第9話 熊と毛虫と兎
北の村からの帰り道は相当に怖かった。動物が起きだしてきているのか、歩くだけでそこかしこで茂みが揺れる。ホーンラビットも何匹か飛び出してきたけどダッシュで潜り抜けて走って帰ってきた。もしもステータスに素早さとか回避の項目があったなら、今日でだいぶ上がった気がする。
北の村で武器は購入したけれど、いくら武器を手に入れたと言っても、使う練習もしていないしいきなりの実践はキツイ。何となくで村への移住を断ったのは失敗だったか。
「うわあ、せっかく湯浅邸に帰って来れたのに……ティモ、あれなに?」
「きゃたぴらー」
湯浅邸の正面の扉に黒い毛虫がへばりついていた。その大きさは一メートルはあるように見える。数センチの毛虫が肩についただけでも半狂乱になるくらい虫が嫌いなのに、それが尋常ではない大きさに育っている。鳥肌がすごい。しかしキャタピラーって緑色のイモムシではなかっただろうか。
「あれ毒とか持ってたりする? 攻撃してくる? そもそもどうやって倒すんだ? ウサギみたいに倒し方によって値段変わる? ってかあれ売れる?」
「わかんない。でも売れる」
「ティモはそういう事だけは詳しいな……」
槍を構えてキャタピラーという名の毛虫にじりじりと近づく。俺たちが湯浅邸に入れさえすれば、結界があるだろうから何とかなるかもしれない。一番リーチのある槍でツンツンと突くと、あっけなく雪の積もった地面にボトリと落ちた。毛虫は春先にいる生き物じゃないのか。
「今のうちに中に入ろう! 中から突っつこう!」
ティモを抱えて全速力で湯浅邸へ入る。毛虫は開かれた扉の隙間から入ってこようとしているが、結界に弾かれるようで扉が開いていても中には入れない。間近で見るとさらに気持ち悪い。
「くまー」
「熊も来た?! タイミングギリギリだったな! でもやっぱり熊の大きさおかしくないか?!」
森の木の間から、大きな大きな熊が姿を現す。以前見たことのある熊と同じくらいの大きさで、大型ワゴン車くらいの大きさと重量がありそうだった。
熊は獰猛な顔をしながらのっそりと湯浅邸の近くまで歩いてきて、地面に落ちている毛虫を迷わず掴んで噛みついた。そんな、そんな風に嚙みついたら、口の中が大変な事になるんじゃないでしょうか。体液とか飛び散るんじゃないでしょうか。うちの前でやめてください。
「……あの毛虫の体液、やっぱり紫色だな。魔獣は虫類でも紫色なのか?」
「わかんない」
「分かんないよなぁ……」
毛虫はしばらく抵抗していた様だったが、熊が何度も噛みつくと次第にぐったりとして動かなくなった。熊は美味しそうに毛虫を食べている。美味しそうかどうかは俺の主観によるものだけど、美味しくなかったらあんなにむしゃぶりつくように食べないと思う。
たっぷり時間をかけて前菜を食べ終わった熊は、次はメインディッシュとばかりに俺達を睨みつける。
「うわ、目があった! また体当たりする気かも。でもこの木の槍じゃ当たった時に折れるかもしれんな……」
「ティモがぼうでたたく!」
熊は湯浅邸から離れたかと思うと、助走をつけて湯浅邸へと突進してきた。すごく迫力があって、槍で突くことも棒でタイミングを合わせて叩くこともできない。結界があると分かっていてもひたすらに怖い。
ティモは倒す気のようだったが、明らかに筋力もないから無理だろう。ティモを抱きかかえて抑え込んで様子を見守ることにした。熊は諦めずに何度も何度も湯浅邸に体当たりを仕掛けてくる。何度目かの突進で、一際大きな音と振動が来たと思うと、熊は脳震盪を起こしたのかその場にあおむけに倒れてしまった。
「うわあ……デジャブ。バカなの?」
「ティモがくびをきる!」
ティモは剃刀を持って飛び出そうとしたが、こんな入り口に近い場所で流血沙汰にしたくないし、斬られた痛みで熊が起き上がるかもしれないから全力で止めた。
洗面台の下の扉を開けて、以前使用した混ぜるな危険の掃除用具たちを取り出す。足音を立てないようにそっと熊に近づき、倒れている熊の鼻の近くに第一剤を垂らす。起きそうにない、よかった。自分の鼻をつまみながら第二剤をその上に垂らす。そしてすぐに湯浅邸に戻って扉を閉め、ティモを抱えてタブレットを見つめた。
突進を受けている時は見ていなかったが、今タブレットに表示されている熊を示すマークは紛れもなく赤色だった。その赤色の丸が薄くなりやがて灰色になる。
「それなに? どくぶつ?」
「毒じゃないんだけどな、混ぜたら毒のようなものになるんだ。前にも熊に使ったらうまいこといったんだよ」
「あかいのがてき?」
「そうみたいだ。赤が敵で、灰が死亡みたい。この青いのがティモだ」
