逆夕立

藤 夏燦

逆夕立

 それは不思議な音だった。ばらぱばららら、と薪が張り裂けるような、スペースキーをアトランダムに連打しているような、聞いたこともない音だった。


 夜勤明けで床についていた僕は、天井から聞こえてくる、その何とも言えない音で目を覚ました。ここはアパート二階の角部屋で、屋根の向こうには空がある。


 身体を起こして布団のうえで耳を澄ましているうちに、音はだんだん弱くなり、やがて何も聞こえなくなった。時間にして約3分か。しかし寝起きはいつも時間感覚がバグるので、これはあてにならない。


 夕立ちか。


 にしては奇妙だった。雨だったら、もっとリズミカルな音がするものだ。ばたばたばたばたぱらぱら、とまあ、こんな具合だ。


 だがこの音は聞き馴染みがない。不規則で、しかも大きくなったり小さくなったりしていた。


 まさか怪雨の類か。ファフロツキーズ現象というもので、空から魚介類や赤身肉、オタマジャクシなんかが降ってくる。


 僕は真相を確かめるべく、カーテンを開け、窓の外を見た。


 するとどうか、アスファルトが乾いている。やはりただの夕立ではない。


 さらに今度は、ばちばちばっちぃち、と天井から鮮魚が跳ねるような音が聞こえた。うん、やっぱりこれは雨ではない。


 眠気を気合で吹き飛ばし、僕は傘を持ってアパートの扉をあけた。街の空は橙色に染まり、夏の明るい夜の雰囲気だった。


 夜勤明けに、少しだけ眠ったあとの太陽は、弱まっていても辛い。地方転勤に伴い、社会人2年目にして引っ越してきた街は、田畑のなかにマンションやモールが建つ、都会育ちの僕にとっては未完成な風景だった。


 なるほど、ここなら怪雨(ファフロツキーズ)があっても不思議じゃない。


 屋根の上を見てやろうと思ったが、庇ひさしが邪魔でよく見えない。何の音か。もう10年以上も前にこの辺りではオタマジャクシが降ったらしいから、やはりファフロツキーズではないか。


 隣の住人も、そのまた隣の住人も扉を固く閉ざしたまま、出てはこなかった。結構大きな音だと思ったが。まだ帰ってきていないだけかもしらない。


 僕は階段を降りて、アパートを外観から眺めることにした。アパートを囲むようにして緑豊かな田園が広がっており、脇には田んぼに水を灌ぐ用水路が流れている。


 ここからもアパートの屋根上の様子は分からなかった。しかしテレビ用のアンテナが、何故だか傾いているのが分かった。風にあおられたように、斜め上を向いている。


 それ以外はいつも通りなので、これ以上探索しても意味もない、二度寝しようと決めたとき、アパートの脇の用水路から水が一滴も残されていないことに気が付いた。


 さすがにおかしい。さらによく見渡すと、辺り一面の水田から水がことごとく消えていた。




「こりゃあねえ、逆夕立やね」




 驚きで立ち尽くしていた僕に、道を通りかかった老人がそう言った。




「逆夕立ですか?」


「うん。こうやって短時間に水だけを吸い取って消えるんよ。不思議やな」




 老人はこの近くの田んぼを所持しているらしく、夏場はよく逆夕立が起こるのだと続けた。




「からかってます?」


「からかっとらへんて。嘘やと思うなら、あの雲追ってみい」




 老人が指さした先には大きな積乱雲が、東の空に漂っていた。




「逆夕立の雲は風に関係なく動くんよ。不思議やな」




 僕は駐輪場から自転車を引っ張り出して、水田のなかの畦道を白く膨れた雲を追って走った。


 夕方の空の下、街は橙色に染まっていた。もう夜といってもいい時間帯だ。街に人はまばらだった。老人曰く、逆夕立の日にはみんな怖がって家から出てこないらしい。


 近づくと積乱雲の腹は黒く淀み、遠目からは雨を降らせているように見えた。しかし雲が通ったあとは濡れておらず、むしろカラカラにまで乾いている。


 雑草が乱れる空き地の土でさえ、干ばつのあとかのような有様だ。




「なんだよ、これ」




 僕はファフロツキーズを超える不可思議な自然現象に驚愕した。


 やっとの思いで積乱雲の近くまでくると、驚きの光景が飛び込んできた。


 そこでは雨が降っているのではない、昇っている。というか、水が雲に吸い込まれている。


 まさに逆夕立というに相応しい光景だった。


 僕は携帯をアパートに置いてきたことを後悔した。こんなこと、常識では考えられない。


 ここではばらぱばららら、とさっき聞いた音が鳴り響いていた。あれは水が雲へ昇る、その音だったのだ。


 僕は雲の近くまでは行ったが、真下までは怖くて進めなかった。遠くへ逆夕立が過ぎるまで、畦道で立ち尽くしていた。


 やがて誰かがこの現象をカメラに収め、世界的に注目されたが、結局原因を特定することはできなかった。


 いくつか専門家による仮説が出たが、怪雨(ファフロツキーズ)のときと違って、説得力にかけていた。




☆☆☆




 実はこの辺りの美味しいお米の秘密を探ろうと、宇宙人が極秘に調査を行っていたことを僕が知るのは、定年から10年ほどが過ぎた約50年後のことになる。

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逆夕立 藤 夏燦 @FujiKazan

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