あなたに逢いたい

猫屋敷 中吉

第1話



     



     ー あなたに逢いたい ー




 薄雲に淡く光る朧月おぼろづき

 今にも泣き出しそうな夜空の下、この時期特有のジメる空気が不快だった。


 そんな大都会の片隅で、小さな少女が駆けている。脇目も振らず、無関係が根付いた人々を器用に交わして走りさる。


 その瞳の奥に強い意志を秘めながら。




「キライ!みんな大ッキライ‼︎」


 私は裸足のままで飛び出した。着の身着のまま飛び出していた。

 こんな家二度と帰るもんか!って、私は夢中で走った。

 町の喧騒を通り過ぎ最寄り駅に飛び込んだ私は、改札口を駆け抜けホームまでひたすら急ぐ。


「コラッ、待ちなさい!」


 駅員さんが私を追いかけてくる。

 私はお金なんて持っていなかったから、そのまんまの意味でお金も払わず、改札を駆け抜けてきた。


 どうしよう。


 困っていたらタイミング良く、ホームに電車が入って来て私はどこ行きかも知らずに、電車に飛び乗っていた。


 ほどなくして、発車のベルが鳴り電車は走り出す。


 駅員さんはホームの中をキョロキョロ首を振り、私を探してる。

 そして私は、荒い息のまま隠れるように座席の隅で小さく丸くなる。

 行き先の分からない電車に私の目的地を委ね、ひとり静かに眼を閉じた。


 どこでもよかった。

 あの家から離れることが出来るなら、どこでも。


 あれから電車に揺られること1時間。

 次の駅が終点と車内にアナウンスが流れた。私も知らない、私の目的地が決まった瞬間。


 家を飛び出したのが夜の9時過ぎ。

 もう、結構な遅い時間になる。終点の駅で電車は暫く止まったままなので、私も暫く電車の中にいた。

 

 まだ動けない。

 人がいるから……。

 なにを隠そう、私は人がキライだった。


 近くに来られるのも、話し掛けられるのも。

 触れられるなんてもっての外だ。


 そんな私が家出って、ハハ。

 向こう見ずのバカじゃん。


 でも、耐えられ無かったんだ。兄弟達からのイジリやイジメに。毎日、毎日、飽きもせずにアイツら。

 私がまだ小さいからって、叩いたり引っ掻いたり。挙句に弱いから何をしてもいいだろって、バカじゃん。



 だから私は自分で生きる事にしました。


 サヨウナラ、みなさん。


 もう二度と会うことは無いでしょう。


 ゴキゲンヨウ。



 ってね、家出してやった。

 彼等もセイセイしてるんじゃないかな?

 なぜって、だって私がしてるもん。


 ホームから人の気配が消えて、やっと少女も歩き出す。

 

