第18話 二人の母親の話 その3
目を開けると、そこは見知った場所。『和食処 若櫻』の店内だった。
「いらっしゃい。サナ」
私がいつも座っているカウンター席。
そこに六、七歳くらいの女の子が座っていた。
私がちっちゃい頃の姿。
いや。あれは、子供の頃のサク叔母さんだ。
「……サク叔母さん」
「おいで。少しお話ししよ」
私は叔母さんに促され、隣の席に座った。
「このお店は、私の家でもあった」
サク叔母さんはカウンターテーブルをなでる。私が何度かインクをこぼしてシミになっているはずなのにそれがない。
サク叔母さんはゆっくりと語りはじめる。
「私は赤ちゃんの時、このお店の前に捨てられていた。誰が私を産んだのか、なぜ捨てられたのか、それは今でもわからない。私を拾い、育ててくれたのはこのお店を営んでいた夫婦だった。私は二人の子供になったの」
カウンターの内側、厨房になっているその場所に白い靄が現れる。靄は徐々に形をかえて、二人の人間の姿になった。
初老の夫婦。
二人は優しい眼差しで、サク叔母さんを見つめる。
叔母さんの話は続く。
「物心ついたときから、私はお父さんやお母さんと違うんだとわかっていた。私に見えるものが両親には見えず、聞こえる音が聞こえず、キツネの姿と人間の姿を行ったり来たりすることもない。尻尾がかゆい感覚すら上手く伝えられなかった」
ふと気配を感じて横を見ると、男の子が座っていた。
私よりも少し年下に見える男の子だ。
弟や、昔のフウ兄ちゃんによく似た男の子。
お父さんの昔の姿だった。
叔母さんはお父さんをチラリと一瞥すると、また語り始める。
「当時の私にとって一番の理解者はお兄ちゃんだった。お兄ちゃんもお店の前に捨てられていた子だったから、本当に私のお兄ちゃんなのかもわからない。それでも、私の世界で唯一、私じゃない化けギツネだった」
叔母さんは一度息を吐き「あの日までは」と言葉を繋ぐ。
「いじめられて学校に行けなくなって、ずっとお店のお手伝いをしていた私の前に、ノノお姉ちゃんが現れた。はじめて出会った私たち以外の化けギツネだった」
カランと、入り口の扉に取り付けたベルが鳴った。
見ると、そこに小学校高学年の頃のお母さんが立っていた。
「その後、私が化けギツネの力を使って人間を傷付けてしまい、私とお兄ちゃんは京都のノノお姉ちゃんの家で暮らすことになった」
突然、周囲の景色が変わった。
そこは、学校の廊下のようだった。
私の知らない学校だ。窓の外からは夕日が差し込んでいる。
一番近くの教室に取り付けられたプレートには『五年三組』の文字。
「転校して、京都の学校に通いはじめた」
そう語るサク叔母さんは壁にもたれるように立っていた。さっきまでと同じ小学校低学年くらいの見た目。さっきと違うのは、制服姿だということ。
「お兄ちゃんはすぐに学校に馴染んで、お友達も沢山できた。一方で私はこっちの学校でも上手く馴染めなかった。受け入れてくれようとするヒトはいたけれど、私がそれを拒んだ。私は強い力を持っていることを知ったから、誰かを傷付けてしまうかもしれない。それが恐かった」
叔母さんはスカートの裾を整えながら、その場にしゃがむ。
「当時の私は二年生で、お兄ちゃんは五年生だったから、私の方が先に授業が終わることが多かった。だからこうして、お兄ちゃんを待っていた」
教室の扉が開き、何人かのランドセルを背負った男の子がワッと飛び出していった。その中にお父さんもいた。
「お兄ちゃんはお友達とのお話しに夢中で、私に気付かないことも珍しくなかった」
叔母さんは立ち上がり、スカートの埃をはらう。
「物心ついたときから世界で唯一だったお兄ちゃんが、少しずつ離れちゃった」
また景色が変わった。
そこは、京阪電車の伏見稲荷駅から稲荷大社へと続く道だった。
私も何度も通った道。
だけど、周囲の建物の様子が私の記憶とは少し違う。
きっと、昔はこんな街並みだったんだろう。
「結局、友達らしい友達もいなかった私は一人で帰る日の方が多くなった」
サク叔母さんは私の横にいた。相変わらず子供の姿だが、先ほどまでより少し大きくなったように見える。
