コンと狐と咲は夏景の花便り(コンと狐とSeason7)
千曲 春生
第1話 夏の入り口の話
兵庫県の尼崎駅と京都府の福知山駅を結ぶ福知山線。
八年か九年前に国鉄がJRに変わっても、関西と山陰を結ぶその役割が消えるはずもなく、この夜も、轟音と共に夜行列車が走っていった。
赤い凸型のディーゼル機関車と、それに引っ張られる五両の青い客車。最後尾には列車名である『だいせん』の文字があった。
三号車。
二段ベットがずらりと並ぶ車両のデッキに、一人の少女が立っていた。
少女は小学校高学年くらいの外見で、額に傷跡があった。
この少女の名前はサクといった。
サクは出入り口の小さな窓から外の景色を眺める。
人間には夜の闇しか見えない窓の外。しかしサクには、昼間とほとんど変わらず、流れる景色が見えていた。
オルゴールの音に続いて、車掌さんの放送が入る。
『ご案内いたします。夜も遅くなり、お休みのお客様もいらっしゃいますので、緊急時を除きこの放送をもちまして、翌朝、安来駅到着まで放送によるご案内を中止させていただきます。それではごゆっくりお休みください』
そして、再びオルゴールが鳴り、車内は静寂に包まれた。
サクは変わらず、窓の外を見つめる。
「サク様、眠れませんか?」
そこに、サクたちのお世話係の女性がやってきた。
「はい。寝台列車ってはじめてなので。明日の朝、寝過ごして降り遅れたらどうしようって、不安で」
サクはそう言って、子供らしい笑顔をお世話係にむけた。
「大丈夫ですよ。ちゃんと鳥取駅に着く前に、私がおこしますから。ノノ様とミウ様も眠れないご様子で、むこうのデッキにいらっしゃいますよ。サク様も行かれては?」
お世話係の提案に、サクは首を横に振った。
「いえ。二人っきりのところ、邪魔しちゃ悪いですから」
「そうですね。二人っきりにしておきしょうか」
ミチヨとサクは、お互いにうなずきあった。
列車は山陰地方にむかい、走っていった。
――二十数年後
日本。山陰地方。鳥取県、鳥取市。
七月の上旬。
セミの鳴き声が響く中、ある大病院の診察室。
男性医師と、養護教諭のチエミ、それから小学校高学年くらいの女の子がいた。
女の子の右の前腕部はギプスがつけられて、三角巾で首から吊っている。
この子の名前はサナといった。
「折れてるね」
医師はサナにパソコンの画面を見せる。
パソコンに写っていたのはサナの右腕のレントゲン写真。前腕部の二本の骨の片方――
「骨折は治るし、後遺症もないと思うよ。利き手だからしばらく大変だと思うけど我慢してね。まぁ、サナちゃんだし大丈夫でしょ」
医師の言葉を聞きながら、サナは右腕のギプスに目を落とした。
遡ること一時間ほど前。
鳥取市から東へ行った場所にある
小学校と中学校が統合された学校の六年生の教室で、サナは額を机の天板にペタリとつけて、うなるように言った。
「あ~つ~い~」
「サナちゃんって、暑いの苦手だよね」
苦笑いを浮かべながらサナを見つめるのは友達のリンコ。
「机、冷たい」
サナは短くこたえる。
「うちのツナヨシも最近そんな感じで、フローリングにお腹くっつけてずっと寝てるな」
やってきたのは、同じく友達のアカリだった。
「ツナヨシって誰だ?」
サナはちょっと顔をあげる。
「ウチの飼い犬」
「私は犬じゃない」
再び、机に額をくっつける。
「こらこら。次、音楽室。そろそろ準備しないと遅刻しちゃうぞー」
アカリは持っていたリコーダーでサナの後頭部をつつく。
「わかったよ。準備する」
サナは気だるそうな動きで机から音楽の教科書とリコーダーを取り出す。
ふと、リンコがジッと見つめていることに気付いた。
「なんだ、リンコ」
リンコは迷うように視線を泳がせた後。
「サナちゃん、お手」
サナにむかって手を出す。
「私は、犬じゃない!」
サナはその手を叩いた。
サナ、リンコ、アカリの三人で廊下を歩く。
「リンコは今年も東京帰るの?」
アカリが尋ねた。
「うん。東京のお祖母ちゃんの家行くよ」
リンコはこたえる。
「いいな。私、本家だから帰省旅行なんてしたことないよ。まあ、親戚一同、うちに来るのも楽しいといえば楽しいんだけど」
アカリはぼんやりと言ってから、ふと何かに気付く。
「そういえば、サナってどうなの?」
「どうって?」
「サナの親戚の話。聞いたことないなって思って」
サナは少し考える。
「お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもこの町の出身らしい。両方、私が生まれる前に死んじゃったから、よくわからない」
アカリは「ふ~ん」と言った。
階段に差し掛かる。音楽室は上の階だ。三人は階段を上りはじめる。
まもなく踊り場に差し掛かろうとしたそのときだ。
サナは違和感を感じた。
何か、フワフワと揺れているような感覚。
地震だろうか?