 凛とした表情でホームを後にする少女。

 彼女は小さな夢を抱いていた。

 ささやかでも愛に溢れた幸せな未来をと。



♦︎♢♦︎♢♦︎



 駅を出て町の様子を眺める。

 人もまばらな駅前で、瞳を輝かせる少女が佇む。

 もしかすると、暫くお世話になる町かもしれないからと、期待に胸を膨らませて。


 三秒後。ややどんよりした表情へと変わる。


 ん〜、薄暗い。 

 昭和レトロって感じ、かな。

 理想とは少し違うけど……贅沢も言ってられ無いし、仕方ない。


 キラキラした町並みを想像していた少女。

 だけど実際降りた町が古臭い雰囲気の町で、多少テンションが下降気味になる。


 駅前はこんなんだけど……いや、奥に進めば、もしかしてもしかするかも。


 一縷の望みを懸けて、再び歩き出す。

 駅前から伸びる商店街を進む。

 道幅も狭くせせこましくも感じるが、国道を挟んで片側づつ20件程の商店が連なっている。


 商店街を散策がてら歩いてみるも、時間帯の所為かその殆どの店がシャッターを降ろしていた。

 開いてるのは、コンビニとマックと居酒屋さんぐらい。侘しい。あっ、スナックもやってる。


 スナックの横を通り過ぎようとした時だった。

 丁度そのタイミングで、運悪くスナックから客の一人が出て来たんだ。私は客のオジサンと目が合う。


 そのオジサン、私に触ろうとしたんだ。

 私をひと睨みして、近寄って、何か言いながら私に腕を伸ばしてきた。


 体ごと飛び退いて躱したら、オジサン不思議そうな顔をしている。

 すぐにお店からホステスさんらしき女性が出て来て、オジサンは鼻の下を伸ばしながら一緒に戻っていったけども。


 オヤジッ、うざキモい死ねっ! って感じ。

 いや〜危なかった〜、いやマジで、いやマジでっ!


 商店街を抜けて住宅街をトボトボ歩く。

 小さな公園が見えて来た。お金も無いし仕方ない、今夜はここで野宿かな。


 私は公園のドーム型遊具の中で横になった。

 はぁ、お腹すいたなぁ。


 次の日。

 私はまだ遊具の中にいた。

 なぜなら……今日は雨だから。


 私は雨もキライだった。

 

 雨で体が濡れるのが苦手なの。

 だって気持ちが悪いんだもん。

 迂闊だったぁ。今は梅雨真っ盛りだったぁ。

 そんな時に家出なんて……私ってバカ真っしぐら。あーあ。お腹すいたなぁ。



 夕方まで続いた雨もやっと小降りになってきて、私は食べ物を調達すべく思案していた。


 マックやコンビニの裏に行けば、何か廃棄された食べ物があるかもと、無い知恵を絞って。

 イザ!と、意気込んで行ってみるも、廃棄品は既に回収された後。

 アッチの店もコッチの店も……。何にも無かった。


 トボトボと公園の遊具に戻る。はぁー、収穫ゼロ、お腹すいたなぁ。

 

 遊具の中からスッキリ晴れ渡った夜空を見上げると、雨の後で空気が澄んでいる所為か、星が良く見えた。


 銀砂を散りばめたような夜空はとてもキレイで、とても輝いてて、とても美しくて、だから今の私がとてもミジメに思えて。


 私は声をあげて泣いていた。



「……大丈夫?」


 音が、声が心に沁みた。

 滲む視界に細面の若い男性の影。

 遊具を覗き込んで心配そうに声を掛けてくれた人。その優しい声に、その優しい瞳に、私は泣きながらその彼に抱きついてしまっていた。


 人嫌いの私が、彼に抱きついていた。


 急に抱きつかれて彼も驚いている。

 周りをキョロキョロ気にする彼。またすぐに優しく私に微笑んで。


「とりあえず、何かあったかい物でも食べよっか?」


 私がコクンッと頷く。

 すると彼は私を優しく抱きあげてくれた。そして自分のアパートへ招待してくれた。


 夢中でご飯を頬張る私。

 彼が用意してくれた夕ご飯がとても美味しくて、おかわりまでしちゃった。


 私が食べ終わるまで彼は隣で静かに待っいてくれて、私が知ってる人達とはチョット違う雰囲気の人だった。


 あったかいって言うのかな? そんな感じの人。


 ごちそうさまでした、って言ったら彼はまたニコッと微笑んでくれて、その笑顔が可愛いくて。

 私は生まれて初めて安らいだ気持ちにさせられた。


 彼が私を見つめる。


「……ゆきちゃんでいいの? 名前」


「えっ!なんで知ってるの?」


「名札……」


「あー」


 私は着の身着のまま、そのままの格好で飛び出してきたから、思いっきり名札が付けっぱなしだった。あー、私の個人情報、早くも露見。……恥ずかしい。


「でも、名前は分かったけど。住所が……消えてるね」


 名札の裏にあった住所がバリバリに削られ、消えていた。


 う〜ん、イジメられてたおかげ?

