第2話 血肉とココアの話

 鳥取県の東の端っこ。兵庫県との県境の町。それが若桜町だった。

 若桜駅から少し歩くと、古びた木造二階建ての飲食店が見えてくる。

 看板の『和食処 若櫻』の文字は消えかけていてほとんど読めなくなっている。

 ヒトの気配がなく、扉には『準備中』の札がかけられている。

 サナは病院から帰ってくると、いったん自宅に寄ったあとここに来た。

 扉を開ける。

 カラン。

 ベルが鳴った。

「おかえり。サナちゃん」

 カウンターの内側。厨房になっているその場所に中学生くらいの女の子がいた。

 女の子の左頬には大きな火傷の痕がある。この子はコンという名前だった。

「大変やったね」

 コンのおっとりした声を聞きながらサナはいつものカウンター席に座る。

「しばらく、漫画描けない」

 サナの声は沈んでいた。いつもの場所。カウンターテーブルの上には、漫画用のインクのシミができている。

「サナちゃん、貧血で倒れちゃったんやって?」

 サナはうなずく。

「うん。私が、お肉とかお魚を食べなかったから……」

 コンは少し考える。

「なぁ、サナちゃん。豚の生姜焼き、お昼につくってん。ちょっとだけ食べてみる?」

 サナは三角形のキツネの耳を出し、左手でそれをフニャフニャ触る。

「うん。ちょっと食べてみる」

 コンは冷蔵庫からサランラップのかけられた皿を取り出した。のっていたのは豚の生姜焼きだった。

 コンはほんのひとかけら、親指の爪ほどの量を味見皿にのせて、フォークと一緒にサナの前へ。

 サナはそれをしばらくそれを見つめた後、口に運んだ。

 おおよそ二年ぶりに味わう肉の味。噛み締めると油が染み出る。

 そして思い出す。


 二年前まで、サナは京都で暮らしていた。

 化けギツネであれば、一般的に呪術とか魔法とか呼ばれる力を必ず持っている。

 サナは特に強い力を持って生まれてきた。両親やきょうだいとは比べ物にならない強い力を。

 だから、親元を離れ、京都のある化けギツネ一家の元で暮らしながら、稲荷大社で正しい力の使い方を学んでいたのだ。

 ある日、親友の女の子が大怪我を負い、サナは彼女を助ける為に当時飼っていたニワトリのピィちゃんを贄として食らい、強力な術を使ったのだった。

 女の子は一命をとりとめたが、サナは心に深い傷を負い、故郷である若桜町へ帰ったのだった。


 肉を噛むことでサナの脳裏に蘇る。


 神獣としての真なる姿、馬ほどの体躯のキツネとなり、ピィちゃんに食らいついたあの日。

 生暖かい肉と、口いっぱいに広がる鉄くさい血の味。

 チクチクと口の中を刺す羽毛。

 コリコリとした骨。

 口の中で一つの命がグチャグチャになりながら死んでいく感覚。

 そのとき、一瞬だけ……。


 サナは吐き気を覚えて、口元を押さえた。

「サナちゃん、大丈夫? しんどかったら吐いて」

 コンの声が聞こえる。

 しかし、サナは首を横に振ると無理やり肉片を飲み込んだ。

「大丈夫。大丈夫だけど……、やっぱり、駄目だ……」

 サナの声は沈んでいた。


 サナが落ち着くのを待ってから、コンは尋ねる。

「ココア飲む?」

 サナのこたえを聞かず、戸棚からマグカップを二つ取り出すと、それぞれに半分ほど牛乳を入れた。

「やぱり、私……」

 サナの声は震えていた。

 電子レンジに牛乳を入れたマグカップを入れる。

「サナちゃん、知ってる?」

「……なに?」

「確かに、栄養のバランスっていうのは大事やけど、同じくらい楽しく美味しく食べることも大事なんやで。栄養だけ考えるんやったら、サプリメントでええんやし」

 電子レンジがチンッと音をたてる。

 マグカップを取り出すと、ココアパウダーを入れ、スプーンでよくかき混ぜると、冷たい牛乳をカップいっぱいにまで注ぐ。

「はい、どうぞ」

 コンはカウンターテーブルに片方のカップを置く。

 サナはそっとココアに口をつけた。