室外なのにやはり効果はばっちり出たようだった。もしかしたら地球の化学物質は、異世界の動物や魔獣にものすごく効くのかもしれない。周囲に蔓延してるであろう気体が薄まるまでたっぷり時間をおいてから扉を開けてみると、熊はピクリともせずに同じ場所で倒れていた。
マップの赤丸は完全に灰丸になった。キャタピラーは熊が食べてしまったからもうタブレットには認識されていない。ティモ情報によるとキャタピラーは売れるらしいので少しだけ惜しい事をしたかな。
「汗かいたな……熊はあとで何とかするとして。お風呂はいろうか」
「うん」
遠くの空を見上げると、惑星チョコレートのような色とりどりの球体が変わらず浮いていて、煌々と俺たちを照らしていた。
武器を手に入れてから二日が経った。二日間で分かったことは、湯浅邸の中でしか使えないと思っていたタブレットが、足湯の範囲内でも使用できた事だった。けれど足湯から一歩でも出るとタブレットの電源が落ちる。だから初めて訪れた土地にタブレットを持参して、ここに風呂を建てよう、タブレットセンパイお願いします、は出来ないのだった。一度既存施設に戻る必要がある。
ずっと室内にいても気が滅入るし、結界のある屋根付き足湯でひなたぼっこしながらタブレットで辺りをチェックするようになっていた。
北の村の人達が何色の丸で表示されるのかを見ようとしたけれど、一定距離を離れてしまうと人や動物は表示されないようだった。村への道や村の中の建物などはマップに表示されるようになったので、今度はまっすぐ村に行けそうだったけども。
あれから熊は来ていないが、ホーンラビットとキャタピラーはちらほら現れている。
「やはり現代日本人の平和ボケした俺には、武器を使って生き物を殺傷する事など出来ないのであった」
結界の内側から野球のバッドを振るう要領でホーンラビットに当てることは出来るけれど、見た目が角の生えたウサギという事もあってなかなか力を込められない。これが見た目の気持ち悪いカエルとかカナブンとかなら全力でいけるのだろうけど。いや、それはそれでダメだ。嫌悪感が先に立つ。キャタピラーも中身が飛び散りそうで気持ち悪くて全力で叩けないし。
小説では最初の頃ビビっていた主人公が、何匹か倒したあたりで耐性を取得して平気になって無双するとかあるけれど、俺にはそれはいつまでも出来そうにない。そもそも俺は主人公なのだろうか。
ホーンラビットが運よく頭を打って脳震盪を起こしてくれたなら、その時は混ぜるな危険の液体で処理をする。命を奪っていることは同じだけれど、罪悪感が全然違った。ティモは疲れて動きの鈍ったホーンラビットに限り、剃刀とナイフで迎え撃っている。キャタピラーは北の村で購入したナイフで胴体を斬りつけて倒していた。主にティモが。この幼児が恐ろしい。
「二日でウサギ五羽とキャタピラーが三匹かあ。ウサギは角が綺麗だから8,000リブルで買い取ってもらえたとして40,000リブルで、キャタピラーはどうなんだ? ティモ、これいくらで売れるか知ってる?」
「わかんない」
「分かんないよなぁ……」
対策が必要だった。いつまでも脳震盪を起こすのを待っているわけにはいかないし、剃刀やナイフだって切れ味は落ちてくる。混ぜるな危険も残量があるのでしばらくは何とかなるだろうけど、それもそのうちなくなる。
「そうだ、この足湯の周りにさ、木箱みたいなの並べて置いておくのはどうだ?」
「きばこ?」
「木でできた箱を、この周りを囲うようにずらーっと並べておいて、ウサギが突進してきて跳ね返って落ちた箱に分厚い板をかぶせるんだ!」
「どうなるの?」
ホーンラビットは単独行動をするようで、一度に一匹しか現れない。なので一匹に標的を絞って対処する事が出来そうだった。ホーンラビットを目当てに熊が出て来たりしたら結界から出なければいい。
突進してきたホーンラビットが結界に弾かれて足元に置いている木箱の中に落ちれば、その上から分厚い板を被せて上にティモを乗せる。そうすればホーンラビットは箱から出られないはず。被せる板の隅に小さな穴を開けておいて、その穴から混ぜるな危険の液体を流し込む。すると元気なホーンラビットにも気体を吸わせることが出来るのではないかと思ったのだ。しかも換気できないから液体が少量で済みそう。
「木箱……北の村に行けば余ってるのとか売ってくれるかな? もしなかったとしても、依頼して作って貰えるか聞いてみよう。日曜大工とかDIYは出来ないし。商人のドミニクさんも全然来ないし、倒したウサギもついでに村に買い取ってもらってさ」
「きゃたぴらーとくまは?」
「毛虫はキモくて触りたくないから持って行かない。熊は重いしなあ……」
翌朝は前回と同じように朝早くに北の村へと出発し、前回よりも早く到着した。
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