第15話

 友樹は、自分が雨男だったことを、この日久しぶりに思い出した。

 美咲を連れて、二泊三日の沖縄旅行へやってきた。そこまではよかったものの、友樹たちが滞在する三日間の天気には、見事に雨予報が並んだ。五月下旬は確かに梅雨時期と重なるタイミングだが、沖縄の梅雨はそれほど雨が降らないと聞いていたはずだった。

 更に憎らしいことに、その三日間を挟むように、前後には晴れマークが並んでいた。オセロだったらひっくり返せたのに。友樹は天気予報を見ながら、そう悔やんだ。

 空港でレンタカーを借り、近くでソーキそばを食べ終え、二人はホテルへ向かっていた。その道中、友樹は深々と謝罪した。

「ごめん。僕の雨男パワーのせいで、折角の旅行がどしゃぶりだ」

「私、結構強めの晴れ女だと思ってたんだけど、君の雨男の方が強烈だったみたいだね」

 美咲が笑った。その笑顔に友樹は少し救われた。

 美咲の両親は、友樹との旅行を最初こそ反対したものの、無理は絶対にしないことと、ツインルームを予約することを条件に、特別に許してくれた。本当は、部屋を別々にとることが最初の条件だったようだが、それでは何かあった時に気付けないからと美咲が自分で両親を説得して、ツインルームに譲歩されたらしい。

「その髪型、似合ってるね」

 友樹は横目で美咲を見ながら言った。

 本当は、この日会ってすぐに言いたかったのだが、言葉にするのは中々照れ臭く、何度もタイミングを逃し、この時やっと口にできた。

「そうでしょう。坊主の次に、似合うと思うの」

 美咲は、以前はミディアムショートだったが、旅行用に栗色のロングヘアのウィッグを購入していた。長い髪を纏った美咲を見るのは初めてで、友樹は別の美咲を見ているようでなんだか緊張した。

 宿泊先のホテルに到着しても、雨は全く止む気配を見せない。少しでも落ち着いたら、ドライブでもしようと思っていたが、それは更に勢いを増しているようにも思えた。

 気温の方も、五月にしては異例の寒さで、美咲の体調に響くといけないので、この日は夕食だけ外で簡単に済ませ、後はホテルでゆっくりと過ごすことにした。

 友樹が選んだのは、アメリカのお騒がせ娘で有名なあのホテルだった。海を望める前面ガラス張りの開放的なロビーが売りだったが、この日は雨ですっかり台無しで、まるで滝を内側から覗いているような景色が広がっていた。

 部屋に到着すると、まずは荷ほどきを済ませ、その後ホテル内を散策した。再び部屋に戻り、友樹が持ってきていたトランプやらオセロやらで時間を潰し、ホテル内を更に二周散策すると、ようやく夕食時となった。

 夕食のお店は、コンシェルジュに近場の名店を尋ね、いろいろな沖縄料理が堪能できる居酒屋を選んだ。ジーマーミ豆腐や島らっきょうの天ぷらをしっかりと堪能すると、二人は大満足でホテルに戻った。

「先にお風呂、どうぞ」

 部屋に着くと、友樹が美咲に勧めた。美咲は友樹の目をじっと見つめながら返した。

「どうせなら、一緒に入る?」

 友樹は応えに窮し、たじろいだ。童貞にこの言葉は刺激的すぎる。

「冗談に決まってるでしょ」

 美咲がすかさず笑った。

「お言葉に甘えて、お先に失礼します」

 美咲は着替えを持って一人浴室へ向かった。しばらくすると、ドアの向こうからシャワー音が聞こえてきた。

 ベッドに腰掛けていた友樹は、堪らずテレビの電源を入れた。いくつかチャンネルを回し、一番賑やかそうなバラエティ番組を選んだ。気を紛らせようと思い取った行動だったが、美咲の物音ばかりが気になり、その内容は全く入ってこなかった。

 永遠のように長い時間を耐え、美咲がようやく浴室から出てきた。頭にはタオルが巻かれた状態になっている。パジャマは白のプリントTシャツにグレーの短パンだった。病室で着ているものとは違う、初めての部屋着姿に、友樹の緊張は高まった。

 美咲が友樹の前を通ってテレビ台の下の引き出しを開ける。ほんのりとせっけんの香りが漂う。

 友樹は、やっぱり別々の部屋にすればよかったと後悔した。

「君も入ってくれば」

 美咲が振り向き、友樹に言った。動揺がバレないように必死に平静を保ちながら、友樹は何とか浴室に向かった。

 シャワーに打たれながら、友樹は一人考えた。

 今夜、自分と美咲は結ばれるのだろうか。

 旅行前に色々と調べてみたが、乳ガンだからといって、夜の営みを行ってはいけない訳ではないらしい。抗がん剤治療はお休み中で、更に緩和ケアの期間であるから、あれをしてはいけないことはないはずだ。それに、彼女が自ら両親を説得してまで同じ部屋を選んだということは――。

 同じ部屋で夜を明かす。曜日交際を始めた時には、こんな日が訪れるとは思ってもみなかった。日曜担当の橘に大きく遅れを取っていたはずなのに、まさか最下層にいた火曜担当の自分がここまで出世するとは。友樹は込み上げるものを感じながら、シャワーの蛇口を閉めた。