 甘さで肉の味が上書きされていく。

「美味しい……」

 サナは呟く。

「ココアは貧血に効くんやで」

 コンは手元に残したもう一つのカップのココアを飲む。

「いつもココア飲むか聞いてくれるのって……」

「うん。貧血対策も多少考えてた。サナちゃんが甘いもの好きっていうのが一番の理由だけど」

「コン……ありがと」

 コンは首を横に振る。

「頑張ったけど、上手くいかんかった。ごめんな、サナちゃん」

「……コンは、悪くないよ謝らないで」

 サナは「でも」と言って、立ち上がる。

「今日は、先に帰る」

 店を出ていった。

 カウンターテーブルの上に、一口しか飲んでいないココアが残された。


 夕方、コンは店を閉めると、徒歩で五分ほどの距離にある家へ。木造二階建ての築八十年。ここが、サナの家であり、現在はコンの家でもある。

「ただいま帰りました」

 ガラガラと引き戸を開けると、玄関にサナの靴があった。

「おかえり。今日もお疲れ様。コンちゃん」

 迎えてくれたのは、サナの母——ノノだった。

「晩ご飯の準備は私がするから、お風呂入っておいでよ。今日、暑かったでしょ? 汗流してさっぱりしておいで」

 ノノはそんなことをいった。

「へ、でも私、汗かかないですし……」

「いいから、いいから。ねっ」

 どうにもノノは譲りそうにないので、コンは戸惑いながら「はあ、じゃあ、お風呂いただきます」と言った。


 コンが寝巻とタオルを持って脱衣所に入ると。

「へ?」

「あっ?」

 そこにサナがいた。

「お風呂……入るのか?」

 サナは気まずそうに目を伏せる。

「うん。ノノさんが入っておいでって」

「私、一人だとシャワー浴びにくいからお母さんが一緒に入ってくれるって言ったんだけど……」

 サナとコンは顔をみあわせた。


 バスチェアに座るサナ。右腕のギプスにはビニールのカバーを被せている。

 それでもコンはギプスを濡らさないように気をつけながら、サナの髪をシャワーで濡らす。

「お店、しばらく手伝えないと思う。ごめん」

 サナは水音にかき消されそうな声で言った。

「ええよ。気にせんといて」

 コンはシャワーを止め、サナの髪にシャンプーをつける。

「コン。

「サナちゃん、だいぶ髪伸びたな。伸ばしてんの?」

 サナは首を横に振ろうとしとして、髪を洗ってもらっていることを思い出し止める。

「切ってもらうのが面倒くさくってこうなっちゃったんだ。でも、暑いな」

 サナは前髪をつまむ。

「私が切ったげよか?」

 コンはシャンプーを流すと、丁寧にコンディショナーを塗っていく。

「……そうだな。そのうち、頼む」

 コンは「うん」とうなずいた。


 その日の深夜。

 他の家族がみんな寝静まった中、リビングの灯りがついていた。

 そこにいたのはコンとノノだった。

「そっか。そんなことがあったんだ」

 ノノはグラスを口につける。

 中に注がれていたのは、澄んだ水のような液体。日本酒だった。

「私、サナちゃんに嫌なこと思い出させちゃったのなかな?」

 コンはうつむき、言った。店でサナに肉を食べないかと進めたことを思い出す。

「コンちゃんじゃないの」

 言葉の意味がわからず、コンは顔を上げた。

 ノノは言葉を続ける。

「サナのことを背負わなければならないのは、私とお父さんなの。でも、実際にはコンちゃんに背負わせちゃってる。ダメだなぁ。私たち」

 ノノはそう言って酒を煽る。

「サナちゃんは、私は私、ノノさんはノノさんだと思ってると思いますよ」

 コンは言った。

「ねぇ、コンちゃん。こんな話しの流れでなんなんだけどさ、一つ、お願い聞いてくれない?」

「お願い……ですか?」

「臆病な私に、勇気にください!」

 ノノはテーブルに手をつき、頭を下げる。

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