タとえ最期に見えたのは

深夜三時、ついにわたしは殺される。

寝不足でクラクラする頭は死への恐怖なんて感じていないようだ。

わたしは糸を引かれる傀儡のように彼の後についていく。

薄暗い階段を降りて、彼が手にする懐中電灯の明かりを頼りに長い廊下を歩いた。

肉体が睡眠を欲して、少しだけ軋む。

左右にユラユラと揺れてしまって思い通りに動かない身体で、わたしは必死に歩を進める。

下がりそうになる瞼を気合いで見開いて、睡魔と疲労で鈍りきった思考回路を回す。

墓場まで持って行くつもりだったけど、せっかく話し相手がいるのだ。

わたしの不運を彼に分けてやるのも良い気がした。


「ねえ、あなたは、愛する人に愛して貰えない辛さが、側にいて欲しい人が自分から離れてしまう悲しみが、自分の求めるものを大勢の人間は簡単に手に入れているという事実を直視する苦しみが、分かる?」

「よくわからない、けど、そうだな。欲しいものがすべて手に入る人間の方が珍しいんじゃないかな」

「……でも、求めてしまうのは仕方ないじゃない。羨ましいのよ……」

「そうだろうね。人間は強烈な体験をすると心がその地点に縛り付けられてしまう。身体は自由でどこにでも行けるはずなのに、感情だけは遠い場所にある。そういう体験は誰にでもある」

彼は足元の明かりを揺らしながら答える。


「キミは、ずっとさみしかったのかな」

ひどく平坦なテノールボイスに、視界が揺れて一滴の涙が頬を伝う。

否定しようにも舌がもつれて上手く声にならない。

寒い、夏なのに寒くて堪らなかった。

あまりの寒さにかたかたと手が震える。

雪で覆われたみたいに身体が冷えて、心臓が苦しい。

彼は鉄製の扉の前で立ち止まると、わたしの方を振り向く。

「着いたよー」

長い道のりに、彼は顔を上気させ、珠のような汗を浮かべていた。

彼はズボンのポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込んで解錠すると、重そうな扉を両手を使って開ける。

中は天井に古びた電灯がぶら下がり、室内を申し訳程度に照らしていた。


奥の方には刑務所を思わせる鉄格子があって、中に何があるかは暗くてよく見えない。

横には沢山の医療器具や農具のようなものが置かれている。

磔に使うのだろうか、拘束具付きの木製の十字架がベッドのように横たわっている。

彼とわたしが入った地下室は元々は拷問部屋であり、昔は儀式的な殺人が行われていたと彼は語った。

「そ、そんな昔からあるんですか……?」

「邪魔な人間はいつの時代でもいるんだろうね。色々と都合があるんだ。ああ、キミはそこに横になってね」

彼は十字架の台上を指さす。

わたしがおそるおそる台上で仰向けになると、彼はわたしの首と手足を拘束具で固定して調理の準備を始めた。


わたしの手の指を一本ずつ固定して動かなくする。

これで、わたしは手を握りしめることも出来なくなった。

彼は壁に掛けられた刃物を取り外して、調理器具を吟味している。

首から下が動かないので、眼球だけを動かして彼の姿を追いかけた。

「……こんなこというのもなんだけど、きっと、キミはその人のことが嫌いなんじゃないかな。そもそも、身を滅ぼさないといけない愛なんてある訳ないんだからさ。キミは愛という言葉を利用して不満や憎悪の感情を押し込めるべきじゃなかったんだよ」

「……嫌い?わたしが……嫌い、嫌いって誰、を……」

わたしは息をゆっくりと吐いて、胸の動悸をひたすら耐える。


これ以上、彼の言葉を聞きたくないのに手が拘束されているから耳を塞ぐことも出来ない。

「上手く言えないけれど。きっとキミが無理にその人を愛さなくても、その人は死んじゃったりはしないんじゃないかな」

「は、はは……は、……そう、か、そうよね。そうかも。母親はわたしからの愛なんてなくても死んだりしない。分かってる。だから、遺書なんて書かなかった。わたしが愛する必要なんてない。知ってるわ。そんなこと。わたしが……なんで今更、……」

わたしは下唇をぎゅっと噛んだ。

産まれて初めてわたしは自分の気持ちを認めたのだ。

それまで押し殺していた気持ちが噴き出した。

止まったはずの涙が目からだらしなく溢れる。

頰を伝って耳元に溜まり、台上に広がる髪を濡らす。


刃物を片手にわたしに近寄ってきた彼は、冷たい刃で濡れた頬をぺたぺたと軽く叩く。

彼はわたしを持て余したかのように黙っていたが、やがて、ゆっくりとわたしの髪を撫で始めた。

「怖いんだろう。大丈夫だよ。心配しなくても、キミが特殊なわけじゃない。この台の上で横になると、みんなそうなる」

「わたしの死神さん。あなたの名前を教えてくださいよ」

明るい声を装って聞くと、少し悩むように目を逸らしてから仕方ないなとばかりの表情で彼は答える。

「薊(あざみ)」

「薊、さん……薊さん、薊さん」

わたしは走馬灯のように昔、植物図鑑で見た薊を思い出して、あの紫の花が風に揺れているところを空想した。


まるで女の子みたいな可憐な花の名前は、中性的な彼には良く似合っている。

「心配しなくても、怖くない。僕がキミをずっと覚えてる。キミはずっと幸せな世界で生きられる」

「薊さん、わたしを必ず幸せにしてくださいね」

「約束するよ、最初はいくらか痛いかもしれないけど……」

言ってから、少しだけ後悔したようにごめんねと続けた彼に微笑んでみせる。

「大丈夫ですよ。幸せには対価が必要なんです。分かってます。死の恐怖なんか比べ物にならないくらい、薊さんはわたしを幸せにしてくれるんでしょう?そうでしょう」

きっといつか母親はわたしのことを愛してくれるという、僅かな望みに縋って生きていた。

わたしに対する顔と、男相手に対する顔はいつも違っている。


母親は、もうずっとわたしのいない世界で生きていた。

きっと母親に愛されたら、この空虚感は埋まる。

価値のある存在になれるはずだった、何を擲ってでも価値のある存在になりたかった。

「ああ、わたしは幸せになりたいんだ」

だから、若いうちに死ぬことにしたのだ。

無価値に生きるということが、わたしにとってどれだけの苦痛か、きっと誰にも分からない。

怯えと憎しみに歪む視界で、天井を睨んだ。

目の前の死神は、わたしの首筋に鋭利な刃を突き立てながら、言った。

「今更こんなことを言うのも、おそいのかもしれないけど。価値がないと生きていちゃいけないわけじゃないんだから、無理して価値のある存在になることも、なかったんだよ」


▼ E N D

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ヒトを救うようにはできていない ハビィ(ハンネ変えた。) @okitasan

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