ケれど応える術はもうないというのに
わたしの母親はちょっとオカシイことで有名だった。
長い脚を投げ出すように歩く様は無愛想なのに綺麗な横顔がモデルみたいで、一人でいると近寄り難い雰囲気があるけれど話せば案外人懐っこくて、好いた人には子供っぽい好意と熱烈な独占欲を全面に押し出す。
血の繋がった実の親子なのに、母親とわたしは似ても似つかない。
甘ったるいかんばせを持ちながら、庇護してくれる男がいないと生きていけないカワイイ女。
地元でわたしの母親と関係を持っていた男性は少なくなかった。
とんでもない淫乱女である。
母親は家にいる時はわたしを異常に束縛してくる毒親で、どうしてかわたしもそんな母親を愛していた。
彼の家に着いたのは、歩き始めて四十分ほど経った頃だ。
紺色の屋根のコテージを見上げていると、彼はさっさと背を向けて手にした死体と共に木製の扉の中に吸い込まれてしまった。
しばらく、ぼんやり突っ立っていると彼は再び家から出てきて、わたしの手を引いた。
「もっと見ていたかったのに」と嘘でも本心でもないことを呟いてみる。
「ダメ。じっとしてたら、キミが木偶と間違われて蚊に刺されるよ。蟻にも齧られる」
「蚊も蟻も、木偶には興味が無いのではないでしょうか……」
「キミは昆虫博士なのかな?いいから中に入りな。明日の朝にはキミはこの世に居ないんだから、不用意に誰かに見られたら困るよ」
玄関を入ってすぐ右手にダイニングテーブルと四つのダイニングチェア、右壁側の両端にはガラス製の窓、真ん中にはカレンダーとエアコン、奥には三畳ほどのキッチン、左手に階段と隣の部屋に繋がっているのであろう扉、左壁側には一枚の大きな絵画が飾られていた。
絵画は優雅な衣服に身を包んだ夫人の姿が、色鮮やかなパステルの輝きを伴って絢爛豪華に描かれている。
享楽的な貴族の甘い倦怠を醸し出す名画は、このコテージにはなんだか不釣り合いだった。
確か、この絵の名前は。
「年代は千七百五十五年、フランスのロココ期の画家モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールによる、ポンパドゥール夫人の肖像……の複製。本物はルーブル美術館にあるけど、キミが見ることは無いだろうね」
「まあ……詳しいですね。あなたも絵が好きなんですか」
「ちがう、読めない文字が多すぎるんだ。世界には言葉が多すぎる。人間は人間に恋するわけじゃない。星や光という着飾った言葉に恋してる。だから、言葉が溢れかえってしまう」
「はあ……なるほど」
「それに、この絵は知り合いが勝手に置いていったもので、僕は受け売りのような知識しかない。無知なんだ。本を読まないからね」
彼は自嘲するわけでもなく、実にあっけらかんとしていた。
「……知識が足りないって怖くはないですか?」
「無知は罪じゃないし、人間は誰もが幸福であるべきだよ。自らが愚かであることを選択して良い。井戸の中の蛙である権利は誰もが持ち得て然るべきだと思わないかな」
「あなたの話すことは、わたしの問い掛けとはちょっとズレてるような気がします……」
「救ってやるってことだよ。僕はキミの死神だ」
やはり返答はどこか噛み合わない。
わたしは再び複製絵画に目を向ける。
幼少期、母親と行きたかった展示会の存在を思い出した。
最寄り駅から電車で二十分ほどの場所にあるデパートの中の小さな美術館で一ヶ月間ほど行われた展示会だ。
展示内容は宣伝チラシからの知識しかないけれど、印象派画家クロード・モネの睡蓮がフランスのカーネギー美術館から日本に来ていた。
どうしても見に行きたかったわたしは勇気を振り絞り母親に「美術館に連れて行って欲しい」と必死で強請ったのだ。
その日は、たまたま母親の機嫌が良かったのだろう。
にこやかに快諾してくれた母親はまるでマトモな人みたいだった。
わたしは嬉しくて嬉しくて、やっとフツウの親子みたいなことができると信じ切っていたのだ。
わたしは知識を蓄えるために学校の図書室で図録を読み漁って、美術館の展示巡りの最中に母親に披露してあげようと思った。
知識は力だ。わたしだってオトナの知識さえあれば、不自由な母親を助けられる。
わたしは母親を支えられる存在になりたい、叶うなら母親のオトウサンになりたかった。
そうしたら、きっと母親はどこにも行かず飽きるほどわたしの傍に居てくれるに違いないのだ。
母親は情緒不安定な人で、時々わたしの前でも小学生のような立ち振る舞いをする。
結局、その時も当日に母親が癇癪を起こしてしまい、美術館に行く予定は駄目になった。
昔からそうなのだ。母親はワガママで無責任な人で、自分の都合でしか動けない。
ふと窓の外を見れば、既に辺りは黄昏初め、東の空に宵の月がかかっている。
透き通るような青色は鮮やかな茄子色に変わっていた。
彼は冷蔵庫から二枚のハムを取り出して、わたしに差し出す。
「えっ、と……え、これは、何の肉……?」
わたしが数歩後ろに下がり距離を取ると、微かな困惑を浮かべて彼は笑う。
白と黒で統一された出で立ちの、白い部分である長髪が照明の青白い光を綺麗に受け止めている。
「ハムだよ、知らないかな?豚肉だよ。お腹すいてるかなって」
わたしは腹部をさすって少しだけ考えた後、首を横に振った。
「いらないです。これから死ぬ人間に対して、食べ物を与えるなんて無駄な行為ですよ」
「そうかな。でも、そんなことを言うと人間は無駄な行為しかしてないよ。価値がある行為なんてほんの僅かだ。大勢の人間が無責任に生まれて無価値に生きて無意味に死ぬ。それに、最後の晩餐って言うじゃない」
「いいです。いらないです。大丈夫です」
わたしの言葉から若干の嫌悪が感じ取れたのか、彼は「ならいいよ」と微笑んでから手にしていたハムを半分に折り曲げて二枚とも一口で食べてしまう。
指についた脂を舐める動作は猫科の動物みたいだ。
「わたしのことは、いつ殺してくれるんですか?あなたの方こそ空腹なのでは?」
彼はぽかんと口を開けて呆けた顔をして、小首を傾げる。
「そうだった。キミは二番目。あの死体、今から解体して冷やしてくる」
彼はわたしに言われてやっと存在を思い出したとばかりに言った。
人間が人間を解体する場面なんて見たことがない。
わたしの中で好奇心がもぞりと動く。
「見てもいい?」
わたしの質問に彼は目を細めて、厭らしく笑う。
「……えっち、ダメ」
「えっ」
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