第19話
蝉の声が、うざったい。
葬儀場の待合室の窓から青々とした木々を眺めながら、友樹は思った。
時刻はすでに十八時を回っているが、辺りはまだまだ暗くなる気配はない。
向かいに座る和馬は無言でお茶を啜っている。こんな静かな和馬を見るのは初めてだった。
しばらくすると、葬儀場のスタッフがやって来て、式場へと案内された。祭壇には、沢山のすずらんが散らされ、その真ん中に棺が置かれている。祭壇の隣には、美咲の両親が立っている。
美咲が亡くなった。美咲の母親から連絡が来た時、友樹はそれを信じられずにいた。確かに日に日に衰弱する姿を目にしてはいたが、なんだかんだ言って、結局また完治しちゃった、と明るく笑う美咲を心のどこかで思い描いていた。だから、『死』と聞いても、その言葉を美咲と結びつけることが、どうにもできなかった。
僧侶の読経後に、親族が焼香を済ませると、参列者の焼香が始まった。友樹と和馬も、美咲に別れを告げるために立ち上がる。順番が来て、棺の中の美咲を覗いた。目を瞑って眠る美咲の顔は青白く、唇は紫色をしている。それを見ても、友樹にはまだ実感が湧かなかった。
「君はすぐに騙されるね」
そう言って、起き上がるのではないか。心の中でそう期待していたが、そんなことはとうとう式の最後まで起きなかった。
式場を出たところで、友樹は和馬に一言告げて、美咲の両親の元へ駆け寄った。
友樹は二人に深くお辞儀をした。
美咲の母親が、重い口を開いた。
「本当は、あなたの顔なんて見たくもなかった」
その言葉に、友樹は俯いた。
「病院の先生だって、沖縄旅行だなんて、そんなのやめた方がいいって反対してたのに」
「やめなさい」
美咲の父親が諭すように言う。
「あなたが美咲の命を縮めたの。憎くて憎くて、どうしようもないわ。なのに、美咲の写真を振り返ると、一番いい笑顔をしてるのは、あなたとの写真ばっかりで――」
美咲の父親が母親の肩を抱く。美咲の母親はハンカチで涙を拭うと、絞り出すように言った。
「これ、病室の引き出しに、入ってたの」
美咲の母親が取り出したのは、沖縄の海を彷彿とさせる淡いブルーの便箋だった。
友樹は無言で会釈をしながら便箋を受け取ると、胸ポケットにしまった。
美咲の父親に促され、母親は友樹の元を離れた。友樹がその後ろ姿を見送っていると、美咲の父親が頭を下げた。
「すまなかったね。本当は家内だって分かってるんだよ。君がいてくれたことで、美咲は残り少ない人生を目一杯に楽しく過ごすことができた。美咲が亡くなったのは、君のせいなんかじゃあ、決してない。むしろ、君がいてくれたから、美咲は最後まで諦めずに、希望を捨てずに、懸命に生きることができた。家内も心の奥底では、そう思っているはず。ただ、美咲が亡くなったことへの怒りや悲しみを、どこかにぶつけなければ、潰れてしまいそうになるのだと思う。だから、許してやってくれとは言わないが、悪く思わないでほしい。僕も、家内も、君には心から感謝しているんだ。どうか、どうか、幸せになってね。美咲の分まで、うんと、うんと幸せに――」
美咲の父親は眼鏡を外し、涙を拭った。顔中のシワから、いい年の取り方をしていることが伝わる。
美咲の父親の言葉に、友樹は深々と会釈をし、出口に向かって歩いた。
「食事は? していかないの?」
友樹の後ろ姿に、美咲の父親が声をかけた。友樹は振り向いて首を横に振ると、葬儀場を後にした。
敷地外で待っていた和馬と合流すると、駅までの道を無言で歩いた。
行きがけの明るさがウソのように、辺りは真っ暗で、ぽつりぽつりと立った外灯と、折れそうに細い三日月が心許ない明かりで地面を照らしていた。
日は落ちているものの、気温は高く、蒸し暑かった。海水浴日和のよく晴れた日。夏日。沖縄旅行日和。プロポーズ日和。
やっぱり、美咲は晴れ女だな。心の中で友樹はそう思った。
ふと、古宇利島での美咲の笑顔が浮かぶ。
「なんとかする」
友樹は唐突に言った。和馬は驚いたように友樹の顔を見た。
「彼女に、そう、言いたかった」
和馬は無言で友樹の背中を叩く。
「なんとかなる。それが彼女の口癖だったんだ。でも、なんとかならなかった。彼女もきっと分かっていたんだ。だから、ガンの再発が発覚してから、この言葉を使うことはなかった。僕が、代わりに彼女に言ってあげたかった。なんとかする。僕がなんとかするよって。でも、言えなかった。間に合わなかった――」
友樹はこの日初めて泣いた。一度溢れ出すと、まるで壊れた蛇口のように、涙は止むことがなかった。
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