京都西陣の染め糸屋は、猫の手もかりたい

澄田こころ(伊勢村朱音)

第一章 猫にまたたび

第1話 四月の風

「ごめんなあ、まこちゃん。ここで糸、買うの今日が最後やわ。かんにんえ」


 藤原さんはそういって、シミが浮く手の甲をのばし、ティカップを優雅につまみあげた。


「どうされたんですか急に。あの、何か不都合でもありましたか」


 レース編みのセンタークロスのかかったテーブルをはさんで座る私は、膝の上で両手を握りしめる。この藤原さんはレース編みが趣味で、むかしからのお得意さま。この店こだわりの草木染めの糸を気に入り、たくさんの作品をつくってこられた。


 店主の祖母とおしゃべりしながら、ショールやドイリー(敷物)などをこのテーブルに座って編んでいる姿を覚えている。


 よどみなく口と手が同時に動き、指にひっかけた糸とレース針が複雑に交差していくと、みるみる美しい模様が編みあがっていく。そのさまは、まるで魔法のようだと、子供の私は目をみはったものだ。夏休みのたび、東京から京都へ遊びにきて、店の様子を観察するのが大好きだった。


 最近は藤原さんは年齢的に大物をつくれなくなったと、ちいさなそれでいて繊細なモチーフを見せてもらったことがある。モチーフをたくさん編んで、ひざ掛けにするといって。


 今さらその趣味をやめるということはないだろう。やめないならば、うちで糸を買いたくない理由があるのだ。やっぱり、私がいたらなかったから。透明のマニキュアをぬった爪が皮膚にくいこみ、いたい。


 私のこわばった顔に気づいたのか、藤原さんはあわててティカップをおいた。


「いやー、勘ちがいせんといて。うちなあ、もう目があかへんねん。白内障になってしもて」


 藤原さんは、すまなそうにうつくしい銀髪の頭をかたむける。その細められた目は、すこし瞳の色がグレーがかっていた。


「そ、それは大変ですね」


 もっと気のきいたことが、いえたらいいのに。祖母ならなんと声をかけただろう。


「手術すれば、なおるんやけど。うちも八十すぎや。簡単な手術やのに、たいそうに入院せなあかんて」


 諦念をふくむ薄い笑いを藤原さんは、私へむける。


「日常生活には支障ないし、ただ細かいもんが見えへんだけや。そやから手術はやめとこ思うんよ」


 それで、レース編みができなくなったのか。レース糸は、細い。うちの店においている一番太い糸でも、直径一ミリほど。


 老眼が進みこまかいものが見えない人は、ルーペをかけて編んでいると聞く。

 白内障は、ルーペをかけたら見えるという病気ではない。


 長年の趣味を手放すなんて、さぞ残念だろう。手術すればいいのに、と思っても、それを決めるのは本人の意志。とやかくいえるものではない。


 おばあちゃんなら、藤原さんをなぐさめつつ、手術をうけるよう説得できた?


 頭の中で祖母に問いかけるなんて、本当にダメだな、私。どんなに問いかけても、答えてくれないってわかっているのに。


「ほんま残念やわ。せっかく、まこちゃんがこのお店継いでくれたのに」


 祖母は一年前に亡くなった。美大を出たばかりで、就職先もなく母のいる東京に帰りたくなかった私。積極的でも、前向きでもない気持ちでこの店を継ぐことをきめた。

 そんな腰の座らない若い店主の態度は、お客さんに伝わるのだろうか。


 祖母の代からのお客さんは、ひとりへりふたりへり。帳簿を見返せば、売りあげは右肩下がり。


 席をたった藤原さんを、外玄関の格子戸まででて見送る。後ろ姿が見えなくなるまでそこにたっていると、四月のまだ冷たい風が通りを吹きぬけていく。風にゆれるボブの髪を耳にかけながら、地面におかれた二つ折りの看板を見る。水色にペイントされたウッドに店名の「リンカネーション」が、茶色いペンキで書かれていた。


 もともと店の名前は「土田の染め糸屋」だった。祖母の名字をつけた、なんのへんてつもない店名。京都の美大にこの家から通いだした私が、「古くさい」と難癖をつけたのだった。


 怒るわけでもなく祖母は「ほな新しい店名と看板、まこちゃんがつくって」とオーダーしてくれた。

 リンカネーションの意味は、転生や輪廻。一本の糸が人の手で、様々なものにつくられ生まれかわる。それを転生とかけたのだが少々ひねりすぎたと、今はこの店名が少々気はずかしい。


 看板から段々と目線をあげていく。上部がすいた細い木製の糸屋格子、低くはりだした軒に一文字瓦。その上には魔除けの鍾馗しょうきさんが、長年の風雨にさらされてもいかつい顔をしてこの家を守っている。


 ここが現在、祖父と私が住む店舗をかねた西陣の京町屋。この町家は昭和初期に建てられたとか。戦争の被害の少なかった京都では、古い町並みが残っていた。古くから織物産業のさかんな土地では、町家の奥からカシャンカシャンと織機の音がして、今でも高級織物、西陣織はつくられている。


 この町家のすぐとなりには、白いタイル張りのビルがある。「土田商店」という、祖父が会長をつとめる糸問屋。歴史は古く江戸時代から続いているそうだ。

 その糸問屋の白い糸を、染め糸にしてリンカネーションで販売している。今風にいえば、アンテナショップだろうか。


 中へ入り、後ろ手で格子戸を半分だけしめた。湿気がこもりやすい間口が狭く奥にのびる店に、新鮮な春の風を入れたかった。


 ひとつ大きなため息を奥へ続く土間に落とすと、リネンのワンピースのポケットに入れたスマホが震えた。画面を見てまた、ため息をつく。東京の母からだった。





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