第8話 3 それぞれの生活の中で



 市木清田は友の娘の見舞いを終えると真っ直ぐに家に帰った。六畳一間の小さな部屋にソファーベッドとレターデスク、そして本棚。ソファーベッドは誰かが来ない限りベッドのまま。本棚には何度も読み返してボロボロになった本が数冊、其れ以外は少ないが適度の数の食器類が並んでいる。机の上には、今朝に飲み切れなかったコーヒーと灰皿が置いてある。最近では唯一ゆっくりと煙草が吸える場所。市木は煙草に火を付けると、咥え煙草のままでキッチンに行き、飲みかけのコーヒーを捨て、新たに湯を沸かしてカップにインスタントコーヒーの粉を入れた。湯気の立つヤカンからカップに湯を注ごうとした。が冷蔵庫に缶ビールが残っている事を思い出した。無職のフリーアルバイターが贅沢だな。そんな独り言を呟きながら机の隅に置いてある原稿を見つめた。書きかけの原稿には題名だけしか書かれていない。いつもそうなのだ。最初に物語の結末が出来上がり、独りで感動し、まさしく此の表題しかないと決め、と此処までは良い。全く出だしが書けないのだ。そんな調子なのでいつまで経っても原稿が出来上がったことがない。


 翌朝、目を覚ますとアルバイトへ行くための身支度をした。部屋を出て自転車の鍵を開けると颯爽と走り出した。以前のアルバイト先へ通っていた時は電車を利用していたが通勤ラッシュの人混みに揉まれる事が毎朝彼を疲弊させていた。所詮都会には向いていない人間なのだとつくづく思った。今のアルバイトに変えてから2週間しか経っていないが、例え都会でも自転車通勤ならば通り過ぎていく風を、その空気を胸いっぱいに吸い込むことができる。それだけでも今のアルバイトを暫くは続けられるような気がしている。

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