 チョット複雑な気分だけど、これで強制送還はなくなりました。グッジョブ、クソ兄貴ども。


「……迷子なの?家出なの?」


 彼はとても心配そうに聞いてくる。


「……家出」


 親身に成ってくれる彼にいたたまれ無くなって、素直に答えてしまった。すると彼はニッコリして。


「僕は牧田 正(まきた ただし)よろしくね」


 そう言うと、私の頭を撫でてくれた。


 マキタ、タダシさん。

 タダシでいいのかな? 

 いいよねって!


 髪型崩れるからワシャワシャしないでっ!

 こっ、子供扱いしないでよね、ったく。

 で、でも、あなただから許してあげてもいいけど。実際、チョット気持ちいいし……。


 彼女は生まれて初めて、だったのかも知れない。

 他人から優しくしてもらうのも、他人から撫でてもらうのも。


 人といるのが楽しいって思う事も。

 

 だからかも知れない。

 人嫌いの彼女が出会ったばかりの、ましてや見ず知らずの彼のこんな提案を、すんなり受け入れる事が出来たのは。


「とりあえず、ウチで一緒に暮らさない?」


「べっ、別にいいけど。……よろしく」


 鼻っぱしらをツンッとあげて、済まし顔のユキ。


「よろしくね、ゆきちゃん」


 彼は薄い唇を伸ばして、嬉しそうに微笑んでいた。


 そして今日からユキと彼との同棲生活もとい、共同生活が始まった。



 あれから一週間、タダシは私の顔写真付きのビラでお家探しをしてくれている。全然見つからないみたいだけど……。


 でも、もし家が見つかったとしても、私は帰る気なんてサラサラないし、タダシと離れたくないし……。


 言わせないでよ、恥ずかしい!


 あっ、改めて紹介するけど私の彼氏。

 名前はタダシで、料理が得意なちょっとイケメン。


 好きな食べ物は、ケチャップたっぶりのオムライスだって。フフッ、子供みたいでしょ。


 でね、タダシは大学生なの。

 今、大学の授業は、いもうと? リモート? どっち? とりあえずそうなんだって。


 だから、いつも一緒にお部屋にいるの。

 リモコン? ロリコン? あっパソコンだ、パソコン使って授業してるって。あと、卒業論文ってヤツを頑張ってるみたい。


 私も彼に感化されて頑張んなきゃって、お家のお手伝いをしてみたけど……。

 お料理はひっくり返すし、お洗濯はクチャクチャにするし、お掃除も逆に散らかるしで、私は家事全般ダメみたい。ショポーン。


 タダシは、僕がやるからユキは寝てていいよって言ってくれるけど。……私、こんなだから兄弟達に煙たがれてたんだなって今更思う。更にショポーン。


 仕方がないから、彼がお掃除をしている間に一人で大人しくテレビを観てたの。そしたら面白いニュースをやってて。


 なんだと思う? ねぇ、なんだと思う? 


 3・2・1・ブブー。時間切れでーす。


 正解は、この町にゴールドラッシュだって。川から砂金が取れるんだって。凄くない?


 ゴールドって、金、金だよね。お金だよね。アレッ、でもラッシュってなんだろう? ラッシュ、ラッシュ、炭酸系?


 テレビの前で首を傾げていたら、タダシも隣に座って一緒に眺める。タダシは溜め息を一つ着くと。


「……ゴールドラッシュか、興味無いな」


 ボソッと呟いた。

 だよねー、お金食べれないもんねー。汚いし。


「そんな事より、ユキ、遊ぼ!」


 そう言うと、隣の部屋でゴソゴソし始めたタダシ。


「遊ぼって、子供扱いして!」


 そんなことを言いながらも、満更でも無い顔でユキはタダシの元へと駆けて行った。



♦︎♢♦︎♢



 夏真っ盛り。

 クーラーの恋しい季節になっても、ユキとタダシは相変わらずだった。


 タダシはパソコンで授業を受けて、その隣でユキはゴロゴロと、って、この説明じゃ私ダメダメじゃん。

 せめて、言い方ね、言い方気おつけて。例えば、彼に寄り添っていたとか、彼を支えていたとか、彼を癒やしてたとか、っね!

