第18話
数日後、友樹は再び美咲の病室を訪れた。ズボンのポケットからは、先日撮影したウエディングフォトが半分飛び出ている。
早く美咲の喜ぶ顔が見たいと、友樹は胸を弾ませながら、病室の戸を叩いた。ところが、何度ノックしても美咲からの返事がない。不在かと思い、戸を少し開けて確認してみると、その光景に友樹は絶句した。
ベッドの上に座る美咲は数日前よりもどっと老け込んだ表情で呆けていた。
友樹が近づくと、美咲はようやくそれに気付き、笑顔にならない笑顔で頭を下げた。
友樹は居た堪れない気持ちになったが、あえて明るく振る舞った。
「今日は、この間の写真、持って来たんだ」
ベッドの横に腰かけると、友樹は現像写真を広げてみせた。美咲はその中の一つをゆっくり手に取って眺めた。友樹がお姫様抱っこで美咲を抱えている一枚だ。
美咲はふと、テーブルの上に置かれた鏡に目をやった。鏡の中の自分と、写真の中の自分とを交互に眺め、比べているように見えた。
両者は同一人物であるが、明らかに、別人のような表情を浮かべている。ほんの数日前のことなのに、これほどまでに変わるものだろうか。友樹ですらそう思うのだから、美咲は更に強くそれを感じているに違いない。
「いつまで――」
美咲が声にならない声で呟く。友樹が聞き返すと、美咲は涙を流した。
「いつまで、こんな状態が続くの」
友樹は返答に窮した。美咲が続ける。
「やり残したことがないなんて、ウソ。本当は、結婚ってどんなものなのか、味わってみたかった。新婚旅行だって行ってみたかった。子どもだってほしかった。男の子だったら、君に似た子がよかったな。子どもの成長も、ちゃんと見届けて、銀婚式のお祝いだって言ってちょっと贅沢な旅行にも行って。そのうち、孫だって、出来たかもしれない。自分の子どもは厳しくしつけたいけど、孫は思いっきり甘やかしちゃう。お年玉もいっぱいあげて、とびきりのおばあちゃんっ子にして――」
言いながら、美咲は泣き崩れた。友樹は美咲を優しく抱きしめた。
「君といると、どんどん欲張りになっていく。あれも出来るんじゃないか、これも出来るんじゃないかって。君におんぶに抱っこで、負担ばっかりかけて。こんな人間、生きてても意味がない。生きている価値なんてないよ。君といたら、私はダメ。どんどんダメになってく。私を甘やかさないで。ダメな人間にしないで。もう、ここには来ないで――」
「お願いだから、そんなこと言わないで」
友樹は美咲の背中を優しく叩いた。
「ダメなんかじゃないよ。君に生きている価値がないなんて、そんなこと、ある訳ない。僕は、君から、沢山のことを教えてもらった」
美咲が友樹の顔を見る。
「君のお陰で、僕は、自分が今後どうしたいのか、どう生きたいのか、真剣に考えることが出来た。自分より大切なものの存在があることも知った。これからの新しい目標だって見つけた。全部、君のお陰だよ」
友樹は目を細めて笑った。
「僕は君に影響されて、変わったんだ。君が僕を変えたんだよ。君が僕に新しい目標を与えてくれたんだから、その目標に向かって努力する様子をちゃんと見届けてくれないと。じゃなきゃ、怠け癖のある僕は、すぐにサボっちゃうかもしれない。あ、怠け癖があるのは、僕よりも君の方か」
友樹はおどけてみせたが、美咲の笑顔は戻らなかった。
「なんとか――」
友樹はそう言いかけたが、最後まで口にすることは出来なかった。
美咲は俯いたまま、無言を貫いた。
後ろの棚に飾られた、沖縄旅行の写真が視界に入る。まだ元気だった美咲が、写真の中で屈託なく笑っている。その笑顔が友樹の胸をぎゅっと締め付けた。
写真の隣には、ピース貝が添えられている。
しばらくほとんど会話のない時間を過ごすと、友樹は「また来るから」と笑顔で告げて、病室を後にした。
一階に降りて、病院を出ようとした時、美咲の母親とすれ違った。友樹が振り返ると、美咲の母親も同様に友樹の方を見ていた。友樹が無言で会釈したが、返されたのは会釈ではなく、鋭い眼差しだった。
友樹が前を向き直し、足を踏み出そうとした時、美咲の母親が言った。
「美咲の病状は、どんどん悪化してます」
目つきよりも更に鋭い声色に、友樹ははっと振り返った。
「あなたが、無理に、沖縄に連れて行ったから」
友樹は戸惑った。返す言葉が見つからない。
「あなたのせいよ。あなたのせいで、美咲の命は――。あの子はもう――」
美咲の母親はその場に泣き崩れた。
病院にいる人たちが、何事かとざわめく。
友樹が美咲の母親の元に駆け寄り、背中に手をやるが、かける言葉はやはり見当たらない。
「すいません」
そう小さく呟くのが精一杯だった。
「おい、何やってる」
その時、低く落ち着いた男性の声がした。友樹が声の方を見ると、そこにいたのは美咲の父親だった。地面に膝をついた美咲の母親を立ち上がらせると、父親は友樹の方を向いて言った。
「ここはいいから、帰りなさい」
美咲の父親は静かな眼差しで友樹を見つめると、ゆっくりと頷いた。
友樹はそのまま逃げるように病室を後にした。
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