第7話 2 杉浦美咲の父
思わず蹴り飛ばしてしまった。大抵の場合がいつもこうなる。短気、癇癪持ち、イライラし続けるということは無い。気に触る事があれば既に怒鳴っているから。元来気の小さい方なので、いきなり暴力を振るうということは無いが、怒鳴り散らすことにおいては我慢するということは無い。我慢しないのだからイライラする事が続く事もない、かといって怒鳴った後にイライラがなくなるという訳では無く、まるで次の怒鳴るタイミングを待っている様に機嫌が悪い。と言う事は、やはりイライラは継続しているということか?幼い頃から甘やかされて育てられてきた所為だろうか。更には、いつも自分の考えは正しいと思っているからか。それを誰かが間違えて正そうとしてしまったなら、其れこそ議論の余地無し、怒鳴りながら自分勝手な理屈を平気で吐く。目を剥いて、唾を吐き飛ばしながら、近くに物があったなら其れを闇雲に叩きながら。
別にたいした事では無い。ほんの小さな失敗だ。それを失敗と言えるのであれば。六畳一間の小さな居間に有った父親が大切にしているラジオを食卓に持って行こうとしただけ。此の家では毎晩、できるだけ、家族揃って夕食を摂るようになっている(まさか!)。家族一緒に食事をしていても楽しい訳がある筈もないのに、あたかも自分は良き夫であり、良き父親であることを自他共に認めさせようとする様に、そして其れはまるでアメリカのホームドラマのようにどんな事があっても最後にはみんなが笑顔で分かり合えるような暖かな家庭のように、つまり彼の非現実的な理想と現実の我儘の為に家族全員が付き合わされる。
沈黙が苦しい食事の時間でも、多分、好きなラジオを聴いていればお父さんは喜んでくれるのではないか?運が良ければお父さんの大好きな野球中継でもあったなら少なくとも急に激怒する事はないだろう。いや、お父さんが応援している野球チームが勝ってくれたら滅多に見られない笑顔を見せてくれるかもしれない、そう思うと幼女は嬉しくなり自然と顔に笑みが浮かんでしまう、勿論其れは余りに幼稚な発想として。然し、父親の反応は溶岩が人に変化したかのような真っ赤な顔をして、「いったい其のラジオをこんな所に持ってきて、どうするつもりだ」。どうするつもりも無く、ただ父親に機嫌良くなってもらおうと思っていただけだから目を丸くして驚いて佇んでいるだけ。更に悪い事には、幼女の顔から笑顔が消えていなかった事。それは今から爆発する熱されたガスボンベに火薬を足してしまった様なもの。「ちょっとくらい考えて行動したらどうなんだ!」幼い子にそんな事を言っても無理、無理を承知で此の男は怒鳴る。最初は驚きのあまり丸く開かれていただけの瞳からは涙が流れる。何故に怒鳴られたのかも分からない事と恐怖に、涙は溢れ出し、止めどなく流れ始めている。既に笑顔はなくなっており、代わりにだんだん声が出てくる。抑えようとすればするほど泣き声が止まらなくなって行く(おとうさん、ゆるして、わるいことしたんだったらゆるして、おとうさん、おねがい)。状況は更に悪化の一途を辿り、父親の怒りは、今度は止まる事を知らない幼女の泣き声に向かっている。「いい加減にせんか!」と幼女の足を蹴るつもりであったが(確かに蹴るつもりだった、しかも加減なしに!)。
それは運の悪いことに幼女が泣き崩れて跪きそうになった瞬間だった。狙いは外れて足の腿から胸に移ることを余儀なくされる状況であった。父親は、足の親指に鈍い音のする感触を味わった。其れは乾燥した板を割る様な乾いた感覚では無く、タオルを巻きつけた薄い板を叩き割ったような内部で裂ける嫌な湿った感覚。父親は初めて、しまった、と思った。然し、時既に遅し。気の小さな狡い男は、妻に此の状況をなんとかしてもらおうと横目で見たが、妻はとっくに食事をほったらかしにして、素知らぬ顔で内職を黙々と初め出している(此の状況で!)。
父親は途方に暮れ、更に馬鹿なことに途方に暮れた自分と、途方に暮させたのはお前の所為なんだと言わんばかりに妻への怒りを露わにしながらも、さっさと明かりを消して大袈裟に音を立てて一人布団に潜り込む。
何も変わらない。変わるはずがない。誰も変わろうとしない。どうすれば此の状況を変えられるのだろうか?
スイッチの切られていないラジオからはシーズンオフの野球中継など放送される訳もなく、どこかの警察が何かをしでかした犯人を徹底的に捜査して、やっと捕まえたというような報道の音だけが誰一人として聞く者のいない部屋の中で、小さなスピーカーから流れていた
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