第3話 君の声の話 前編

 鳥取市の市街地にある総合病院。

 その駐車場に、一台のジムニーがとまる。

 ドアが開き、降りてきたのはノノとコンだった。

「行きましょうか。コンちゃん」

 ノノはいささか緊張の面持ちで病院の建物を見上げる。

「はい」

 コンはうなずいた。


 コンとノノはやってきた。『秦守』と書かれた札が差してある病室の前に。

 ノノはノックして、扉を開ける。

「こんにちは」

 病室の窓辺におかれたベットの上に、一人の女性が座っていた。

 それは、ノノの義理の妹、サクだった。

 サクはゆっくりと顔をむける。

「いらっしゃい、ノノお姉ちゃん」

 サクは柔らかい笑顔を浮かべた。

「目覚めたことは聞いていたんだけど、なかなか来られなくてごめんなさい」

 ノノは気まずそうに言った。

「目が覚めたら十一年経ってましたなんて、まるでタイムトラベル気分だよ」

 サクは幼い少女のようにはにかみ、それから目線をコンにむける。

「そちらの方は?」

「こっちはコンちゃん。一緒に住みながら、お店を切り盛りしてくれてるの」

 ノノに紹介されたコンはペコリと頭を下げる。

「八重垣コンです。よろしくお願いします」

 サクは「ちょっと来てくれる?」と言って、手招きをする。

 コンがベットの脇まであるいていくと、サクはそっと手を伸ばし、コンの左頬に手を当てる。

「私の大事な場所を守ってくれて、ありがとう」

 サクはしばらくコンを見つめたあと、頬から手を放し、再び視線をノノにむける。

「ノノお姉ちゃん。昨日ね、サナちゃんに会ったんだよ」

 サクは嬉しそうに言った。

「へ?」

 一方、ノノは驚きの表情を浮かべる。

「会ったの? サナに」

「うん。ロビーをお散歩していたら、偶然、会ったんだ。最後に見たときは生まれたての赤ん坊だったのに、凄いね、とっても大きくなってた」

 サクは嬉しそうだった。心の底から。

「そのサナのことで、聞いてほしいことがあすの」

 ノノは意を決したように言った。

 サクから笑顔が消える。


 その頃、若桜町。

 町営の屋内プールにはホイッスルの音と子供の声、それから水を跳ねる音が響く。小・中学校にプールは無いのでここを借りているのだ。

 サナはプールサイドのベンチに座り、その様子を見ていた。

 水着姿ではなく、いつものワンピースを着ている。そして、右手にはギプスをつけ、三角巾で首から吊っている。階段から落ちて、腕の骨を折ってしまったので見学だ。

 今日、見学しているのはサナだけ。雑談をする相手がいなくて暇だ。

 先生が自由時間を宣言すると、一気に賑やかになる。

「サナちゃーん」

 リンコが手招きする。その横にはアカリもいる。

「なんだよ」

 サナはゆっくりと立ち上がると、水際へ歩いていき、しゃがむ。

「サナちゃん、退屈そうだったから」

 プールの中からリンコが言った。

「まったく。小学校最後のプールは見学だよ」

 サナの表情は不満気。

「怪我が治ったら、三人でプール行こうよ。『鳥取砂丘こどもの国』ってとこ行ってみようよ。ウォータースライダーがあるし、キャンプもできるからきっと楽しいよ」

 リンコは興奮気味にそう言って、アカリの方を見る。

「そうそう。だから、むくれなさんなって」

 アカリもプールの中だ。

「ああ。そうだな。みんなで行きたいな」

 サナは顔をほころばせる。

「ところでサナちゃん」

 リンコはサナの一点に目をむける。

「さっきから見えてるよ……うす緑」

「うす緑?」

「サナちゃんの……その……うす緑のショーツ」

 サナはプールサイドにしゃがんでいるわけで、ワンピース姿なわけで、男子がチラチラとサナの方を見ては慌てて目をそらすわけで、わけで、わけで……。

「最初に言えぇ、アホぉ!」

 サナは顔を赤らめながら左手で水をすくい、リンコの顔面めがけて飛ばす。

 しかしリンコは急速潜航クラッシュ・ダイブ。放たれた水はアカリの顔面に命中した。

「やったな、サナ!」

 反撃とばかりにアカリが飛ばした水がサナの頬を濡らす。

「なんだ、アカリ!」

 サナはギプスをしていない左腕を水に突っ込み、バシャバシャとアカリへ水を飛ばす。

 アカリも負けじとやり返す。

「ちょ、ちょっと二人共……」