 

 でも、惚気てもいい? 

 タダシ最近ね、私の事、可愛いって一日に何回も言うの!

 でね、でね、何回も抱きついてくるの! もー、彼の愛が重くて、こまるー。


 そう言いながら、忙しそうにキーボード入力しているタダシの横で、ゴロゴロ転がるだけのユキ。ダメダメだ。


 だけど楽しい共同生活なのは今も変わらない。

 このまま変わらないとさえ、思っていた。少なくとも、この時のユキとタダシは……。



♦︎♢♦︎♢



 秋も深まり、実りの季節が訪れた。

 風は少し冷たくなり、長袖姿が当たり前となっていた。


 ユキとタダシの生活は相変わらず、とは行かず少し変化が訪れていた。

 大学卒業も近付いて、就職活動やら何やらでタダシの周りも慌しくなっていたから。

 タダシ自身もこのまま大学院に進むか就職するか悩んでいた時期でもある。どちらにしろ、決断の期日は間近だ。



 タダシがまだ帰って来ない。


 ユキは時計を見た。

 もう既に、夜の11時を過ぎている。

 むー、と膨れるユキは布団に包まっていた。


 最近タダシが日中フラッっと出掛けていく。そのまま遅い時間まで帰って来ない日が増えていた。


 おかしい。おかしい。お、か、し、い、!!




 アパートの鍵を回す音。そして。


「ただいまー。ユキ〜、ゴメンね〜。遅くなっちゃって〜」


 私の不機嫌が一瞬で、ご機嫌に変わる。私チョロい。

 布団から飛び出してユキは彼に抱きついた。


「卒業論文が、教授に気に入られてさ。大学で実証実験してたら、こんな時間になっちゃった。ゴメンね」


 スンスン、スンスン。

 彼から香る香水の匂いで、話の内容が全然入って来ない。


「教授まだ若くて、凄い美人さんなんだよ。才色兼備って本当にいるんだねー」


 鼻の下を伸ばすタダシ。 タダシッ、きもっ!


 浮気?

 コレが浮気ってやつか!

 オンナ?

 教授ってオンナ!

 ケッ、可愛い子ならここにもいるだろ!


 クソ〜、呪ってやる。

 ノロケてた私が呪ってやる。


 クソ教授が、毎日犬のう〇こを踏むように呪ってやる!

 ププ〜ッ。クソ教授がクソまみれっ、プププ〜!


 斜めな思考で盛り上がるユキをそっちのけで、タダシは独りで妄想に耽る。

 

 だからタダシッ、私だけを見てっ!



 暫く経ったある日のこと、大学から帰って来たタダシがしょげている。

 溜め息ばかりのタダシが心配になって、私は理由を聞いてみた。


「教授が、アメリカの大学に講師として招かれてるらしいんだ。……悩んでたみたいだけど、アメリカ行きを決めたみたい」


 ハハッと、チカラ無く笑って肩を落とすタダシ。


 really。私の呪いが通じた! アー、ハーン!



 目の上のタン教授もとい、目の上のタンコブが居なくなる。


 オーホホホホッ、オーホホホホホッ!

 オホホ笑いが止まりませんわ。


 所詮、毎日犬のう〇こを踏む教授なんかと、ワタクシのタダシがつり合う筈ありませんのよ! オーホホホホッ、オーホホホホッ!


