第8話


 ランチタイムの学食は、まるで戦場のようだ。

 注文カウンターは腹を空かせた学生たちで溢れ、イートインスペースでは壮絶な席取り合戦が繰り広げられる。この日も、例外ではなかった。

 友樹はいつもの唐揚げ丼を注文すると、和馬と共に空いている席を探した。あいにく空きは見当たらなかったが、一年らしき二人組の学生が四人がけの席に荷物を置いて利用していたので、和馬が彼らに睨みを利かせ、ようやく席を確保することができた。

 温玉を崩し、唐揚げに絡め、それを口に頬張りながら、友樹は愚痴をこぼすように言った。

「そういえばだな、和馬くん。こないだは君のせいで大変な目に遭ったんだぞ」

 和馬は訳がわからないという顔で友樹を見つめた。

「パンツ」

 友樹は周りの目を気にしながら、小さい声で言った。

「あぁ、見れたのか? 荒野美咲のパンツ」

 友樹が声を潜めたことを台無しにするように、和馬はよく通る大きな声で言った。

「まぁ、見たと言えば、見たけど――そうじゃなくて、僕は今のままで満足だって言ってるじゃないか。お願いだから、僕たちのことはそっとしといてくれよ」

「僕たちだって。いいね、お熱くて」

 和馬がからかうように言った。その時、二人の背後で何やらヒソヒソと話す声が聞こえた。

「臼井友樹ってアイツ? マジ? ださっ」

 友樹は、思わず声の方に目をやる。友樹の視界には、一軍男子たちの後ろ姿が映った。その真ん中に、ザイ科の橘晴人、もとい、美咲のお気に入りである日曜担当の姿があった。

「まさか、これって、嫉妬ってやつ?」

 友樹は目を輝かせて言った。

「いや、違うと思うが。まぁ、お前が幸せならそれでいんじゃないか」

 この日は火曜だったので、放課後は美咲とのデートが待っていた。

 友樹は三限目の講義が終わると、美咲の五限目の講義が終わるのを待つために図書館に向かった。ふと、ポケットの携帯電話が振動していることに気付く。取り出して見てみると、美咲からの着信だった。

『今日はどこで会おうか?』

 友樹がウキウキしながら尋ねると、美咲からは真逆の暗い声が返ってきた。

『ごめん、今日の予定はキャンセルで』

『どうして?!』

 友樹はこの間のパンツ事件と、寝込み口付け事件を思い出しながら言った。まさか、これらが美咲の癇に触ったのだろうか。

『気分がのらないから』

『なるほど。まぁ、女子にはそんな日もあると言うもんね』

 友樹の言葉に美咲は無言を通した。

『でも、少しでいいから会えないかな。大学から駅までの帰り道だけでも、せめて一緒に歩きたいのですが』

『私はそんな気分じゃないから』

 美咲は言い終えると、ブチリと通話を切った。

 友樹は心配になった。これまで、美咲がこんな態度をとったことは一度もなかった。

 もし、いつぞやの自分の行動に美咲が怒っているのならそれを謝りたいと思ったし、何か別のことで落ち込んでいるなら、励ましたいと思った。

 友樹は美咲の授業終わりを待ち伏せした。五限の終了を告げるチャイムが鳴ると、程なくして美咲が校門の前に現れた。そこで待ち構えていた友樹に、美咲は明らかに気付いていたが、まるで他人を見るような一瞥を寄こし、目の前を素通りした。

「ちょっと、待ってよ」

 友樹は慌てて追いかける。

「僕の言動で何か君を怒らせるようなことや、傷つけるようなことがあったら、謝るから」

 美咲は前を向いたままスタスタと歩きながら、首を横に振った。

「じゃあ、一体どうしたの? もしかして、誰かに振られたとか?」

 友樹は昼間の橘のことを思い出した。

「まさか、お気に入りの日曜担当に?」

 美咲は無言のまま立ち止まり、俯いた。友樹はしばらくの沈黙の後、口を開いた。

「僕は、交際している人に振られるとか、そういう経験をしたことがないから、こんな時にどういう言葉をかけられたらうれしいのか、よく分からないんだけど、少なくとも、今、君を一人にするのはよくない気がするんだが」

 友樹の言葉に、美咲は顔を上げた。

「少しでもいいから、その辺で一緒に話せないかな。いや、話したくないなら、隣にいてくれるだけでも――」

 友樹は近くの公園の方を指した。

 美咲は返事をしなかったが、友樹が歩き出すと、その後ろをついてきたので、友樹はひとまずほっとした。

 夕暮れの公園で、二人は並んでブランコに座った。普段は子どもたちで賑わう公園だが、この日は真冬日ということもあり、園内は閑散としていた。冬の澄んだ空気がブランコのチェーンをキンキンに冷やし、握っているだけで手が凍りそうだった。

 しばらくの沈黙の後、友樹は言った。

「大切な人を失うのは、寂しいことなのかもしれないけど、でも、それは新しい出会いの始まりでもあると思うんだ」

 恋愛経験も人生経験も浅い友樹なりの、精一杯の励ましの言葉を紡いだ。

「だって、ほら、考えてみてよ。別れが訪れたってことは、それは、また別の運命のパートナーに出会うチャンスが広がったってことでもあるだろう? 橘晴人くんとは縁がなかったというだけで、また次に進めばいい話じゃないか。なんとかなる。きっと、なんとかなるよ」

 友樹は最後の言葉に力を込めて言った。

「でも、もし万が一、いや、兆に一、代わりの相手がしばらく現れなかったとして、それで君が寂しい思いをするようなことがあるのであれば、僕は喜んで日曜担当も兼務するよ。というか、君には申し訳ないんだけど、それは僕にとって願ってもないチャンスだ。僕はずっと君の日曜担当になりたいと思っていたんだから。もちろん、君がよければの話だけど」

 友樹の言葉に、美咲が突然ぷっと笑った。友樹は状況が飲み込めず、首を傾げながら美咲の方を見た。

「なんか、もう、色々どうでもよくなっちゃった。君はやっぱりすごいよ。ありがとう」

 美咲が立ち上がり、笑って礼を言った。かと思うと、ブランコに座る友樹の前に立ち、腰をかがめ、キスをした。

「二回目だね」

 美咲が悪戯に笑った。

 友樹は一瞬、呆気に取られた。

 夕焼けに照らされる美咲の髪はオレンジ色に染まっている。

 触れたい。そう思った。同時に立ち上がり、手を伸ばす。驚いて目を丸くする美咲に構わず、友樹は美咲の顔に手を添え、口付けを交わした。

 美咲は友樹の両目をじっと見つめると、ゆっくりと目を閉じた。友樹は再び唇を重ねた。何度も、何度も、数え切れないほどの口付けを、二人は交わした。

 遠くで、冬烏の声が響いた。

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