第8話 美味シカった話 前編

 正午近く。

 私は山中の林道を歩く。

 朝、友達のリンコから電話がかかってきた。一緒に遊ばないかというお誘いだった。

 だから私はリンコの家に行った。山奥のログハウス風の家だ。

 アカリも誘ったそうだけど、今日は来られないらしい。

 だから二人で遊んだ。

 ゲームをして、ユーチューブを見て、ちょっとだけ宿題をした。

 昼になり、私はお昼ごはんを食べる為に一旦家に帰ることにした。

 リンコのお母さんは「よかったらサナちゃんもウチで食べていったら?」と言ってくれたけど、私は断った。

 私は、食べられない物が多いから。

 個人差はあるけれど、人間は十歳前後から二次成長期を迎える。

 身長がどんどん伸びて、体にも心にも様々な変化がおこる。

 化けギツネだって人間のそれとは多少の違いはあるけれど、十歳前後で二次成長期を迎える。

 私自身、五年生の終わりごろから急に身長は伸びたし、胸だって大きくなったし、それから、それから、エトセトラ。

 とにかく、お風呂上りに鏡に映る私の姿は、大人の女性に近付いていった。

 体が大きくなるということは、それだけたくさんの栄養が必要になるということ。

 たくさんのご飯を食べないといけないということ。

 だけど私は、お肉が食べられない。

 口の中でピィちゃんが死んでいった感覚。

 それを嬉しいと思ってしまった私の本能。

 自分自身に対する強烈な嫌悪感。

 お肉やお魚を口に入れ噛み締める度に、あのときのことを思い出し吐き気を覚える。

 今は白ご飯と、少しの野菜だけど食べている。

 お母さんがつくってくれた日も、コンがつくってくれた日も、とっても美味しい。だけど、食事の時間は憂鬱な気分になる。

 そんな状況なのに空腹を感じている私にため息が出る。

 セミの大合唱。

 木々で遮られてもなおも暑い日差し。

 右手のギプスに汗がたまってかゆい。

 そのときだ。

 ふと、頭にあるイメージが浮かんできた。

 気配。

 近くに何かがいるとい気配だ。

 微かに光って見えるこの気配。間違いない。神獣だ。

 私は道端の林に飛び込んだ。


 そこにいたのは一頭の鹿だった。

 大きな角を持つ牡鹿が、山奥の開けた地面の上に横たわっていた。

「おや……キツネのお嬢さん。……どうして……こんなところへ?」

 シカは弱々しく言った。

「あなたの気配を感じた。どうしたんですか? あなたは、神獣ですよね」

 私は鹿の頭の近くでしゃがむ。

「元……ですよ。かつては、神に仕て……いましたが、今は……引退しましたので普通の野生のシカです。うっかり……罠にはまってしまって、」

 シカは随分弱っているようだ。

 ゆっくりと視線を動かすと、金属製のくくり罠が、シカの不自然に曲がった後ろ脚をとらえていた。脚の根元からは赤黒い血が流れ出ている。

「罠に、はまって、こけた拍子に……脚が……」

 シカの今にも消えそうな声。

「すぐ助けます」

 私は罠にとびつく。

 しかし、くくり罠というものは知っていても、触るのははじめてだ。どうすれば緩むのかわからない。片手しか使えないので、構造を調べることすらままならない。

「もう……いいですよ。お嬢さん。ありがとう……」

 シカはゆっくりと息絶えた。

 私は手に持っていた罠をはなした。

 手にはシカの血がついていた。

 鉄の臭い。

 そのとき、脳裏に浮かんできた。

 これは私の望んでいたもの。

 これは私の欲しかったもの。

 その衝動に導かれるまま、血を舐めた。

 そして、ゆっくりと目をむける。

 目の前に横たわるシカと、その傷口から流れ出る血。

 私はシカの横にひざまずき、顔を傷口に鼻を近付ける。

 獣の生臭さを感じる。

 周囲には誰もいない。

 何をしても、気付かれない。

 抗いがたい、つよい欲求。

 尻尾が生えてくる感覚がする。耳もきっとキツネの耳になっている。

 それを気にせず、私はゆっくりと口を開く。

 鋭い犬歯を伝い、唾が滴る。

 私はキツネ。

 肉を食べて、何が悪い。

 喜びを感じて、何が悪い。

 そのときだ。


『やめときましょう、サナ。後悔しますよ』


 私の内側から、声がした。

 それは以前、一度分離し再度融合した私の魂の一部、サクラだった。

 最近は同化が進み、ほとんど存在を感じることがなくなっていた。

 それなのに突然、私の中で声がした。

「サクラ?」

 しかしその一言だけで、サクラの気配は消えていった。

 それと入れ替わるように、近くの茂がガサガサと音をたてる。

 出てきたのは、サク叔母さんだった。

「やっほー。サナちゃん」

 叔母さんは髪に引っかかった葉っぱをはらった。

「……叔母さん、どうしてここに」

 私が尋ねると、叔母さんは笑顔を浮かべた。

「サナちゃんが間違っている時は、必ず止める。ピンチの時は、必ず助ける。その為に、私はいるんだから」

 叔母さんは笑顔を浮かべた。

 その途端、私はふと我に返った。

 私は、このシカを食べようとしていた。その事実を突き付けられた瞬間、急激な吐き気に襲われ、さっきリンコの家で食べたお菓子やジュースを地面にむかって吐いた。

「よしよし」

 叔母さんは私の背中を優しく撫でてくれた。


 私が落ち着くと、叔母さんはシカを調べはじめた。

「魂はもうヨモツクニへ逝ったみたい。想い残すことのない生涯を送っていたのね」

 叔母さんはシカのまぶたをそっと閉じると、脚の方へ移動、くくり罠のボルトを緩めて外した。

「せっかくだから、このシカさんいただきましょうか。サナちゃん。別にシカを食べてはいけないのではないのですよ」

 叔母さんはスマートフォンを取り出すとどこかへ電話をかけた。

「でも、どうせ食べるなら美味しくいただきましょう」

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