第9話
友樹は、混乱した。必死に記憶を手繰り寄せてみたが、やはり繋がらない。
『一体何がどうなれば、そういう展開になるわけ?』
堪らず、電話口の美咲に尋ねる。
『ごめん、何を言われても、もうどうしようもない――別れたいの』
何を聞いても、美咲はその一点張りを貫いた。
『理由を教えてくれないと、そんなの応じられないよ』
友樹は数日前の口付けを思い出した。あの日はあんなに熱く燃え上がったのに。そう思いながら、まさか、と友樹は考えた。まさか、自分の口臭があまりにひどかったのだろうか。
『契約書には、別れる際に理由が必要だなんて書いてないし、君の要望に従う義務は私にはない。どちらか一方が別れを希望した時点で交際は無効。契約書にはそう書いてあって、君も同意したでしょう』
『そうだけど、せめて、どういう心変わりがあったのか教えてほしい。でないと僕は永遠に恋の迷宮に入ったまま、この先誰とも恋愛出来ずに孤独死してしまうよ』
美咲は少し黙ってから言った。
『わかった。理由は、君といることにもう疲れたから』
『でも、それはあまりに唐突過ぎない? この間まで楽しい時間を過ごしていると思っていたのは、僕一人だったの?』
『もう、いいでしょう。私のことは放っといてよ』
友樹は無言になった。これ以上、どういう言葉をかけたらよいのか、分からなかった。
ふと、電話口の向こうから、啜り泣くような声が聞こえた。友樹は慌てて言った。
『今、どこにいるの? 僕は君に会いたい。こういうことは、せめて、直接会って話そうよ』
『私は、会いたくない』
『きちんと面と向かって会えるまで、僕は君とは別れない』
『会えば、必ず別れてくれるの?』
美咲の言葉に、友樹は戸惑った。イエスと言えば、美咲には会えるが、それが最後の逢瀬になるかもしれない。
『そう約束してくれるなら、居場所を教える』
しかし、それ以外に美咲に会う術が分からない――。迷いながらも、友樹は美咲の条件をのんだ。
『桜慶大学病院』
美咲はぼそりと呟くように言った。
『病院? どうして?』
友樹は驚いて尋ねた。
『病気で余命宣告されたから』
美咲の言葉の意味が飲み込めず、友樹は再び無言になった。
『それは、アレ? 何か、悪い冗談? にしても、ヒドいな。それに、エイプリルフールはもう少し先だよ』
友樹は悪質ではあるが、それが冗談であることを願った。今度は美咲の方が黙り込んだ。その沈黙が、友樹を更に不安にさせた。
電話を切ると、友樹は身支度を整え、美咲のいる大学病院へと向かった。
思ったよりも早い到着だったのか、病室には、美咲の母親がいた。
初めての挨拶をこんな形で迎えるとは――。友樹はそう思った。美咲との話し合いによっては、これが最初で、そして最後の挨拶にもなるかもしれない。
美咲の母親は、美咲から事情を聞いていたのか、友樹の姿を見ると、深くお辞儀をしてその場を離れた。
病室の簡易椅子に腰かけると、友樹は努めて明るく言った。
「君みたいな図太い子が、病気になんて罹るはずがないよね」
友樹は、冗談である希望を捨てていなかった。
「私なんかより、ずっと図太い病気だってあるんだよ。たとえば、ガン細胞とか」
美咲が真顔で応えた。友樹はその言葉に動揺したが、頭の中ではまだ冗談であることを信じ、ドッキリのプラカードとカメラが病室に入ってくるのを想像した。
「でも、これが初めてじゃないんだ」
現実を受け入れられない友樹をよそに、美咲は淡々と話した。
「前に、学年いっこ落としてるって言ったでしょう? それは、浪人とか留年とか、そういうのじゃなくって、高校卒業と同時に見つかったガンのせいなんだ。元々短大に行くことが決まってたんだけど、治療のために、入学を辞退したの」
美咲は相変わらず涼しい顔をしている。
「その時すでに、ステージ4のリンパ腫だって言われて、余命宣告までされた。まだ平均寿命の五分の一しか生きてないのに。最初はただただ信じられなくて、どう向き合えばいいのか分からなかった。でも、そのうち怖くなった。怖くてどうしようもなくて、毎日泣いた。そんな闘病生活の中で、オードリー・ヘップバーンの伝記と出会ったの」
友樹はオードリーが好きだと言ったあの日の美咲を思い出した。目の前にいる美咲は、それと同一人物とは思えないくらいやつれて見えた。
「『死を前にした時、惨めな気持ちで人生を振り返らなくちゃならないとしたら、いやな出来事や逃したチャンス、やり残したことばかりを思い出すとしたら、それはとても不幸だと思うの』」
友樹は美咲の顔を見つめた。