 勘違いの上、変なテンションのユキが悦に入る。


 私はあの人とは違う。あなたを置いて何処にも行かないよ。


 アピールを兼ねて、項垂れてるタダシを優しく抱きしめた。タダシもソレに応えてくれる。


 私、今すっごく幸せ。



♦︎♢♦︎♢



 年の瀬を前に、今年は例年に無くこの町は賑わっていた。

 降って沸いたようなゴールドラッシュに、便乗町おこしが上手くはまって、駅前の商店街は大賑わいを見せている。

 他県からの観光客も増えた道路も常に渋滞していた。


 そんな賑わう町の様子とは裏腹に、ユキとタダシの部屋は静まり帰っていた。寒々しい部屋の中は、物音ひとつ聴こえてこない。


 それもそのはず、ユキはポツンとひとり毛布にくるまり、ジッと彼の帰りを待っていた。


 あの日、タダシは買い物に出かけると言って、それから丸二日帰って来ない。こんなこと今まで無かったから。私、どうしたらいいか分かんない。


 ユキは、ただ、ただ不安だった。

 タダシの身に何かあったのかも、事件、事故にあったのかもと、ユキはこの2日間不安すぎて碌に食べることも、寝ることも出来ていない。


 タダシ、タダシ。早く帰って来てっ!!


 ユキの願いも虚しく、時間だけが過ぎて行く。

 とうとう三日目の朝を迎えてしまった。

 この三日間、部屋の中でひとりっきりのユキは、タダシとの楽しい思い出に浸っていた。


 独りぼっちの私を見つけてくれたタダシ。


 美味しいゴハンを作ってくれたタダシ。


 クタクタになるまで一緒に遊んでくれたタダシ。


 私が困っていると、いつも助けてくれたタダシ。


 いっつも優しくて、いっつも抱きしめてくれて、いっつも甘えさせてくれる。

 私、あなたに会えて初めて幸せだって思えた。生まれて来て良かったって思えた。



 タダシ! タダシ! ……あなたに逢いたい。



 ユキはアパートを飛び出した。

 当てもないのに、かつての自分が通った道、商店街まで続く道をユキは走っていた。


 今日は十一月二十二日、小雪の日。

 もうお昼近い時間帯で、商店街は既に人で溢れていた。道路も車で渋滞していて、一瞬、人と車の多さにひるむも、それでもユキは足を止めない。


 彼に逢いたい、その一心で──。


 人をかき分け、彼を探すユキ。

 誰かに踏まれ、蹴られそうになっても、それでもめげずに彼を探し続ける。


 あっ!

 チラッと道路の反対側に彼の姿が見えた気がした。車道近くまで体を乗り出すユキ。

 

 やっぱり、彼だ! タダシだ!


 にわかに笑みを滲ませるユキ。

 彼は頭と腕に包帯を巻いた姿で、人の波をかき分けていた。


 彼もまた、アパートまで急いでいた。


 出先で余所見運転の車に轢かれ、2日間意識不明の重体だった。今朝方目覚めて、半ば強引に病院を後にして来た。



 ひとえに、ユキが心配だったから。ユキに逢いたかったから。



「タダシ!」

 ユキの声は車の音に消され、彼に届いていない。


 ならばと、ユキは意を決して車道に出ると、渋滞中の車を避けながら彼の元へと走る。


 渋滞する車列を抜けるユキの元に、車の影から一台のオートバイが飛び出してくる。


 ユキがオートバイに気付い瞬間。


 ドンッ!

