の終着点は真剣を用いるという信仰から、理由もなくただ強くなりたくて。


 これ以上の努力は体を壊しかねないギリギリのラインを追求した一日平均八時間の鍛錬。一年のうち、休みは数日という染みつくほどに植えつけられた習慣。

 荘司は常人なら発狂しかねない生活をもう十年近く行なっていた。

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