 リンコは止めようとするが、少し考えて。

「私も!」

 一緒にバシャバシャしはじめた。


 見学だったはずのサナはびしょ濡れになった。

 今年の春、大学を卒業したばかりの女性の副担任が一度学校へもどり、サナの体操服をとってきてくれた。

 そして、その副担任に手伝ってもらいながら着替えた。


 スクール水着から普段着へと着替えたアカリとリンコ。ワンピースから体操服に着替えたサナ。水泳の授業を終え、三人は学校への道を歩く。

「なんだかんだで楽しかったな」

 サナは片手で抱えたワンピースを鼻に近づける。プールの水――塩素の匂いがする。

「よかった」

 リンコが言うと、アカリもうなずく。

「うん。よかったよかった」

 サナは首をかしげた。

「なにがよかったんだ?」

「サナちゃん、元気なかったから、笑ってくれたら嬉しいってこと」

「そっか。心配かけたな。お箸は使えないし、お絵描きもできないし、大変だけど、私は大丈夫だ」

 サナがそう言った途端、足元に何かが落ちてきた。

 それは、スケッチブックだった。

「なんだろ」

 アカリが拾い上げる。

 サナが上を見上げると、近くの民家の二階から顔をのぞかせている女の子が見えた。サナ達と年は変わらないように見える。

 女の子は慌てた様子で一旦家の中に引っ込むと、玄関から出てきた。

「これ、あなたの?」

 アカリがスケッチブックを差し出すと、女の子は受け取り、無言で深く頭を下げた。

「お前も絵を描くのか?」

 サナが尋ねると、女の子は驚いたように首をブンブンと横に振り、もう一度深く頭を下げて、小走りで家に戻っていった。

「なんか不思議な子だったね」

 リンコがポツリと言った。

「ここの家、お爺さんとお婆さんの二人暮らしのはずだから、お孫さんかな?」

 アカリが表札を見ながら言った。


 夏休みが近いので、午前中で放課となった。

 サナは家には帰らず、直接『和食処 若櫻』へとやってきた。

 脇にワンピースを抱え、左手でドアノブを引く。

 扉には鍵がかかっている。

「あれ? コンは出かけているのか?」

 サナも鍵を持っている。

 しかし、それは滅多に使わないので机の引き出しに仕舞ってある。取りに帰るのも面倒だ。

「あれ、試してみるか」

 サナは左の人差し指の先を鍵穴にあて、呼吸を整える。

 指差しから一瞬火花が散り、パチンと開錠の音がした。

 店内に入ると、足元に荷物を置き、いつものカウンター席に座る。

「普通に鍵を取りに帰った方がよかった。この術、疲れる」

 そのとき、カランと音がした。入り口の扉につけたベルの音だ。

 サナが視線をむけると、そこにいたのはさっきのスケッチブックの少女だった。

「お前……」

 サナはつぶやいた。


 その頃、コンは鳥取市内の病院。

 カーテンの隙間から差し込む夏の日差しがサクの顔を照らす。

「……そう。そんなことが」

 長い話しを聞き終えたサクはゆっくりと息を吐く。

「そう。そんなことになっていたの……」

「サク、退院したら家に来て、一緒に暮らしてほしいの」

 少しの沈黙。

「……いいの? ノノお姉ちゃん」

「うん。それが、サナの為にもなるはずだから」

 ノノはうなずいた。


 コンとノノはジムニーに乗り込む。ノノが運転席、コンは助手席だ。

 すると、ノノは大きなため息をつき、ハンドルに額があたるまで頭を下げる。

「コンちゃん、つき合ってくれてありがとう」

 かなり疲れているように見える。

「ノノさん、大丈夫ですか?」

 コンは心配そうに尋ねた。

「こんな姿、子供たちには見せられないわ」

 そう言ってから、ノノは何かに気付いたように顔を上げる。

「ごめん。前に『コンちゃんも私の子供』なんて言ったのに……」

 ノノは泣きそうな顔でコンを見た。

 それを見たコンはそっと口を開く。

「私は、ノノさんにすごい感謝してるし、ノノさんのこと大好きです。でも、ノノさんはノノさんで、ママはママです」

「ありがと、コンちゃん」

 ジムニーのエンジンを始動させる。

「きっと、これでいいの。今まで私が強欲すぎただけ。全て、あるべき姿に戻るだけ」

 ノノは目元を拭った。

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