 シャワールームを出て、タオルで手早く全身を拭くと、鏡の前に立つ。

 ついに今夜、卒業するのか。鏡の向こうの自分に問うた。無言で一人頷くと、頬をはり、服を着て、部屋に戻った。

 ところが、その意気込みは、たちまち居場所をなくした。

 美咲はテレビも電気も付けたまま、ベッドですやすやと眠っていた。

 なんだ――。友樹は拍子抜けした。同時に、笑みが溢れた。

 美咲は何とも幸せそうな表情で眠っていた。美咲に布団をかけると、友樹はその寝顔を見つめた。

 やっぱり、同じ部屋にしてよかった。友樹はそう思い直すと、部屋の電気を落とし、隣のベッドのこんもりと盛り上がったシルエットを見つめた。そうしているうちに、いつの間にか眠りについていた。

 翌朝、友樹は美咲に叩き起こされた。

 何事かと飛び起きると、眩しい日差しが友樹の目を刺激した。

 思わず、日本語の発音にはないような奇妙な声を上げてしまった。その直後に、呟く。

「晴れてる」

 友樹は驚いた。人生の中で、こんなラッキーなことが自分に起こるなんて、思ってもみなかった。

「すごいな。やっぱり君の晴れ女の方が何十倍も強烈だったんだ」

 その言葉に、美咲は笑った。

「折角の晴れ間だから、君の好きなことをしよう」

 友樹が言うと、美咲は太陽みたいな笑顔で言った。

「やっぱり海が見たいかな。ベランダからの景色も充分に綺麗だけど、でも、折角だから、もっと近くで見たい。海の上を歩きたいな」

「じゃあ、古宇利島に行こうよ」

 友樹の言葉に、美咲は首を傾げた。

「うみんちゅの君も、まだまだだね」

 友樹は大袈裟に首を振ると、得意げに言った。

「古宇利島っていうのは、沖縄本島の北部にある有人島だよ。島の中にはトケイ浜っていう海岸があって、その海岸には、拾ったら幸せになれるっていう『キイロイガレイシ』、通称ピース貝があるんだ。それを、一緒に探してみない?」

 美咲がぱあっと顔を明るくして、うれしそうに頷いた。

 二人は友樹の運転で古宇利島に向かった。トケイ浜には、ホテルから一時間ほどで到着した。平日だということと、早めの時間帯だったこともあり、海岸には、他の観光客はほとんどいなかった。

 海辺に降り立つと、美咲は地平線を眺めながらしみじみと言った。

「すごい色。こういうのを、瑠璃色って言うのかな」

「確かに。これが東京の海と繋がってるとは思えないね」

 前日の雨で、水の色はやや透明度を落とし、写真で見ていたものよりも濃く見えた。

「天国って、こんな感じなのかな」

 突然の言葉に、友樹は驚きながら美咲の顔を窺い見た。美咲は平然とした顔で、遠くを見つめている。

 友樹は気を取り直して言った。

「人が来ないうちに、早速ピース貝を探そう。こういうのは、手分けして探した方が早いだろうから、君がこっちを、僕がこっちを探すのはどう?」

 友樹が言うと、美咲は「ラジャー」と威勢のいい声を出して、指示に従った。

 美咲が遠くでピース貝を探している間に、友樹はポケットに入れておいた貝殻と、あるものを砂浜にセットした。

「これじゃないかな?」

 予想より大幅に早く、美咲が戻ってきた。

「え? もう見つかったの?」

 友樹は苦笑した。見られてしまったのではないかと焦ったが、間一髪、間に合ったようだった。

 友樹は美咲の手元をじっと見た。そこには確かに、ピースサインを作ったような形の小さな巻貝が握られている。

「やっぱり、君は幸運の持ち主だ」

 友樹は笑って、加えた。

「じゃあ、次は僕の分を探してよ。この辺をもう一度、一緒に探そう」

 友樹は自分の持ち場に美咲を呼びつけた。そこには、不自然に綺麗な貝殻が一つ、置かれている。

「何、これ。何だか、これだけ売り物みたいだね」

 美咲が笑いながら、それを手に取る。

 そりゃあ、売り物ですからと、友樹は心の中で呟く。

 拾い上げられた貝殻の中から、ポロリと何かが落ちた。それは、指輪だ。シルバーの輪っかの中に小さな小さなダイヤモンドが一つだけ埋め込まれた、ティファニーのシンプルなマリッジリング。

 友樹がそれを親指と人差し指で拾い上げると、その場にひざまづき、美咲に問うた。

「僕と結婚してくれませんか」

 美咲が驚いた顔で、指輪と友樹の顔を交互に見比べた。

「日曜担当じゃなく、元火曜担当からのプロポーズで申し訳ないんだけど」

 美咲は笑った。「はい」とも「いいえ」とも言わず、ただ、無言で左手を差し出した。友樹が美咲の手を取り、そこにゆっくりと指輪をはめる。

「綺麗」

 美咲は目を細めた。まるで始めから美咲のために作られたものであるかのように、指輪のサイズはピッタリだった。小さな小さなダイヤモンドが、美咲の華奢な手の上でキラキラと輝く。まるで主人の元に帰り、やっとその本領を発揮出来たかのように、一層輝きを増して見えた。

 友樹はあえて言葉を求めなかった。美咲が指輪を受け取ってくれた。それだけで、充分だった。

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