 衝撃で車道脇に転がるオートバイ。ユキの体も2m程飛ばされていた。


 衝撃音に気付いたタダシは、視線を車道に向ける。そこで目にしたものは、車道脇に転がるオートバイとライダー。


 そしてその先に一匹の雪のように白い猫。

 首から赤い名札を下げた、白い猫の姿が見えた。


 タダシの顔色がみるみる青ざめて行く。


 「ユキッ、ユキなのかっ!!」


 タダシは、車道に飛び出し白い猫の元に走った。


 ……最悪の結末。足元に寝そべる白猫はピクリとも動かない。雪のように艶やかな毛並み、まさしくユキそのものだった。


 アスファルトに広がる血の中に、ユキの体がとても小さく思えて。タダシは彼女を優しく抱き上げていた。


 鳴り止まないクラクションの中、もう二度と動かない彼女の体を抱きしめる。

 まだ温もりの残る彼女の体に、もしかしたらと期待をするも。抱きしめる彼女の体から何の音も聞こえない。


 心臓の音も聞こえない。


 むせび泣くタダシの姿が、クラクションの音と共に、いつまでもそこにあった。


 ……いつまでも、いつまでも、そこにあった。





  〜 十五年後 〜


 とある一件のお家の中で、いつもの朝の風景が始まる。


「ユイ!早く起きなさい!遅刻するわよ!」


「ん〜。あと5分」


 キレ気味な母親の声で目覚める。

 いつもの恒例行事に、気怠けだるげに応えるユイ。


「あと5分でバス来ちゃうわよ!早くしなさい!」


「分かった〜」


 布団から伸ばした手で制服を掴み引っ張り込む。

 モソモソと、コレまた女子らしからぬ端ない格好で着替え出すユイ。本人曰く、だって寒いんだもん。だそうだ。


 キッチリ3分で着替えたユイは、母親のいるリビングにのっそり顔を出す。


「あと2分!」


 母親の急かす声に。


「あーいー」


 コレまた呑気に応える娘に、母親は呆れ顔で溜め息を溢す。


 歯磨きシャコシャコ、同時に髪の毛とかして、口を濯いで、顔をパチャパチャ、キッチリ2分で。


「行ってきま〜す」


 とユイは、学校へ行った。


 まったく、あの娘は。

 台所でボヤく母親の声は、勿論ユイには届いていない。



♦︎♢♦︎♢♦︎



 この日、ユイは決断していた。

 受験真っ只中、中学三年生のユイは決断していた。


 本日、十一月二十二日、小雪の日。今日、必ず会いに行くと決めていた。


 というのも。

 一か月前から頻繁に見る夢の所為。

 もしかしたら、前世の記憶かも知れないと思う程、とてもリアルな夢の所為。


 私の町の出来事で、ユキと呼ばれた子猫の物語に、私はいつも泣きながら目覚めていた。


 なぜ、前世の記憶だと思うのか、だって。


 知ってる街並みに、私の最寄駅。

 そして何より子猫の感情がダイレクトに私の中に入ってくる。


 こんな夢、他にないでしょう。


 こんなに幸せで、だけどこんなに悲しい夢も無いでしょ。


 高校受験も控えてるのに、気になって、気になって、ユイはまったく勉強が手に付かなかった。

 

 放課後、やっぱり行こうかどうしようか迷ってたら、親友のミンミンに“どうしたの?”って、心配されちゃって……つい夢の事、言っちゃった。


 やっぱ親友って凄いよね。

 秘密にしてたんけど、すぐにバレちゃった。

 ちなみに、三浦さんだからミンミンね。安直? まーねー!


 私はミンミンに相談してみた。

 バカにされるかもって、秘密にしてた私の夢のこと。そして前世の記憶かも知れないってことも。

 前世の記憶って、ねぇ。変な宗教団体みたいで恥ずかしいじゃない。


 だけど、ミンミンは私の話を真面目に聞いてくれた。さすが私の心の友だ。あっ、コレ、ガキ大将のセリフだっけ、てへ♡


「やっぱ、行くっきゃないっしょっ」


 ミンミンは力強く即答。

 ありがとうミンミン。

 私に共感してくれて。

 しかも私とおんなじ答えを出してくれて。あなたが親友で本当によかった。


 ミンミンって、すごい美人で自慢の親友なんだけど。

 なんでチンチクリンな私と親友なんだろうっていつも思う。

 私の自慢は色が白いってだけで、他は良いとこ全然無いんだよな〜。


 でも自虐ネタに聞こえるのか、ミンミンったら怖い顔で、ユイユイには良いとこ一杯あるよって言ってくれるんだ……。


 彼女だけだよ、そんなこと言ってくれるの。

 お世辞でも嬉しいな。

 だって、親にもダメだししかされた事無いから私……。


 まぁ、いっか。

 ここから本音だよ。

 

 私の自慢は。

 優しくてアイドル並みに可愛いあなたと親友って事が、私の一番の自慢できること。なんだよ。


 ミンミンあのさ。

 親友でいてくれて、ありがとう。

 

 迷いの晴れた私は、夢で見た彼のアパートに行ってみる事にした。


 私も、着いて行こうか?ってミンミンは言ってくれたけど、何故か断ってしまった。なんでだろう?