サナは立ち止まる。
「どうしたの? サナちゃん」
リンコの声が遠く聞こえる。揺れは大きくなり、体に力が入らなくなる。
重力に引っ張られ、サナは後ろに倒れる。
「サナ!」
アカリが慌てて手を伸ばすが、サナを掴むことはなかった。
サナは後ろ向きに倒れると、そのまま階段をゴロゴロと転がり落ちる。
そして、一番下でやっと止まった。
遠のきかけていた意識が、痛みによって引き戻される。
右腕に激痛が走った。
息ができないほどの痛みだった。
自分が今、どんな体制なのかを考える余裕すらない。
「リンコ、保険室! 先生呼んできて!」
アカリが叫ぶ声が聞こえた。
サナは荒い呼吸を繰り返しながらも体をよじり、右の前腕部、激痛のはしる場所を左手でおさえる。
アカリが見ているが、構っている余裕はなかった。
サナの左手が光り、痛みが和らぐ。
が、それも一瞬のことだった。
またすぐに痛みに襲われる。
サナは苦痛に
「サナ、先生すぐ来るからな」
アカリの声が聞こえた。
ほどなくして、リンコは養護教諭のチエミを呼んできてくれた。
サナは担架で保健室へ運ばれた。
「折れてるかもしれませんね。病院へ行った方がいいです。救急車呼びます。」
チエミは応急処置をすると、119番通報をした。そして、棚にあった分厚いファイルを開く。
「ええっと、サナさんのかかりつけは……県立病院ですね。ここに搬送をお願いしましょう」
こうして、サナは救急搬送され病院へとやってきた。
「治るまでキツネの姿にならないでね。ちょっとごめん」
医師はそう言いながら手を伸ばし、サナの下のまぶたをめくる。薄いピンク色だ。
「駄目なんですか?」
「うん。耳とか尻尾を出す程度ならいいけど、完全にキツネになっちゃうとギプス外れちゃうし、人間の姿のときとは違う負荷のかかり方がして、悪化するかもしれないから」
医師はサナのまぶたから手を離すと、パソコンにむかい何かを入力しはじめる。
「貧血だね。倒れた原因」
「貧血……なったことなかったのに」
サナは自分の左手を見る。爪の付け根も白っぽいピンク色をしている。
「二次成長期だからね、貧血になりやすいんだよ。そっちの薬も出しとくね。サナちゃんの事情もわかってるけど、医者としての立場で言わせてもらうと、栄養のある食事をとってね」
サナは医師から視線を外しながら、小さくうなずく。
診察と治療が終わると、サナはロビーの椅子に座る。
「お母さん、すぐに来てくださるそうです」
チエミ先生は手に持ったスマホを振りながら言った。
「迷惑かけて、ごめんなさい」
サナはチエミの様子をうかがうように見る。
「私は、保健室の先生、ですよ。ひとまず、学校にも連絡してきますね」
チエミは笑顔を浮かべたあと、ロビーを出ていった。
残されたサナは、左手で患部を撫で、大きなため息をついた。
そのときだ。
「ごめんなさい。お隣、いいですか?」
突然、声をかけられた。
三十代から四十代くらいの女性だった。
入院着を着て、点滴スタンドを持っている。そして、額には古い傷跡があった。
ロビーはヒトが多く、サナの隣以外に椅子は空いていない。
「はい。どうぞ」
サナが返事をすると、女性はゆっくりと座る。
