櫻 まさし

 高校に入学した時からサッカー部のマネージャーになると決めていた。



 そんな確固たる理由があったわけではなくて、もう自分がスポーツをするのはいいかなと何となく思ったからだ。とくにサッカー観戦が好きとか、昔やっていたというわけではないから、「なんでサッカー部のマネージャーやってるの?」と聞かれると答えづらい。サッカーが好きだとか適当にごまかしていると、今度は「男ばっかりで嫌じゃないの?」「女子ひとりだとつらくない?」と聞いてくる。



 実際にはサッカー部のマネージャーは私ともうひとりいる。一つ上の先輩で、はじめ入部した時は懇切丁寧にマネージャーの仕事を教えてくれた。しかし彼女はだんだん休みがちになって、ついに来なくなった。部長曰く彼女は「遊び人」らしい。



 サッカー部の部員はひとりの私にフレンドリーに接してくれた。練習中は先輩が絡んできて「サッカー部イケメン王決定戦」の審査員をやらされたし、部活終わりには同学年の部員たちが「罰ゲームはマネにジュースおごりな」と言ってゴールポスト当て大会を開催し、そのたびに私はオレンジジュースを飲んだ。イケメン王に認定された部長はときどき「困っていることがあったら言ってね」と言ってくれたし、他に女子がいなくて困ることはあまりなかった。



 ただ一人、とても静かな先輩がいた。杉将暉すぎまさきという。彼は「イケメン王決定戦」には参加していなかったし、ジュースをおごってくれたこともなかったから、私が彼を認知するのは随分後になってからだった。



 杉先輩と帰りの電車で鉢合わせたことがある。ちょうど制服が夏服に替わるころだったが、それまで下りの電車に乗って帰るサッカー部員は私ひとりだけだと思っていた。彼はシートの端にもたれかかって寝ていて、私はその様子を伺いつつ彼から一番遠い席に座った。電車が最寄り駅に着いて私が降りるとき彼はまだ爆睡していて、起こそうかどうか迷ったが結局やめた。その日はずっと彼が無事に家に帰られたかどうかが気になって仕方がなかった。



 それから、ときどき私は杉先輩を帰りの電車で見るようになった。私が電車に乗り込むと杉先輩は既にシートの端に座っている。杉先輩が起きているときはいつも声をかけようかどうか迷った。一応部活の先輩なんだし挨拶した方がいいかもしれない。でも挨拶をしたらその後隣に座る流れになりそうだ。それは気まずい。「お疲れ様です」と言いながら前を通り過ぎようか。


 毎度頭の中で葛藤しながら、結局話しかけずに対角のシートの端に座る。無言が気まずくて何度か話しかけようとしたができなかった。もっとも、気にしているのは私の方だけだっただろうけど。




 杉先輩は左サイドハーフで、とても正確なセンタリングを上げる。右にギュンとカーブするキックは近くで見ると怖かった。実際、試合でも杉先輩のアシストで何本もゴールが決まったが、杉先輩が喜んでいるところは見たことがなかった。思えばそのころに部内で話したことがなかったは杉先輩だけだったと思う。他の部員は私に気軽に話を振ってくれたりちょっかいを出したりしてくれるのだが、杉先輩は違った。




 そんな杉先輩が、初めて話しかけてくれたのは夏休みに入ってすぐの頃であった。刺すような太陽光から肌を守るため日焼け止めを塗りたくって日陰に避難していると、杉先輩は走ってこちらにやってきて「爪を切ってくれないかな」と言った。




 杉先輩は自分で爪が切れなかった。



「爪ですか?」

「そう、爪」


爪切りならたしか救急バックのポケットの中だ。取り出して杉先輩に差し出すと「それじゃないんだよね」と言って反対側のポケットから白い爪切りを取り出した。柄にマジックで「すぎ」と書いてある。


「マイ爪切りですか」

「僕はそうしたかったけどみんな使ってるよ」

「何か特別なやつなんですか」

「いや普通の爪切りだよ。ここに爪切りがあるって知らなくて、家からパクってきたんだよね」


 家から持ってきたのならパクるとは言わないのでは?と思ったが、しかしそれ以上に、この人はこんなにしゃべるのかと驚いた。


「ということで僕の爪を切ってくれない?」

「え、私が切るんですか?先輩の爪を?」

「他のみんなは練習中で手が離せないと思うし」


 離せないのは手ではなくて足だろう、という冗談は飲み込み、私はその白い爪切りを手に取った。




 それから私は時々杉先輩の爪を切るようになった。爪を切るわずかな時間は静かな先輩との貴重な会話の機会となった。私は自分から話さない先輩に代わっていろいろと話題を振り、その甲斐あって杉先輩の生態が徐々に明らかになった。




 杉先輩は中学生の時まで母親に爪を切ってもらっていたそうだ。しかし高校生になった先輩は母親に切ってもらうのが恥ずかしくなり母親に「もう爪は切らなくていい」と言ったが、自分で切るのは怖いので結局今まで友達に切ってもらっていたのだという。


