第7話

 この日、美咲が久々に友樹の家を訪れた。美咲を招くのは初めてではなかった。すでに何度も招待してはいたが、美咲が自宅にいることに、友樹は一向に慣れなかった。

 もうすぐ、二学期も終了する。つまりはテスト期間が近い。二人は、友樹の狭いワンルームマンションの部屋の、小さなローテーブルに向かい、それぞれテスト勉強に励んだ。

 美咲は自由が丘にある一軒家で実家暮らしをしているので、一緒に勉強をするとなると、大抵、図書館か、一人暮らしの友樹の家が選ばれた。

 友樹の向かいで英英辞典をパラパラとめくる美咲が、頬杖をつき、欠伸をした。くるぞ、と友樹は思った。

「今度さ、うちにも遊びにくれば」

 美咲の集中力は三十分と持たないらしく、大抵すぐに飽きてしまい、私語を始めるのだった。

「僕はいいけど、ご両親には、なんて紹介するの?」

「火曜担当の臼井くんですって」

「それは随分と理解のある親御さんだね」

「冗談に決まってるでしょう」

「そんなことより、君には集中力ってものがないのかね。さっき無駄口を叩いてから、まだ五分と経ってないぞ」

 友樹が携帯電話の時刻を指して言った。

「何、先生ぶって」

「先生は君の方だろう」

 美咲は英米学科を専攻していて、将来は英語教師になりたいと言う。

「そうだった」

 美咲は舌を出して笑った。

「なんか、君はいつも楽しそうでいいね」

「よく言われる。私にだって悩みの一つや二つや三つ、いや、もっと沢山あるかもしれないのに」

 美咲は頬を膨らませた。

「君はそういうものとは無縁の世界で生きてるように見えるからね。なんというか、幸運を背負って生まれた人間って感じ。一方の僕は、あらゆるマイナス要素を一手に引き受けて生まれたようなもんだ。大体、名前からして不幸なんだよ」

 友樹は腕組みをしながら言った。

「『臼井友樹』だなんて名前は、いつも『薄い勇気』と誤変換されて、お陰で小さい頃から『意気地なし』ってからかわれたんだから」

 美咲がケラケラと笑う。

「君の名前は素敵だよね。荒野に美しく咲くって、完璧。君にピッタリだよ。本当に世の中っていうのは不公平だね。ツイてる君と、ツイてない僕。でもその両方の種類の人間がいて初めて、世の中の均衡が保たれるんだろうから、僕の不運の上で君の幸運が成り立っているのだと考えれば、それは本望かもしれない」

 友樹の言葉に、美咲は影のある笑みを浮かべた。

「なんとかなる」

 美咲の突然の言葉に、友樹は驚いた。

「そう思って生きていれば、意外と、何でもなんとかなるもんだよ」

「それは、一部の幸運な人間にだけ許される言葉だね」

「ま、そうかもね」

 美咲がウインクして笑った。

 その時、机の上の携帯電話が鳴った。ふと見ると、ポップアップに和馬からのメッセージが表示されている。

 その内容に、友樹は慌てた。携帯電話を急いで手に取り、ズボンのポケットに仕舞うと、美咲の様子を伺った。

 美咲は、訝しげな顔で友樹を見つめた。

「どうした? なんか、変なものでも見えた?」

 友樹が無理やり笑顔を作って言った。

「あんまり、よく見えなかったけど――」

 その言葉に、友樹が安心したのも束の間。

「彼女のパンツは見られたかどうかって」

 しっかり見えているじゃないかと、友樹は項垂れた。この時ばかりは、和馬との腐れ縁を憎んだ。

「これは、決して僕の考えではないから、誤解せずに聞いてね」

 念入りに前置きをして、友樹は先日の和馬との会話のことを話した。

「和馬っていう、高校時代からの親友がいるって話は前にしたよね。そいつが、僕たちの関係を疑問視してるんだよ。曜日限定の付き合いなんておかしい、増してや小学生でもあるまいし、身体の関係が皆無だなんて、からかわれてるだけじゃないかって。いや、でも、僕は全くそんなこと思ってないし、今の君との関係で大満足で――」

 その瞬間、友樹は目を疑った。

 美咲が、両膝をついて立ち、友樹の目の前でスカートをめくり上げていた。その中身を目にした友樹は、思わず視線を逸らした。

「何、やってるんだ、君は――」

 友樹は右手で自分の目元を、左手で美咲の足元を隠しながら言った。

「やめなさい、嫁入り前の女の子がはしたない」

「だって、付き合ってたら、パンツくらい見せて当然なんでしょう」

「それは和馬の意見であって」

「じゃあ、君は興味ないの?」

「パンツに興味があるかと聞かれたら、それはもう食い気味で答えちゃうくらい大アリだけど、今はそういう話じゃなくて、こういうものには、多分、流れってものがあって――」

 たじろぐ友樹に、美咲はスカートを整えながら笑った。

「君って、本当、面白いね」

「あぁ、もう、また脱線してる。ちゃんと勉強しないと、留年しちゃうぞ」

 友樹が参考書を開き、ペンを持ち直した。美咲はその後もしばらく友樹にちょっかいを出したが、友樹は相手をしなかった。したくなかったのではなく、出来なかった。美咲を見ていると、先程の映像が頭に蘇り、契約違反を犯してしまいそうになるからだ。

 友樹の薄い反応に、美咲も観念したのか、やっと自分の勉強に戻った。ところが、美咲があまりに長いこと黙っていたので、今度は友樹の方が気になって目をやった。

 美咲は、辞書を枕にすやすやと眠っていた。

 友樹はベッドにあったブランケットを取り、肩にかけた。ふと、美咲が夢の中で微笑んだ。

 平和だな。そう思いながら、友樹は美咲を見つめた。肩ほどの長さのつやつやとした黒髪。凛とした太めの眉。カールした長い睫毛。筋の通った小さな鼻。きゅっと結ばれた赤い唇。

 まるで吸い込まれるように、友樹はその頬に手を当てた。そして、そのまま、唇を重ねた。

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