 ユイユイも大人になったね!ってミンミンに言われて凄い嬉しかったけど。


 なんとなく自分で解決しなきゃって思えて、つい。


 でもせっかくの申し出を断っちゃったから、ミンミンに嫌な気持ちにさせたかなって思って……少しだけ後悔したのは、内緒だよ。



♦︎♢♦︎♢♦︎



 あまり行くことの無い、最寄り駅の反対側。

 夢で見た彼のアパートの前まで、私は来ていた。


 コッチ側の商店街は、私が生まれた頃は賑わってたらしいんだけど……。

 記憶にない。今は当時の面影さえ無くして、閑散としている。


 俗に言うシャター街だ。

 事実、治安も悪いから、あまり近寄らないようにしていた。


 あーっでも、やっぱり怖い。

 どうしよう。

 ミンミンの誘い断んなきゃ良かった。

 だけど、せっかくここまで来たんだし。


 彼のアパートの前でウロウロする私。

 終いにはあーっ、もーって、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。


 ダメだな私。


「……大丈夫ですか?」



 夢で聴き慣れた声がする。 

 恐る恐る顔を上げると、夢で見た彼がいた。

 実際は少しだけオジサンになった彼だけど、本物の彼だった。だから。


「あっ。……やっと、あなたに逢えた」


 私は、こう言っていた。

 そして、目からサラサラと溢れるしずく。えっ、なんで? ……私、泣いてる。


「ご、こめんなさい。ビックリさせちゃった!」


 彼は戸惑いながら、申し訳無さそうに謝罪する。

 ハハッ、人の良さそうな顔してる。本当に夢とおんなじ、いい人っぽい。


 彼はアイロンのかかったハンカチを手渡してくれて。

 私は人前で泣いたことの気恥ずかしさからか、奪うように彼からハンカチを借りてしまう。


 態度、悪かったかな?

 怒ったかな?

 

 涙を拭うフリで顔を隠して彼の表情を盗み見。

 いやらしいかな、私。

 

 ……彼、分かりやすいぐらいオロオロしたかと思うと結局、頭に片手を置いてシュンとした。


 この人面白いかも……。だから、私は。


「あの、私のことが分かりますか?」


 彼に意地悪な質問をしてみた。なんでって、だって彼、可愛いんだもん。


 エッ、エッ、親戚?

 学校関係かな?

 アレッ、職場?

 って彼、かなり混乱してるみたい。そこで私はもう一つ質問してみた。


「……ユキ。……ユキって覚えてますか?」


「アッ……」


 動きが止まる。

 彼は驚いたように目を見開いて。

 そして、懐かしむように微笑んだ。


「もちろん。僕の大好きだった子だから」


 過去形。

 仕方がないことだけど、少し寂しく感じてしまう。

 終わったこと、済んでしまったことだと。

 彼の中では精算されている事なのかと、思ってしまった。


 まだ、終わっていないのに……。

 だから私は、思わずこう言っていた。


「私、ユキの記憶を持ってます。ユキの想いも持ってます」



 彼は言葉にならない声で、口をパクパクする。

 次にそのまま視線を落として、黙り込んでしまった。


 早まった私!