叔母さんがゆっくりと歩き出すので、私もそれに続く。
「こうして歩いていると、時々声をかけてくれる男の子がいた」
また、白い靄が現れて形を変える。
それは、自転車に乗った小学校高学年くらいの男の子だった。片足をつけてその場に停まり、サク叔母さんを見つめている。
「秦守ケンくん」
「秦守?」
「そう。彼も神獣のキツネだった。地元の公立小学校の五年生で、放課後は自転車で色々なところに遊びに行ってた」
サク叔母さんは男の子と背中合わせになるように荷台にまたがる。
「一人で歩いていると、自転車で送っていってやるよ、って声をかけてくれた。はじめのうちは断っていたけど、一度体調が悪い日があって、そのときに助けてくれたんだ。それから、私はケンくんと仲良くなっていった」
叔母さんはそっと、男の子の背中にもたれかかる。
「仲良くなると、ケンくんは自転車で色々なところに連れていってくれた。ケンくんのお友達も紹介してくれて、そのヒト達とも仲良くなったけど、やっぱりいつか傷付けてしまうんじゃないかって不安は消えなかった」
また、景色が変わった。
それは、列車のデッキ部分のようだった。
窓の外は、見知らぬ町の夜景が飛び去って行く。
カタン、コトンと規則的な音が聞こえる。
「お盆やお正月には、若桜の実家に帰省した。昼間の特急列車を使うことが多かったんだけど、どうしても予定が合わなくて夜行の『だいせん号』を使ったことがあった」
サク叔母さんは小学校高学年くらいの姿になっていた。
「夜の十一時四十分くらいだったかな? そのくらいに大阪駅を出発する汽車で、鳥取は朝の四時四十分くらいの到着だった」
客室との仕切りの扉の窓から、ずらりと二段ベットが並んでいた。
「この列車、寝台車と普通の座席があったんだけど、ミチヨさんは寝台の切符をよういしてくれた。『横になって寝ないと、体に悪いですよ』って」
「ミチヨさん?」
突然知っている名前が出てきて、私は思わず聞き返した。
「うん。サナも知っているよね。栗駒ミチヨさん。今は大社の呪術最高師範だっけ?」
私はうなずいた。京都にいた頃、私に“力”の使い方を教えてくれていたのがミチヨ先生だった。
「ミチヨさんね、昔はノノお姉ちゃんのお世話係だったの。私たちがお姉ちゃんの家で暮らすようになってからは、私とお兄ちゃんのお世話もしてくれてた」
白い靄が現れ、ミチヨ先生の姿になる。私の知っている先生よりずいぶん若い。
「帰省のときは、いつもノノお姉ちゃんとミチヨさんも若桜にやってきた。お姉ちゃんってね、家族と仲が悪くて家では居辛そうにしてたから。きっと、若桜の家はお姉ちゃんにとっても安らげる場所だったんだと思う」
叔母さんは一度、息を吸いなおす。
「はじめて乗った寝台列車は眠れなかった。お兄ちゃんも眠れないみたいで、私とお兄ちゃんは鳥取につくまでずっとデッキでお喋りしてた。私にとっては、久しぶりのお兄ちゃんと二人っきりの時間だった」
叔母さんは近くの壁にもたれる。
「それから私は、なんだかんだと理由をつけて、帰省のときはいつも『だいせん号』にしてもらった。お兄ちゃんと二人きりになりたかったから。でも、お兄ちゃんは段々とノノお姉ちゃんと一緒にいるようになっていった」
叔母さんは短く息を吐く。
「わかっていた。お兄ちゃんとノノお姉ちゃんは喧嘩ばかりしてたけど、本当は惹かれあっていること」
景色が変わる。
広い和室。
その真ん中に正座する中学生くらいのサク叔母さん。
「私が中学生のある日、ノノお姉ちゃんにお見合いの話しがあったの。当時おねえちゃんは高校生で、お見合いと言いつつ卒業したらこのヒトと結婚しなさいって強制するようなものだった」
私は叔母さんの横に座った。
「どうして、そんなことを……」
「お姉ちゃんの実家はすごく家柄にこだわるところだったから、お姉ちゃんがお兄ちゃんと仲良くなっていくのが許せなかったみたい」
叔母さんは天井を見上げた。
「それで、反発したお兄ちゃんとお姉ちゃんは駆け落ちしたの。私は一人、お姉ちゃんの実家に取り残された」