「先輩反抗期ですか」

「自立です」

「お母さんは息子の親離れを悲しがったでしょうね」

「うちの母親はもう息子の爪を切らなくていいことを喜んでたよ」



 杉先輩の最寄り駅は私が降りる駅のひとつ先だった。先輩の家は案外私の家と近く、川を挟んだ反対側だった。もしかしたらすれ違ったことがあるかもしれない。


「そういえば先輩、電車で爆睡してた日ちゃんと寝過ごさずに降りられたんですか」

「いつのことを言っているのかわからないけど、電車で寝てるときは五駅は寝過ごすね」

「家に帰るのもひと苦労ですね」

「まあ、母親に車で迎えに来てもらうから」

「自立は諦めたんですか」




 そのころから電車で杉先輩に遭遇すると、私は隣に座るようになった。「お疲れ様です」と挨拶すると先輩は短く「おう」と返事をし、再び静かになる。やはりこの先輩には他の部員のような気遣いがない。女の子に気を遣わせてどうするんだと心の中で文句を言いながら会話のネタを探す。



 杉先輩は犬を世界で一番愛していると言った。

「知ってる?犬も爪切るんだよ」

「そうなんですか」

「うちの犬は爪切るときにいつも暴れて大変でさ」




 杉先輩は無口ではなかった。自分から話しかけることをしない人なのだろう。先輩から話しかけてくれるのはそれこそ爪を切るときだけだった。






 ブレザーを羽織る季節になると私はほぼ毎日杉先輩と帰るようになった。部活終わりでもまだ明るかった車窓はもうまっくらだ。


 そのころの私は悩みを抱えていた。イケメン王の部長に映画デートに誘われ、よくちょっかいを出してくる同じ学年の部員に告白されたのだ。必然的に電車の中は私の悩み相談及び愚痴大会となった。


「先輩、断り方を一緒に考えてください」

「個人的には両方にOKしてほしいな」

「面白がってます?」


 対して杉先輩は、取り立てて興味を示すわけでもなく熱心にアドバイスをくれるわけでもなかった。ただの雑談のネタとでも思っているのだろうか。




 先輩はまるで完結しないアニメのようだ。毎週テレビをつければ同じ時間にやっていて、何年何十年と終わることなく笑いと安心を届けてくれる。でも主人公の恋が叶うことはないし、学校を卒業することもない。同じ時間をぐるぐると回っているのだ。



 そもそも女子の相談相手なんて男として逃せないチャンスではないか。恋愛相談から始まる関係など腐るほどある。優しく相談に乗ってくれる先輩はポイント高いのに。





 桜の季節になると、杉先輩は3年生になって私は2年生になった。うちの学校は進学校なので3年生はインターハイで負けたら引退である。



  その初戦が1週間後に迫ったある日、杉先輩はいつものように爪を切りに来た。

 初戦の相手は毎年ベスト8に入るような強豪で、部活にはあきらめムードが漂っていた。


「もしかしたらこれが最後になるかもしれないね」


 先輩は私が言うまいと心に決めたセリフを平然と言った。


「なに弱気なこと言ってるんですか。次の試合でゴール決めないともう爪切りませんよ」


 杉先輩は「それは困ったな」と軽く笑った。







 その日の部活はオフだったが、マネージャーは昨日使ったビブスの洗濯をして試合の荷物を片付けないといけない。面倒だから荷物は後にしようと考えながら洗濯カゴを抱えて部室のドアを開けると、そこには先客がベンチに座っていた。


「先輩なにやってるんですか」


杉先輩は爪切りをぎこちなく持ち自分の爪を切っているようだった。


「言ってくれれば私切るのに」


洗濯カゴを地面に置き先輩の隣に座る。


「今日はオフだよ」

「でも昨日ゴール決めたじゃないですか。かっこよかったですよ」


私は先輩の手から爪切りを奪って爪を切り始めた。


「でも僕はもう、サッカー部の部員じゃないよ」


 突然、涙がぶわっと溢れそうになって必死で抑えた。いつも通り話そうと思っても、今にも嗚咽が溢れ出てきそうで声が出せない。カチ、カチ、という音だけが部室にやけに響く。


「昨日までは、この2年間が長かったと思ってたけど、今はすごく短かった気がする」


 杉先輩は懐かしむように天井を見上げていた。


「やっぱりマネさんに切ってもらうのは贅沢だったな。こんなに質問攻めにしてくる人は初めてだったけど」と言って先輩は笑った。

「そんなこと言ったって、もう爪を切らなくていいと思ったらせいせいしますよ」


私は杉先輩の母親の話を思い出した。きっと彼女もそう言って強がったに違いない。


 左手の小指の爪を切り終えると、私は顔を見られたくなくてうつむいた。外で野球部がジョギングをする声が聞こえてくる。


「今まで本当にありがとうね。こんなこと頼んじゃって」


 気を遣って話しかけてくれるのなら最初からそうしてくれればいいのに。いつも適当なくせにこういうときだけさ。




「マネージャーじゃなくても、また先輩の爪切りますよ」


 最大の勇気を出して言った言葉を、先輩は気付いて受け止めてくれるのだろうか。


「いつでも、切ります」



 杉先輩はまたいつもの先輩に戻って「僕いま反抗期だからな」と笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

櫻 まさし @sakura_masashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