 彼なら信じてくれるって、初対面なのに信じてくれるって勝手に思い込んで……。ユキに申し訳ない事をしたかも知れない。

 彼が拒絶したら、ユキの最期の想い、彼に言いたかった想いを伝えてあげられない。



 いまさらな私は、彼の反応を静かに待つ事しか出来ない。


「……人は?」


「エッ!」


 彼はボソッと呟いた。

 私は聞き取れなくて。

 優しい瞳で彼は、ゆっくりと口を開く。


「人は?」

「嫌い」


「雨は?」

「嫌い」


「じゃらしは?」

「大好き」


「教授は?」

「だいっ嫌い!」


 ハハッ、彼が笑った。


「ケチャップたっぷり?」

「オムライス」


 微笑んでいた彼の表情が、悲しみに変わる。


「……ユキ」


 そう言って、彼は大人なのに涙腺が壊れたみたいにポロポロ、ポロポロと大粒の涙を流した。

 周り目も気にせずポロポロ、ポロポロと、とても穏やかな表情で泣き始めたんだ。


 私は何も出来なくて、ただオロオロするだけで。

 だけど暫くすると彼、泣き笑いで「ありがとう」って何回も、何回も言ってくれた。


 私も思わずもらい泣き。良かった、良かったって。


 私の中にユキがいるってことが、ただソレだけで嬉しいんだって、彼が言う。


 ユキが事故で亡くなってから、彼も研究者志望から、獣医志望に変えたんだと語ってくれた。


 もう、僕みたいに、悲しい想いは誰にもさせたく無いから、と。そう、彼は私に告げる。


 大学も入り直したそうで。

 彼も人生の選択を変える程ユキを想っていたんだなって。

 思い出のアパートは、ユキが好きな部屋だったから、中々引っ越しする気にはならないって。


 ユキが好きなのは部屋じゃ無くて、あなたが部屋に居たからなのにね。フフッ、鈍感過ぎ。だけど、この人やっぱり面白い。


 ユキの気持ちからも分かる。

 彼は本当にいい人だと思う。

 私にもユキみたいに本気で想ってくれる人が側にいてくれたら、どんなに幸せだろうって。羨ましくなっちゃった。


 それじゃあ、伝えなきゃ。あの子の想い。


 消えゆく意識の中、ユキが最後に思った想い。


 私は彼に、ユキの最期の想いを伝えた。



 “あなたに、逢えて良かった”



 これがどうしても、伝えたかったユキの想い。私は、満面の笑みで彼に伝えていた。


 彼はユキの想いを受けて、屈託のない笑みで微笑むと。


 “僕も、君に逢えて良かった”


 私を通して、彼はユキに伝える。

 花が咲きみだれるように、心に暖な想いが溢れてくる。


 これは、ユキの想いなのか、私の想いなのか、もうどっちでも良かった。

 だから私も、私の口で彼に伝えよう。


 私の気持ちを。


「私も、あなたに会えて良かったです」


 と、すると彼も真面目に、こう答えてくれた。


「ありがとう」って。


 彼の歯に噛んだ笑顔が印象に残る。

 家の近くまで送るよと、前を歩く彼の背中に私はこう思っていた。


 私の名前は『結と書いてユイ』と読む。


 十一月二十二日、小雪の日。

 ユキと彼を結んだ私の役目は、これで終わり。

 ユキと彼が教えてくれたこと。

 人生は取り返しが付かない事だらけで、だから今を一生懸命生きるんだって、それが明日の幸せに繋がるんだって。


 ユキと彼が、私に教えてくれたことなんだ。


 それともう一つ、ユキが私に教えてくれたとても大切なこと。

 そのとても大切なことを胸に抱いて、私は、私の気持ちを彼に伝える決心を固めた。


「あ、あのっ。……わ、私と、友達になってくれませんか?……たっ、ただしさん」


 勇気を出したユイの告白が、尻窄みになる。

 彼女は全身を真っ赤に染めて俯いてしまった。


 そして彼、タダシは思いがけ無いユイの言葉にキョトンとするも。

 直ぐに破顔して、かつてユキに向けた笑顔のままに、春の木漏れ日のような暖かい眼差しで、私にこう返してくれたんだ。


「もちろん、こちらこそ」


 って、言ってくれたんだ。

 



 これは、ユイとタダシしか知らない白い子猫のお話し。

 移り行く世界の中で、変わらない想いもあると教えてくれた子猫の話。


 二人しか知らない小さな、小さな、愛情物語。




 終わり。

 

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