「それで、どうなったんだ?」
私が尋ねると、叔母さんは小さくうなずく。
「私を家から連れだしてくれたヒトがいた」
白い靄は男のヒトの形になった。すぐにわかった。さっき自転車に乗っていた男の子が大きくなった姿だと。
「ケンくんが助けにきてくれたの。いきなり家に乗り込んできて、一緒に行こうって」
男のヒトは、手を差し伸べる。叔母さんはその手をとり、立ち上がった。
「こうして私は、秦守の家で暮らすことになった。お兄ちゃんとお姉ちゃんは私の実家にいることがわかった」
叔母さんは男のヒトに抱き着く。
「正直に言うと、はじめは私はケンくんをお兄ちゃんの代わりにしてた。でも、一緒に暮すうちに、ケンくんをお兄ちゃんとは別の存在として好きになっていった」
ブロロロロロ。
エンジンの音が響く。
私はスーパーカブの荷台にまたがって、運転するサク叔母さんの背中に左手でしがみついていた。
カブは夏の田園風景の中を駆け抜けていく。
サク叔母さんの顔は見えないけれど、私の知っている大人の姿のようだ。
「――それから、ノノお姉ちゃんは両親と絶縁して、若桜の地でお兄ちゃんや私の両親と暮らしはじめた。私はケンくんのところでお世話になりながら、若桜にはお盆とかお正月にしか帰らなかった」
叔母さんは運転しながら話し続ける。
「そのうち、お兄ちゃんとお姉ちゃんは結婚した。結婚式にも呼んでもらったし、心からの気持ちで『おめでとう』って言えた。それは私にとって、お兄ちゃんとの完全な決別でもあった」
エンジンは一定のリズムでうなり、カブは軽やかに走り続ける。
「それから何年かして、ケンくんは私の旦那さんになった。私を育ててくれた人間のお父さんとお母さんが立て続けに亡くなったのは、私が結婚したすぐ後の事だった」
入道雲がモコモコと伸びている。
「何年かして、私はサナ、あなたを妊娠した」
生ぬるい夏の空気を、カブの風が吹き飛ばす。
「でも、ケンくんはお役目の最中に行方不明になった。それからのことは知ってる?」
私は小さくうなずく。
それから、サク叔母さんは若桜で私を生むけれど、その数日後に植物状態になり、私はお父さんとお母さん、サク叔母さんの言うところのお兄ちゃんとお姉ちゃんの子供として育てられることになった。
「私の愛したヒトは、皆、遠くへ行っちゃう。悲しいな」
私は思い返す。
病院ではじめて叔母さんに会ったとき、両親の名前を訊かれて私はお父さんとお母さんの名前を言った。
そのときの、叔母さんが一瞬見せた悲し気な表情を。
「私は、まだここにいるよ。ここに、ちゃんといるよ」
左手で精一杯、叔母さんにしがみつく。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんはね、間違いなくあなたを立派に守り、育ててくれる。私はいなくていいし、むしろ、私の存在はあなたを混乱させるだけだから。だから、寂しいけどサヨナラだよ。大好きなサナ」
私は叔母さんの背中に顔をうずめる。
「……あほんだら」
「へ?」
叔母さんは少し驚いたような声をあげた。
「私の事、大好きって言ってくれるクセに、なんで私から離れようとして、悲しんでるんだよ」
そこから私は早口で一気にまくしたてる。
「お母さんも、サク叔母さんも、私の為、私の為って言うクセに、何も私には何もかも黙ったまま、勝手に何もかも決めて、それで勝手に傷ついて、苦しんで!」
今、わかった。
きっと私は、誰が私を生んだかなんて、あんまり気にしてない。
それよりも、お母さんや叔母さんが悲しそうな顔をしている方が嫌だ。
「私の為って言うなら、私の気持ちを聞いてよ。私にもっとお話しさせろよ。お母さんも、叔母さんもお父さんも、本当に、本当に……」
私は大きく息を吸い、精一杯叫ぶ。
「この、あほんだらー!」
私は目を覚ました。
サク叔母さんは私をギュッとして眠っている。
縁側へ続く障子の向こうは明るくなっていた。
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