「オードリーはそう言ったの。その言葉に出会った時、突然、自分の中で何かが吹っ切れた。私はまだ、自分の足で歩ける。自分の口で話すことができる。だったら、死ぬ前にやりたいこと全部やって、あぁ、もういつ死んでもいいやって思えるくらいに生きようって。人の五分の一の時間しかないのなら、五倍濃く生きればいい。そう思ったの。だから、大学受験もやりなおした。憧れだった桜慶大学を受験してみよう。夢だった英語の先生も目指してみよう。別に、失うものなんて、何もないんだから。そうやって、自由にやりたいことやってたら、なんと奇跡的に完治したの。ガンが全部消えてますって。お医者さんもビックリしてた」
美咲は得意げに笑った。
「再受験で掴みとった桜大でのキャンパスライフは、もっと自由に、もっと好きなことをしようって誓った。ガンは完治したけど、その後の人生だって何があるか分からないんだから、人よりうんと濃く生きてやるんだって。大学では、運命の相手を見つけて、結婚して、子どもも産みたい。自分の家族を作りたい。その相手を、より早く、より効率的に見つけるために、同時に沢山の男の子と付き合ってみよう。そう思って、曜日交際も始めた」
友樹は頷いた。
「でも、やっぱりダメだった。この間の再検査で、ガンの再発が見つかったの。今度は乳ガンだった。また、余命宣告されちゃった」
その時、友樹は気付いた。平静を装っていた美咲の手が微かに震えている。病院に来る前は、どんなことがあっても受け止めようと心に誓っていた友樹の方が、泣きそうになっていた。
「炎症性乳ガンっていう悪性のガンだって診断された。普通の乳ガンよりもずっと重くて、生存率も絶望的。その数字の残酷さから、患者に病名を隠す医師もいるみたい。私の場合は、腫瘍が大きすぎて、切除も出来ないんだって。だから多分、私はもう、ここまで。でも、それでいいの。憧れの大学に入って、キャンパスライフも少し味わえたし、彼氏だって七人も出来たし、二年間も好き勝手にやって来たんだから、もう大満足」
美咲は力なく笑った。
「どうして?」
友樹の言葉に美咲は首を傾げた。
「どうして、ここまでだって決めつけるの?」
「私の話聞いてたでしょう? 今回の病状は、前回よりもずっと深刻で、完治の見込みはないの」
「でも、そんなの分からないじゃないか」
「分かるよ。自分の身体だもん」
「分からないよ。それに、貪欲な君がこんなところで満足する訳ない。君らしくないよ」
「私らしいって何? 半年やそこら一緒にいたくらいで、私の何が分かるの? 知った風な口、聞かないで」
「ごめん――。でも、君はいつだって、前向きで、ちょっと図々しくて、無防備で、『なんとかなる』が口癖で――」
言いながら、友樹の目から、涙が溢れた。
「なんで、なんで君なんだよ」
友樹は左手で顔を覆った。
「なんで、君が泣くの」
「なんで、君は泣かないの」
「泣いたって、現実は変わらないもの」
「なんとかなる。いつもみたいに、そう言って笑ってよ」
美咲は俯いた。
「僕は、君とは別れたくはない」
美咲が友樹の顔を見上げた。
「だって、何のために、別れなくちゃならないの?」
「もう、好きじゃない、から――」
美咲は再び俯いて言った。
「それはウソだよ」
「ウソじゃない。君に私の気持ちは分からないよ」
「分かるよ。僕は君のことが好きだ。それは君も同じ」
「どうしてそんなに自信満々に言い切れるの」
「だって――」
友樹は美咲の胸元に光るものを指した。指の先には、ラクダの形をしたピンクゴールドのネックレスがキラキラと輝いている。
「これは――外すの、忘れてただけ」
美咲はそれを引きちぎるように引っ張った。が、それほど容易に切れるチェーンではなかった。
「お風呂の時は毎回外してるって言ってた」
「どうでもいいから、もう別れてよ」
美咲はうんざりした顔を見せた。
「全然どうでもよくないよ」
「だって、私と付き合って、君に何のメリットがあるの?」
「メリットって何? 好きだから一緒にいたい。それじゃ、ダメなの? 僕は、確かに恋愛偏差値は低いかもしれないけど、でも、僕にだって、人を好きなる感情は分かるし、好きな人とは一緒にいたいと思う。付き合うってそういうことじゃないの?」
「私は耐えられない。結婚して家族を持ちたいと思っていたけど、その夢はもう叶わない。叶えちゃいけない。だって、恋人や家族を作っても、私はすぐにいなくなっちゃうんだから」
美咲が涙を溢した。初めて目にする美咲の涙に友樹は一瞬戸惑いながらも、美咲の肩を強く抱きしめた。
「僕は、君が余命数ヶ月だろうと、殺人鬼だろうと、宇宙人だろうと、君と一緒にいたい。僕は絶対に別れない。君の気持ちがなくなるまでは――」
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