その途端、サナはフワリとした香りを感じた。どこかで嗅いだことがある気がする、とても懐かしい匂い。なんだか心が落ち着く。
「あなたも、キツネなのね」
女性はおっとりとした口調で声をかけた。サナは小さくうなずく。
「あなたも、化けギツネですよね」
サナが尋ねると、女性は「うん。そう」とこたえ、こう続ける。
「ちょっと散歩してたんだけど、疲れちゃって。腕、怪我しちゃったの?」
「はい。階段から落ちちゃって」
「ちょっとごめんね」
女性はサナのギプスにそっと触れた。すると、女性の手が微かに光る。
「今、ここで治してあげられるほどの“力”はないんだけど、こうすれば痛みもましになるし、はやく治るはずだから」
やがて、女性の手の光は消えた。女性は手をひっこめる。
「ありがとうございます」
サナは確かめるように、ほとんど動かせない右の指を動かしてみる。
「うん。いいよ」
そのとき、サナの胸が女性の目に留まった。学校からそのまま運ばれてきたから、名札が付きっぱなしになっていた。
『6年 長尾 咲花』
女性はそれをジッと見る。
「あの、どうかしましたか?」
たまらずサナは尋ねた。
「ねえ、よかったらあなたのお父さんとお母さんの名前、教えてくれない? 私、知ってるかも」
女性の声は、さっきまでより幾分か弾んでいるような気がした。
「えっと、父が長尾ミウ、母がノノです」
サナの返事を聞くなり、女性は「うん、うん。そっか、そっか」と何度もうなずき、こういった。
「じゃあ、あなたは私の姪っ子ってことだね」
「姪?」
「うん。私、秦守サク。サナちゃんのお父さんの妹、つまり叔母さんだね」
サクと名乗った女性は、サナにむかってニッと笑った。
「ねえ、サナちゃん。お父さんとお母さん、仲良し?」
「え、あ、はい。喧嘩してるとこ見たことないです」
「サナちゃんのお父さんとお母さん、昔は喧嘩ばっかりだったからちょっと心配してたけど、よかった、よかった。ちゃんとお父さんとお母さんなんだ」
サクは点滴のスタンドを支えに立ち上がる。
「ちょっと疲れちゃったから病室に戻るわ。また会おうね、サナちゃん」
そう言い残して、女性は去っていった。
緑色の稲が天を目指す初夏の田んぼ。
その田園風景の中のまっすぐな道を一台のジムニーが走っていく。
ハンドルを握っているのはサナの母。
そして、助手席にはサナ。
「うちの子で、アンタがはじめてじゃない? 骨を折ったの」
母は軽い調子で言うが、サナの表情はうかない。
「私がお肉もお魚も食べたくないって言ってきたからこうなっちゃったんだよな」
サナは左の指先で唇をなでる。
「いいか悪いかなら食べた方がいいだろうけど、サナの場合、好き嫌いでも、無理にダイエットしてるわけでもないんだから、自分を責めないで」
母は前を見ながら言った。
「でも、私が変わらなきゃいけないんだよな」
ジムニーは緩やかなブレーキングで、信号のない横断歩道の手前で止まった。幼稚園くらいの子供を連れた女性が会釈しながら横断する。
「焦っちゃ駄目よ、サナ。ゆっくり行きましょう」
母はジムニーを発進させた。
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