第3話 2 梅本一義の場合
特に勉強ができたという訳でもない。
ただ飼っていた犬が死んだ。
死と初めて直面した瞬間だった。
高校生としては当然ながら人生の経験も少なく、多くの悲しみを何度も乗り越えてきたと言うわけでもない。
だから死というものを深く考えることができる筈もなかった。
然し彼の心は多感な部分が多く、其の分、傷つきやすい性格でもあった。
暫くして飼い犬と過ごした日々が少しずつ浮かんでは消え、そんな日々が続いた。
彼は思った。
こうして飼い犬と過ごした日々が蘇っては来るが、大好きな犬と過ごした日々は、今は無い。
死とは、そういうことなのか?
若しも自分が死んだら、思い出してくれる人はいても、死後の世界が有ったとしても、この世界で生きていた自分は無くなる。
それは自分の存在全てが無くなり、其れ以外のものは、いつもと変わる事なく時間が過ぎていくものだろうと。
そして思う。
この世界から自分という全てのものが無くなるのなら、どんなに恥ずかしい思いをしても、どんなに汚れる様な生き方をしても、全てが無くなるのなら、そんな事実に苦しむ事もなく、悲しむ事もなく、一生懸命に生きていけばいいじゃないか?
彼が医学部を目指したのは、そんな理由からだった。
例え其れが根本的な理由ではなくとも将来を考えてみるきっかけになったことは確かだ。
通っていた高校は有名な進学校でもなく、彼自身も優等生という訳ではなかった。
がむしゃらに勉強するしかなかった。
其れでも医学部合格には手が届くには至らなかった。
そんな矢先に大きな地震が街を襲った。
被害は甚大なものであった。
建物という建物が崩壊した。
そして人々の生活も。
決して消してしまうことの出来ない悲しみに包まれ、人々は本当の恐怖の意味を知った。
高校へ通うことなど夢にも思えない状況であったし、彼自身も進学の夢を諦めていた。
そんな日々を過ごしていたある日、近隣の街で被害の少なかったビルの何室かを開放して無料で授業を行うという知らせが届いた。
全国にチェーン展開している有名な進学塾が進学を目指す高校生の為にチャンスを与えたのである。
彼は志願した。
どうしても進学したいという気持ちからではなく、こんな時だからこそ何かをしなければ、そんな思いで入った進学塾だが、進学することを前提にした授業は彼にとって充分だった。
再び医学部への思いが蘇ってきた。
講師陣は震災被害の全くなかった他府県から集まってきた進学のためのプロ集団だった。
そして、其の効果は的面に現れた。
どの大学の医学部を受験するか照準を合わせ始めた秋、どこかぎこちないが落ち着いた感じでゆっくり歩いてくる一人の男が声をかけてきた。
市木清田である。
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